Entry1
モルダウ
サヌキマオ
今回派遣されたのはまちなかにあるパン屋さんで、パン屋さんというのは初めてだったからどんなんですかとキタさんに聞いたら四時半集合だという。四時半というのは朝ですか夜ですかと聞くと、パン屋なんだから朝に決まってんだろええおいと言われてしまった。ええおいというのがキタさんの口癖であるがいつもとても怒られたような気がして悲しいきもちになる。
自分の家からだと始発の電車に乗っても四時四十五分に着くことになってしまう。駅前の飲食店街を抜けると崖下への階段がいくつも伸びている。下りた先はひっそりとした路地裏になっていて、崖から横に生えるように建っているコンクリートの建物がパン工場なのがわかった。工場の扉は二重扉になっていて、外から漏れてわかるほど大音量のクラシックが流れている。
工場長は遅刻した自分を責めるでもなく「早速やってもらうから」と衛生服の積まれた棚を教えてくれる。生地を機械で練る間にクラシックを聞かせ続けるのが製造の秘密なのだという。クラシックを聞くと生物は活動的になり、精神が活性化され、より多くのものを生み出す。そんなようなことを工場長は初対面の自分に嬉しそうに語る。パンは生物だろうかとちょっと思ったが自分の仕事は捏ねられた生地を型どおりにつくることで、型通りというのは得意なところなのでさして苦にはならなかった。たっぷりクラシックを聞かせた生地をきれいな形のコッペパンにする。充満する音楽のおかげでほとんど耳は聞こえなかったが、先輩のおばさんからクロワッサンの巻き方を身振り手振りで教えてもらって鉄板の上に均等に並べていく。パンにたっぷり詰め込まれた音楽は、食べた人の中のお腹の中でどのように作用するのだろう。工場長はクラシックと何度も繰り返していたけど、クラシックを好きな人がクラシックのことをクラシックと呼ぶだろうか。疑問が湧いたがきっとずっと工場長には言わないで黙っていることだろう。この曲は聞いたことがある。モルダウだ。自分でさえ知っているモルダウも、クラシックなのだ。
十時前には帰っていいことになった。君ははじめっから実に筋がいいよ、これからも頑張りななどと褒められて気分良く駅に向かう。朝から何も食べていなかったのでカレー屋さんに入ったら今の今まで身体を洗うように流れていたモルダウが店の中に流れていて、自分の体の中に詰まったモルダウと共鳴してガタガタと震えはじめた。