Entry1
17teen
弥生
「表現には、必ず余白があると思いませんか」
そう言ってその人はオレンジ色のチョークの粉がついた手をパンパンと叩いた。柔らかな日差しがカーテン越しに差し込む教室で、彼の言葉をはっきりと記憶したのは多分私だけ。「6時間目の現文」は受験勉強に追われる私たちにとって貴重な睡眠時間で、先生もそれを知っているから、テキトーに板書をしながら独り言みたいに自分の好きな話をしている。私はその「どうでもいい話」を真剣に聞きながら「テキトーな板書」を必死にノートに書き写す、ふりをしている。そうしていた方がウケがいいと思ったから。少なくとも初めて授業を受けた日には。
その頃の私は、もう以前の私には戻れないような気さえしていた。授業中にノートをとっている時も、家に帰る途中の街灯の下でも、寝る直前のベットの中でも、同じような考えがむくむくと生まれてきて、そしてその考えは私の体から一歩も出ない代わりに、どんどん膨らんで、私の内臓を、皮膚を、内側から圧迫する。
たまらなく苦しくなっていた私は、その考えを口に出す代わりに全然違った対象に、他の言葉を乱用していた。その言葉を発すると、相手は決まって私の身体に触れて、私の目を見て確認した後、また身体に触れて、それから私の中に入ってくる。そうすることを最初から望んでいた訳ではないけれど、したあとの私は自分でもびっくりするほど心が軽くなっていた。
「もっと神経質なんだと思ってた」
朦朧とした意識の中で相手にそう言われると、「私もそう思ってた」としか答えが思い浮かばなかった。彼は、苦笑する。気の利いた言葉を返せないくせに、私のほてった両腕はいつまでも彼に巻きついていた。
「文学作品だけじゃなく、日本人は会話にも余白を持たせたがりますね」
先生の声は、寝息しか聞こえない教室でよく響いていた。私は先生と直接会話をしているような気がして落着かない気持ちを隠すように必死でノートをとった。
「ある言葉を言うという事はある言葉を言わないという事と同値ですからね」
そう言ったあと、眉間に皺を寄せながら眼鏡を指であげる。その仕草を目で追っていたら、左手薬指の指輪がきらっと光った。殆ど同時に窓から吹き込んできた風が使い込んだ教科書をパラパラと捲って、私は少しだけうろたえながら、その指輪からつかみ所の無い先生の生活を想像した。
全部、17の頃の話だ。私は今もそれほど変わっていない。