東京の郊外(大久保)の風情を心地よく感じた「私」は、家を借り妻子とともに移り住むことにした。
何はともあれ、私達は塵と埃とで、すっかり汚れて居る、人間の臭い呼吸の染み込んだような街の中から、広々した日光が惜し気も無く、全身を照らして居る、土の色の清らかな野広い処に出たのだ。霜解けで歩きにくい道を、大悩みで歩いて居て、二月の寒さに汗をかいても、それでもほんとに嬉しい。今までは新しい家――私は結婚したばかりなので、新しい家だ、新しい家だと思って居る……その新しいと言う心持ちにも、不似合いな
燻んだ、古い色をした汚れた町の中に居た。それがこの風までも、心持よさそうに吹き廻って居る処に来たのだ。……幾度繰り返して見ても、嬉しい! 心持が新しい。
ふと、空を見ると、空は凍りきって、碧く光って居る。
で、私達は四人連れで、私が見つけ出した家までやって来た。これは夫婦と、外には、私の弟のようにしている友達と、久しく一所に暮らした事のある友達との四人で、早速、この新しい家の掃除にかかった。そして、物珍らしそうに、井戸を覗いたり、家の周囲を見て歩いたりした。私は家の裏手の処で青々とした、雑草が二株三株生えて居るのを見て、もう手を組んで、目を瞑って何とも言えない心になった。自然の懐かしさ、涙が沁み出るような自然の懐かしさが、この小さい草の若々しい緑の色の中に満ち満ちて居るようで、私はホッと、
躍ってたまらない胸の奥から吐息をした。
そして、表に廻って、女や、
友人の顔を見ると、自分の胸一杯に力が充ちたようで、一所になって、力の限りに物を運んだりして見る。……本当ならば、この広い空の下に立って、声を限りに呼んでみたい。そしてこの胸の嬉しさが、涙になって、その涙がほろほろとこぼれるなら、こぼれるにまかせたい。……ただ一言で、嬉しい! と言う心持を人の胸にも刻みつけるような声が出したい……
そのうちに、二月の日は薄い陰になって落ちて行った。――少し落ち着くと、女は晩餐を作るのだと言って買物に行く。
「薄暗くって、道がわるいわね」
門の処に立って、心細そうに言う。日が落ちると、何処となしに
寂然として、薄闇の中に居るのが恐ろしい、心細い心持がする。……と、年の若いS君が、僕が一所に行ってあげると言って、出て行った。後に残った二人は、縁側に腰を掛けて、疲れた身体を横にしながら、向かい合って居る。
「ここらは、
野だね」
一人が言った。
「野だね」
一人が答えた。……二人の顔が薄暗い中に、朧に見える。
私は立って、ラムプを点した。
室の中が明るく見える。私は振り返って、M君に、
「野中の一つ屋のようだね……」
と言った。心にはこの寂しい、
寂然とした野広い中に住むのが、心細くも思えるし、味の深いようにも思われる。
やがて、四人は晩餐の食卓についた。温かい、
蒸気の立つ食卓を囲んで、賑やかに笑いながら話して居た。――その時に、私はふと耳を立てた、外は
寂然として居る。闇の広さが計り難い程だ。そしてこの家もこの野広い郊外の地も包んでしまっている。闇がこの野の中で湧き出るように思われる。……その時に、三人は何かしら、一時に大きな声で笑った。すると、その声が、いつとなしに外の闇の中に吸い込まれて行ってしまった。
私は闇の中の
曠野を思った。
そのうちに二人は帰って行った。……夜は更けて行く。私達は賑やかに笑った後で、俄に静かになって向かい合った。
外からは寂しい野の気が、ひしひしと押し寄せて来るようだ。私達は、俄に騒がしい響きの中から、この野に持って来られたので、神経が鋭くなって、外の闇の中に自然と心が引かれる。
と、
「きしきし、きしきし」と少しずつ
間を置いて、枯葉が擦れ合うような音がする。それが何処か深い処から響いて来るようだ。……すると、次には、
「ざわざわ、ざわざわ」と、幽かだが、笹の葉のざわめくのが聞える。
「風が出たね」
私はふと女にこう言った。すると女も、
「そうですね」
と答えた、外の声を一心に聞いて居る。
「…………」
「…………」
「寂しいわね」
「寂しい」
私はじっとその物の響を聞きながら、これが野の声だなと、思った。