国立現在美術館は都立公園の中に建っている。こう書くと気分のいい立地に思えるだろうが、その実は地下鉄の駅からバスで五分、歩いて二十分の道のりにある。この事実は、いかにこの国の人々がコンテンポラリーアートに無関心であるかかを仄めかしている。余暇に連れ立って印象派だのラファエロ派だのを見に往くオバチャンは「きれいなものを観る」という見栄と娯楽が欲しいのだ。あんまり「天井から逆さに備え付けられたピアノ」だの「『折衷』と名付けられたボロ布」だのを観に行くのが趣味だとは思われなくないのである。
話を戻すが、今日、現在美術館に新しい展示品が加わった。リノリウム製の円い台だけが空間に一つ置いてあって「屁」と表題がついている。台の上には作品たる何かが乗っていると余暇オバ(略した)も多少は観に来る気を起こすかもしれない。しかし、遠目には台だけが見える。近くによると常にひどく臭う。
当然、議論は割れた。
屁に「屁」と題名をつけたものが芸術作品足りうるかどうか、についてである。リンゴに「リンゴ」と札がついていれば八百屋だし、パンダの檻の前に「香々」と看板が立っていれば上野動物園である。一方、便器にサインをすれば「泉」と表題が着く。屁をそのままもってきて「屁」とは何事であるか。まもなくこのことは現代美術シーンでの議論となり、議論となると目ざといマスコミが面白がり、あっという間に全国区での話題となる。しかし目下の話題は「どうやって『屁』を空間に留めておくのか」という点に集まった。気体が空間に固定できるならば、毒ガスをトラップに利用できる。軍事利用に転用可能な技術であった。しかし八月の盆前、この「屁」がポータルサイトのトップページに上るようになると臭いは忽然と失せた。まもなく作者の暮森時蔵という人物も存在しないことが判明する。
「時蔵じっつぁは?」
「奥で寝どる」
かの暮森大明神である。社の裏の穴の奥が御殿になっていて、奥の寝床で老いた狸が寝込んでいる。
「テレビじゃ偉ぇ騒ぎだぇ。表に出てはならない極秘の科学技術が出てまったんでねか、って」
「表も裏もねぇ。じっつぁの生産性の無ぇ暇つぶしだんに」
暮ガ森の長老であるところの時蔵はやおら起き上がると、急須から出枯らしを注いで無気力に啜る。
「なんもなんも、あんなところにアートは無。東京はおっかねところじゃ」
お土産の東京ばな奈は狸の内で好評であったという。