Entry2
美しい人
百
春の日の午後だった。
小学校から帰ってきた私は、廊下のつきあたりで寝そべり、庭の池の方を見つめていた。
母は死んだ金魚を掬おうとしていた。
母と私はそれぞれの方向から、池の水が揺れるたびにきらめく輝きを見つめていた。緑色、茶色、黄金色、そして透明にも見える水が粘っこくて、つややかで、なめらかな物体に見えた。
母は美しかった。
それにしても、長い廊下の向こう側に並ぶ部屋のなんと暗いこと。
玄関から声がし、母は池に伸ばしていた手を止めると、私を見やってから立ち上がり、玄関に向かった。玄関の引き戸がりりりりと鈴の音を立てて開くのが聞こえた。
私は這い這いして母がいた場所まで行った。暗い空洞の向こうに明るい玄関が見え、上がり口に座っている母の後姿とたたきに立っている男の人がやや影のように見えた。
お兄ちゃんだ。母の従兄弟で私も何度か遊んでもらったことがある。そちらへ行こうと半身を起こした時、池の中で長い魚体がきらめいたのが見えた。
池の主?
私は思わず身を乗り出して池の中を覗き込む。
こわい顔をした魚がいた。
雷魚?
小さな丸い目。とんがった鼻。きつく結ばれた口。
見ているうちに、なんだかおばあさんの顔に見えてきた。
見たことがあるような……。
目と目が合った。魚が、いや、おばあさんが口を開けて飛び掛ってきた。
目を見開いて、言いながら。
「オマエハコノイエノコデハナイ」
私は悲鳴をあげて腕で顔を覆った。そしてそのまま、池の中に落ちていった。
気がつくと廊下に寝かされていた。
寒い……。
お兄ちゃんが頭の方に、母がすぐ横にいた。お兄ちゃんはびしょぬれだった。そして私も。母は涙目で私を見ていた。髪が乱れていた。また、私は、母は美しいと思った。
お兄ちゃんは出征し、帰らぬ人となった。
母は美しい横顔を歪めることなく、その一報を聞いた。
あんなに親しくしていた人なのに……。子どもの私には母の気持ちのありようが不思議だった。
母は私が成人してこの家を出るのを待っていたかのように死んだ。
私は死んだ母に会わせてもらえなかった。
今でも、春の陽だまりの中にいると、あの時のことが思い出される。
母にとって、従兄弟は私であり、お兄ちゃんにとって、母は私なのだ。私が生きていれば、母もお兄ちゃんも生き続けているということか。
家の中は暗い。母が閉じ込められている。でも、母は美しかった。