Entry2
あっさりマエストロ
SuzzannaOwlamp
黒い影が谷を尻目に赤く染まるころ光は真っ白になるまでその輝きを止めることを知らなかった。たらちねの母山の頂きには一点の曇りもなく、また激しい鳥の声も聞こえはしなかった。そういう時の事である。慟々とうねりを上げる海から一人の男が歩いてきた。男はぬれた髪をかき上げながらその容貌を明らかにした。髪は長髪で、少し風にたなびく白のワイシャツが彼の過去の気品の高さを窺わせた。ずぶ濡れになった体を乾かそうと彼は服を脱いだ。引き締まったその体から見て、まだ四十にも満たない様子だった。干からびた私の体から、冷や汗にも似た脂汗がじわじわとにじみ出るのが分かった。私は彼の元に駆け寄り、声を掛けた。失礼ですがあなたのお名前をお聞かせ願えますか。
何も言わなかった。
それが彼の全てを物語っているようで少し寂しさを感じた。私は彼を私の家まで招待し、軽くシャワーを浴びてもらった。彼はお礼にと、家にあったピアノの前に座り、美しい旋律を奏で始めた。楽曲名までは分からないが、とても心を癒す音楽だった。彼の奏でる旋律は、どこか物憂げで、どこか懐かしい気分に私を酔わせた。幸せなひと時は終わり、少し間の空いた声で、水が欲しい、と言った。水道からコップに水を移し、彼に手渡した。喉音を立てて水を飲む仕草は、オットセイを思わせた。私はじっくりその様子を見、そうしてこう尋ねた。その音楽はどなたから学んだものですか。あまりの美しさに戦慄が走ったことは言うまでもない。彼は何も答えないであろうと踏んでいたが、あっさりマエストロだと答えた。それ以上踏み込んだ質問はできない。彼には彼なりの私情があるに違いないのだから。家にいるその男を見、私はこう思った。なぜ海からやって来たのだろう。当然の疑問だった。しかしその疑問はすぐに解消した。彼の腕には包帯が巻かれていたのである。山裾のこんな小さな海岸に打ち上げられたのだ。よっぽどの船だったに違いない。それでも尚、私が彼に関心を抱いたのは、恋心にも似た感情を抱き始めていたからかもしれない。その可能性を疑う余地はゼロに近かった。なぜなら心臓の鼓動が高鳴り、彼の顔を見るたびに、心が豊かになっているのが自分でも手に取るように感じられたからである。
次の朝、彼はどこにもいなかった。仕方のない空虚感に苛まれ私はラジオの電源をつけた。すると、ラジオから流れ始めたのは、昨日の彼の美しい旋律だった。