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悔しさの涙
小笠原寿夫
「お父さん、ちょっと醤油取って。」
お父さんは、何も言わずに、醤油差しを差し出した。お母さんは、それを小皿に垂らした。
「学校の勉強楽しいか?」
お父さんは、ハマチの刺身を箸で取り、私に尋ねた。
私は、頷いた。
「今日、運動会の話聞いた。」
私は、やっとの思いで、口に出した。そしてマグロの刺身を頬張った。ビール瓶を持ってきた弟が、お父さんのグラスに注いだ。
「あんた気が利くなぁ。」
お母さんが、初めて口に出し、私は、閉口した。白米を口に掻き込んで、私は、テレビの方を向いた。
バラエティ番組を演っている。
私の家族は、四人家族。昭和の時期に各家族化が進み、三世帯同居の家庭もあったが、私の家庭はそうではなかった。
弟は、バラエティ番組を見て笑っていない。ハマチを食べ、私の後頭部を見ている。
「あんたは、コリコリしたもんが好きで、お兄ちゃんは、マグロが好きやな。」
お母さんは、刺身を用意した時に必ず、言う科白だ。
「うん。」
私は、お父さんの前では、あまり言葉を発しない。弟が、気を使って、私の代弁者へと変わる。
「僕は、ハマチが好きで、お兄ちゃんがマグロが好きやから、僕、ハマチだけ食べるわ!」
この子、本当は、マグロが好きなのかもしれない。
そう思いながら、私は、マグロに醤油をつけて、口に放り込む。そしてテレビのバラエティ番組を見て、クスクス笑う。
お父さんの機嫌が悪くなり始めた。
弟とお母さんは、それに気付いているが、私は、気付こうが、気付くまいが、どうすることも出来なかった。
「おい、トシ。こっち来い。」
私は、言われた通りに、四角いテーブルを周り、お父さんの前に立った。
その時である。
お父さんの大きな手が、私の頬に当たった。私は、泣かなかった。
「泣くな!」
お父さんの怒号が飛んだ。
「お父さんが、一番嫌いなもん知ってるか?」
「な、泣くの。」
もう一度、手が飛んできた。
私は、口元がへの字になり、頬骨の部分が上がり、目の周りを皺だらけにして、泣いた。
何故、叩かれたのか、わからなかった。今でもわからない。
兎に角、痛みと悔しさで私は、泣きじゃくった。
「酒飲んでる時は、本当のお父さんじゃないからね。」
お母さんは、いつも道理そう言い、私を慰めた。その慰めすら、冷たかった。
「俺なんか牛小屋に繋がれとってんぞ。」
大人に反論できる話術を持ち併せていなかった。
十数年後、私は父の口元を殴り、母の頭をしばき、弟の髪の毛を引っ張り回していた。