拇指の刺
今月のゲスト:田村俊子
ある雨のふる朝、糸江は足の拇指の爪際の痛いのに気がついた。足袋を脱いで見るとそこが膿を持って腫れていた。糸江は急に跛をひきながら、縁側で連翹を挾んでいる祖父のところへその片足を見せに行った。
「どれ、見せなさい」
枝屑の付いた手で、祖父は糸江の拇指を摘みながら、大きな顔を突き出して眺めていたが、
「これは何かの刺だ」
と言って、縁の上へそっと落とすように置いた。糸江は二三日前の朝洗濯をする時に、盥の箍のそげを素足の拇指に立てた事を思い出した。
「痛いかい」
糸江はうなづきながら、ぶら下げて来た片々の足袋をそっと穿いた。自分の身体の中に、先の尖った刺なぞの突き刺さった事が、糸江の花片の繊維のような神経をおののかせた。
糸江は祖父に言われて、懇意の医者の所へ薬を貰いに出かけて行った。医者の家は、今戸の橋を渡って聖天山へ折れようとする角にあった。朱蛇の目を翳した糸江が、橋を渡ろうとする時、ちょうど船が渡し場を漕ぎ放れて行くのが川の上に見えた。堤を水平にして雨はその上を一帯に煙っていた。そうして反射のない川面は、黒色に見えるほど鮮明な流れを揺がしていた。
医者の家には若い代診がいた。玄関に散っている新聞紙が風を受けてひるがえる度に、彼方此方の障子が湿り気を含んでがたがたと鳴った。糸江の足袋の後が濡れて、敷台を踏むとぎしついた。
代診は切らなければいけないと言った。
「切るのは痛いから――」
糸江は代診の前に出していた足を引っ込めた。
「それじゃ切らないで癒して上げましょう」
代診は糸江を手術室へ連れて行って、椅子の上に腰をかけさせた。代診がいろいろな道具を揃えて糸江の足の前に運んで来るのを見ると、糸江はどきりとした。
「切るんですか」
糸江が椅子から放れようとすると、代診は糸江の胴を押えて動かさなかった。
「眼を瞑って仰向いているのです。下を見ちゃいけませんよ」
代診は糸江の膝の下にしゃがみこみながら笑った。
「直きです。少しの間眼を瞑って――」
ふとした機に、糸江は代診の手にメスの光ったのを見た。思わず足を引っ込めようとした時、代診の手に掴まれた片足の拇指には、もう紙の切れ端が皮膚に触れるような軽い刺戟で、メスの尖が入っていた。直ぐその傷口を手荒くガーゼで洗っているのも糸江は知った。皮を剥いた肉の上に、ささらの懸かるような感じであった。糸江の心臓は釣瓶を落した井戸のように、異常に膨まったり引窄まったりした。糸江はそっと下を覗いて見た。繃帯をしていると見えて、白い布が代診の手から草色の絨毯の上へ、流れたり纏繞ったりしていた。糸江はそれを茫と見つめている中に、自分の身体の底から重圧を抜き去られて行くような心持がしたと思うと、くらくらとして椅子から落ちた。
遠方から多勢の人声が近付いてくるように思って糸江が気が付くと、自分の倒れている傍に代診が膝を突いて糸江の苗字を呼んでいた。糸江の睫毛と横鬢に水の雫が溜っていた。糸江が起き上がった時、直ぐ眼の前に薬局の書生が両手を差出しているような格好をして、立っているのが見えた。
「見かけによらない、貴女は気が弱い」
代診は然う言いながら、糸江を抱えて寝台の上に横たわらせたけれども、糸江は起き返った。代診は水薬を持って来て糸江の口に当てがった。
「気分はどうです」
糸江はそっと頭をふった。眉を八字にして代診の顔を見た時に、糸江の濡れた睫毛がしおしおとした。手術をする時に使った金盥が何時の間にか機械戸棚の隅に片付けてあった。血に泌みたガーゼが石炭酸水の中に浮いているのをみた時に、新たな痛みが脳から爪先までしいんと響いた。それと同時に糸江の気分ははっきりした。糸江は寝台を降りようとした。
「一人で歩けますか」
代診は寝台の上に落ちていた糸江の大きな簪を取って渡そうとした。糸江の皮膚のねばり湿った蒼白い顔が、その時硝子窓からはいってくる光線を受けて急に光を持った。簪を渡す時に、代診は糸江の三本の指先を軽く握った。口尻を微かにふるわした糸江は、その顔を上げずに足を引摺りながら玄関に出て来た。
「一人で歩かれますか」
代診がまた糸江のうしろから声をかけたけれども、糸江は黙って其所を出て行った。