Entry1
真夏の蝶
青野 岬
アイスを食べながら仕事をする。食欲が無いのは暑さのせいだけではない。このところ仕事も人間関係もうまくいかず、完全に行き詰まっていた。
窓からは、うるさいくらいの蝉の声が聞こえてくる。熱気を含んだ空気に冷たい風が混ざり、激しい雷雨を予感させた。
アイスの棒を咥えたまま仕事を続ける。はかどらない。集中力が持続せず、気がつくと手の動きも止まっている。納入の期日が間近にせまっているというのに。
僕はため息をついて窓の外に視線を向けた。するとそれまで大合唱していた蝉の声がぴたりと止んだ。空気も一気に重みを増す。
そのとき窓の向こうに一匹の美しい蝶が、ひらひらと飛んでいるのが見えた。
蝶の羽根はとても不思議な色をしていた。角度によっては暖色系に見えたり、寒色系に見えたりする。しかも金粉のようなものが混ざっていて、羽根を動かすたびに妖しく煌いた。
網戸を開けて手を差し伸べると、蝶は素直に部屋の中へ入ってきた。すると蝶は僕の目の前で人間の女に姿を変えた。
「……何者だ?」
窓の外には暗雲が垂れ込め、部屋の中は薄い闇に塗り替えられている。
女の肌はひんやりと冷たい。ふたりの唇が重なる。女がこの世のものではないことは、わかっていた。それゆえの妖しい色気に惑わされて、僕は自分の動きを止められなくなっていた。
閃光に浮かび上がる、異世界への入り口。僕は女の股間に顔を埋めて、蜜のしたたる果肉を一心不乱にむさぼった。
「きて……」
女が耳元で囁いた。この声を以前、耳にしたことがある。遠い夏の日の記憶。
小学生の頃だった。高熱を出して寝込んでいた僕は、夢うつつの中で蝶を見た。
「誰……?」
縁側から入ってきた不思議な羽根の色をした蝶は寝ている僕を見下ろすように飛んだ後、若い女に姿を変えた。そして僕の頬を両手でそっと挟み込んだ。
すると、それまで全身に篭っていた熱が女の手のひらに吸い込まれていくような感覚があった。女は寝ている僕の隣に横になり、小さな僕の体を包み込むように抱きしめた。
「大丈夫よ」
女の肌は陶器のように冷たく、なめらかだった。僕は女に抱かれながら、深い眠りの淵に墜ちていった。
シャワーを浴びて戻ってくると、部屋に女の姿はなかった。僕は窓を開けて蝶を探したけれども見つけることはできなかった。
雨上がりの爽やかな風が吹いている。僕は気を取り直して、仕事を続けるために再びパソコンに向かった。