Entry1
いざなう森
麻津さく
暑い。空調が効きすぎているし、帰宅ラッシュで混んでいる。頭が痛い。電車に乗る前に死ぬほど泣いたからだろう。
握り締めたケータイの画面が涙で滲む。顔まで巻いたマフラーが、目を隠していてくれればいいと思う。なぜ人間の身体は泣きすぎて死ぬようにできていないのだろう。もしそうなら彼もきっと自責の念を感じて――やめよう。こういう同情の引き方をしようとしたから、私は嫌われたのだ。
一旦降りることにした。夕風に当たりたかったし、泣くにしても電車の中より駅舎の方がいいような気がしたのだ。
「次は……前」
アナウンスはよく聞こえなかったが、人々を掻き分けて出口へ向かう。
ふと、先ほどまでざわついていた車内がしんと静まり返っているのに気が付いた。
振り返ってみようとした瞬間、私は押し出されるように駅のホームに降り立つ。目の前でドアが閉まった。
ぼやけた視界の中、乗客が全員こちらを見ていた気がする。気のせいだろうか。
駅名を確認しようと逆方向を向いた私は、ぞくりと寒気を感じた。
知らない駅だった。降りたことがないとか、そういうことではない。見たことも聞いたこともない駅に、私は降り立っていた。
無人駅だ。人気のない木造の駅舎。線路は一本だけ。掲示板には褪色して読めなくなった張り紙達。
自分が乗っていた電車はもう見えない。時刻表を探したがそんなものはなく、代わりにあったのは朽ちて傾いた駅名のプレートだった。
『いざなう森前』
名前の通り、ホームから駅舎を通り抜けた向こうは森だった。夜の闇にぼうっと浮かぶ、背の高い針葉樹。辺りに人家は無く、道はまっすぐ森の奥へ続いている。
震えが止まらないのは、寒いからではなかった。
吹く風の音に紛れて、人の声が聞こえるのだ。
「可哀想」
「可哀想」
何重にも聴こえるそれは恐ろしく、一方でひどく甘かった。
「可哀想」
「可哀想」
気付くと森へ向かって歩き出している。そっちへ行ってはだめだ。憐れむ声は柔らかさを増して、私の周りを取り巻いていく。抗えない。
「可哀想」
「可哀想」
お願い、もっと同情して。私を憐れんで。
真っ暗な森の中。何も見えない代わりに何本もの手が、頭を撫でる。
「もういいよ」
「悲しまないで済むんだよ」
次の瞬間、頭や背中を撫でていた手が、ぎゅっと私の喉を掴んだ。
「おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみ」
ケータイが掌から滑り落ちて行くのを感じて、私は目を閉じた。