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心ある人の優しさ
小笠原寿夫
「もうすぐ書けなくなるんだ。」
小説家志望の私は、スランプに陥っていた。取り敢えず、芝生の上で、青い空を見ながら、イメージを膨らまそうとしていた。しかし、うまく言葉が紡ぎ出せない。贅沢な病気だと思う。あくせく働いている人がいるのに、芝生を布団に、青空を見上げているのだから。
責めて、勉強して、少しは知識や教養を、身につけていた方が、マシだった。
それが、欝の始まりだったかは、わからないが、使っている頭は、ほぼ小説に回っていた。気でも狂ったかのような、小説を書き、悦に浸っていた。
「誰かに見せよう。」
その発想が、なにげなく浮かんだ。恥じらいもなく、私は、隠れて小説を書いていることを、友人に告げた。
それは、小説というよりも、コント台本に近いものだった。
「見たよ。」
友人は、
「面白かった。」
と言ってくれた。社交辞令であることは、明らかだった。それでも、その言葉に救われた。
もしも、あの時、「つまらなかった。」という言葉が、返ってきていれば、私は、友人を失っていたかもしれない。客観視して、冷静に分析すると、それは、取るに足らないコント台本だった。
暗い夜道を、とぼとぼと歩いているような、心境で書いていた。
「面白い」の基準は、みんな違う。ずっと主観で書き続けていた私に対する、友人の「面白かった」という感想は、普段、共に語り合っている友人が、密かに「つまらないものを書いている」という現実に、「面白かった」と言ったのかもしれないし、若しくは、ただ、単純に気を使って、「面白かった」と言ってくれたのかもしれない。
コツコツと積み上げてきたものを、単純に壊すのは、簡単である。その意味に於いて、その友人は、私のコント台本を、守ってくれた。優しさに満ち溢れた人だった。
面白いの価値基準ほど、難しいものはないと思っている。
自分より、面白い人がいれば、それが、つまらないに変わることだってある。知的好奇心によって、面白い、と感じることもあれば、ただひたすら、面白いことを求めている姿を見て、面白い、と感じることもある。
私は、その人に、「ありがとう。」が言えただろうか。それすらも、記憶は定かではない。腹を抱えて笑うということが、大人になるに従って、なくなっていく昨今、それよりも大切な、何かが身を潜めているのかも知れない。
面白いことを求め続けた、つまらない男の言い分は、その友人に対する感謝で一杯だ。