青虫
今月のゲスト:前田夕暮
うす赤い靄の世界である。どこからともなくぼやっとした光りが一面に行きわたっていて、空を掴む波が、ひらりひらりと音もなくおどっている。そして、何かがほそぼそとしてすすりなきをしている。歓楽を追う海獣の歎きか、それとも波のひびきか、眼にみえぬ音楽がひょうびょうとして遠くからただようてくる。
青い絵の具をべたべたと塗りつけたような葉を垂れた一株の大きな植物がある。その植物の下に群衆が波うっている。群衆の顔は空からさす光に濡れて赤く、手をみな空にあげて幻影を追うている。
波がしろい手をあげて音もなく群衆の方へ寄せてくる。
群衆のなかから一疋の人魚が青白い光と一緒におどり出す。すっとからだをうかせて波の上に搖られると、濡れた伎体がただよわされてみるみる遠ざかって行く。波の底から不思議なすすりなきがきこえる。
群衆の一人がさっと波に飛込む。
とまた一人、群衆の頭の上をとび越して、ひらりと飛魚のやうに波に入る。一人また一人ひらりひらりと波におどり込む。みるみるまに群衆のすべてが波にさらわれて、広々とした陸地があとに残される。陸地にはうす青い草の芽がうっすらと煙っている。
そのさみどりの草の葉に、私は今孵化されたばかりの、皮膚のうすい裸身の幼虫である。私は草のわか葉の上にねばりついて今頭をおそるおそる上にもたげたところである。そして、私の生きの日の唯一の仕事である貧婪なる食欲を全身に感じそめている。
私はもう立派な一疋の青虫になっている。
黎明の大地には潤い水っぽい青葉をたわたわにつけた野菜がほき上っている。私は軟かな巻葉のなかに這入って、日が地平線をのろりと放れる前に、野菜の一株を芯まで喰べつくして仕舞う。日がいよいよ地上にその光を放射し、野菜の葉という葉に浸透する。野菜は日光に飢えて一時にさっと葉をひろげる。土から水を盛んに吸上げて日光に醺醸せしめる。南風が陸のはてから野生植物の香気、草の葉ッ葉という葉ッ葉の新鮮な香気をおくってくる。私はこの日光とこの香気に示唆せられて素晴らしく旺盛になり、遮二無二野菜から野菜へと亘って片端から蚕食する。
まだうっすらと青みがかったばかりの朝の野菜の嫰葉に、私の重い裸のからだをもたせかけると、葉はまだ日光に硬化していないので、私の重みさえ堪えがたい程の撓りをみせて地につくばかりになる。私は葉柄の軟らかい繊維にしっかりと吸いつくように腹をつけて、自分の口に近いところから食べ始めるのである。私の胃の腑はふくらむだけふくらむ、日光に透かしてみると、体の全部が青い野菜をつめ込んだ胃袋にみえるであろうと思われる程に、朝から昼にかけて、昼から夕にかけて、夕から夜にかけて殆んど休息ということすら知らずにただ食べる、食べる。これは自らも驚く怖ろしき貧婪なる食欲である。そして、私は毎日毎日日の光と南風と、あたたかい大地と熱とのなかに、みわたす限りの野菜の海を蚕食しつくして、いよいよ食べきる日が来ると地上にころりと寝てしまうのである。私の変態である次の時代の虹のような華やかな生活を夢みながら、ゆっくりと眠るのである。
街上に春の雪がほたりほたりと降りつむ宵である。明るい電燈の光のなかにも雪がちらちらと降りこむようにさえ思われる程、私達はホットウヰスキーに酔うている。
私の前の卓に、白い給仕が一皿の野菜サラダをおいて行く。私は冷たいサラダに私の麻痺した味覚をよびさます。一枚の軟かい野菜の葉を食べながら、食欲から来るイリュージョンが私を陶酔させてくれる。
硝子戸の外にあたたかい春の雪がまたほたりほたりとふっている。(カフェー・ライオンにて)