武さんは二十八歳の時に何かにすがりたい慾望を感じ(この慾望を生じた原因は特にここに言わずともよい)当時名高い小説家だったK先生を尋ねることにした。が、K先生はどう思ったか、武さんを玄関の中へ入れずに格子戸越しにこう言うのだった。
「御用向きは何ですか?」
武さんはそこに佇んだまま、一部始終をK先生に話した。
「その問題を解決するのはわたしの任ではありません。Tさんのところへお出でなさい」
T先生は基督教的色彩を帯びた、やはり名高い小説家だった。武さんは早速その日のうちにT先生を訪問した。T先生は玄関へ顔を出すと、「わたしがTです。ではさようなら」と言ったぎり、さっさと奥へ引きこもうとした。武さんは慌ててT先生を呼びとめ、もう一度あらゆる事情を話した。
「さあ、それはむづかしい。……どうです、Uさんのところへ行って見ては?」
武さんはやっと三度目にU先生に辿り着いた。U先生は小説家ではない。名高い基督教的思想家だった。武さんはこのU先生により、次第に信仰へはいって行った。同時にまた次第に現世には珍らしい生活へはいって行った。
それは唯はた目には石鹸や歯磨を売る行商だった。しかし武さんは飯さえ食えれば、滅多に荷を背負って出かけたことはなかった。その代りにトルストイを読んだり、蕪村句集講義を読んだり、なかんづく聖書を筆写したりした。武さんの筆写した新旧約聖書は何千枚かにのぼっているであろう。とにかく武さんは昔の坊さんの法華経などを筆写したように勇猛に聖書を筆写したのである。
ある夏の近づいた月夜、武さんは荷物を背負ったまま、ぶらぶら行商から帰って来た。すると家の近くへ来た時、何か柔かいものを踏みつぶした。それは月の光に透かして見ると、一匹の蟇がえるに違いなかった。武さんは「俺は悪いことをした」と思った。それから家へ帰って来ると、寝床の前に跪づき、「神様、どうかあの蟇がえるをお助け下さい」と十分ほど熱心に祈祷をした。(武さんは立ち小便をする時にも草木のない所にしたことはない。もっともその為に一本の若木の枯れてしまったことは確かである)
武さんを翌朝起したのはいつも早い牛乳配達だった。牛乳配達は武さんの顔を見ると、紫がかった壜をさし出しながら、晴れやかに武さんに話しかけた。
「今あすこを通って来ると、踏みつぶされた蟇がえるが一匹向うの草の中へはいって行きましたよ。蟇がえるなどというやつは強いものですね」
武さんは牛乳配達の帰った後、早速感謝の祈祷をした。――これは武さんの直話である。僕は現世にもこういう奇蹟の行われるということを語りたいのではない。ただ現世にもこういう人のいるということを語りたいのである。僕の考えは武さんの考えとは、――僕にこの話をした武さんの考えとは或いは反対になるであろう。しかし僕は不幸にも武さんのように信仰にはいっていない。従って考えの喰い違うのはやむを得ないことと思っている。