氷魚縅
今月のゲスト:江見水蔭
若草山の麓、雪解沢の畔、梅樹林を成して、枝を張り根を延ばしたる、自然の逆茂木に花二三輪、紅なるは血の色にもやと疑われつ。飛び来る小鳥の、箭の如く疾く空を切れば霞の陣幕吹きまくれて、朝日麗らかに照らす時こそあれ、水車屋の軒の下、氷柱や折れて落つると見れば、太刀を手にせる一人の若武者、衣懸柳の緑の黒髪、振り乱したる大童、銀実を赤き糸にてよろいたる、宇治の網代の氷魚縅。袖綻びて狩衣の小蝶此所よりや抜け出でなん。苦戦を刻みたる大のだれ、菖蒲造りの帽子先に、若楓を貫きたらん如く血を滴らして、後ろにしたる兜の後証緒、紫なるは二月堂の藤の房にも見まごう可し。眉間寺の合戦に敗れて、柏木の城に落ち行かんとする大水門采女頼春、立ち留まって小手の紐を、唇に結ばんとする一刹那、一方に千軍の不意に発し、一方に万馬の俄に起こりたる、と見れば、東大寺の鳩の羽音、春日の社の鹿の蹄の響きなるに、先ず好かりけると一息して、胸板を撫ずるに、渇を覚えて、見廻せば、其所に古き井筒あり。釣瓶のあらぬに困ぜしが、奇智を絞りて、雑兵が残したる陣笠に、幕の打紐を結びつけ、手繰りて苔の花浮く水を得しが、斯る中にも思い出したるは、手向山の神事の砌、忍ぶ網代笠の廂越しに、見染め参らせしは山瀬庄司の息女佐代姫。今は敵味方と立ち分かれて、鎬を削る間なれど、過ぐる歳此処井筒のほとりに姫と二人立ちて、武蔵野の摘草に汚れたる手を、洗い清めたる事もありけり。其面影は、井の底の深く沈めり。其名残の香は梅の花、背後の老樹、当年の我を忘れしかと、振り向く、其所に、啄木縅着たる大荒武者、弥陀の四十八願、四十八枚張りの兜。火焔の前立に猛威を示し、頬当の鉄よりも黒き顔の色。大身の鎗、掻い込んで突っ立ったり。
「笠じるしは見えざれど、山瀬方と覚えたり。名乗らば相手を辞し申さじ。誰人に候ぞや」
「笠じるし無しとや、血迷いたる眼の不憫さよ。彼所の梅が枝に預けたるが見えざるか。落武者の自らかなぐり捨て、追目をあやかさんと為るとは雲泥の相違」
「笑止や。大佛口の高重、四條畷の正行、ためし多きを知らぬ和主か。笠じるし無しとて我を知る者少なからじ。柏木城主大水門陸之助頼之の一子、同苗采女頼春、今日の合戦不利にして、無念ながら此所まで落ち延びたれども、呼び止められて梓弓、引きかえさじと云うことなし。持て余し気の鎗の柄を、十分扱きて突けやよ、此所を」
兜の紐の腮に掛かるを引き下げて、喉笛をゆるやかに示せば、敵は頬当の破れるまでに打ち笑い。
「若き者の口の強さよ。ほざく事人並みにおぼえしは、得言わで鼻白むに何程かまされり。野森の池の薄氷を、東大寺の鐘楼の撞木にて、碎くに似たれどこれも戦場。聴け、我こそは、城州木津雲雀城の主人、山瀬庄司一連の御内に、さる者ありと知られたる、円城寺玄蕃照猛」
「名乗りを揚げたる其次には、弥陀の唱名、それなる。いで、鎗の穂先を此方へ」
「太刀の刃を此方へ」
「いで」「いで」
身構えたる啄木縅氷魚縅。佩楯からからと鳴ってこれより双龍両虎の争いあらんとする間殆ど一毛髪。春風吹き返しの裏より吹いて、兜の内の伽羅香しきに、円城寺玄蕃、突と身を引きて。
「情けを知るは武士の常。戦場に若武者の命を断つは、是非もなき世の有様なれど、花の蕾を散らすのは忍び難し。此所にて闘おうより、彼所の野にて」
「好し、さらば」
睨み合いの侭、じりじりと歩を運ぶに、頼春は先なり、照猛は後なり。古井筒をめぐりて、七八歩の箇処、去歳の枯葉の堆きを、蕨根の草鞋に踏む時此時、陥穽、深し、頼春は落ちたり。
「卑怯なり、陥穽とは何事ぞ」
下から呼ばわるを、上から覗き込みて、思いの他なる優しき声音。
「卑怯にもあらん、さりながら、何とぞして和殿を生ける侭、捕らえて雲雀の城に連れ行かんとの、拙者の苦心、図に当たれり」
「如何にとや、生ける侭、雲雀の城に連れ行かんとは」
「軍に負けても、恋には勝利、御身を陥穽に嵌めたるは、佐代姫のしわざ」
「や、や、や」
照猛、延び上がって神苑の杜の方に向かい。
「柏木城主大水門陸之助の子息采女頼春を生け擒ったり、方々、疾く、来よ」
用意は何処にも行き渡りてあり。杉林の間よりは、輿一挺、附き添う雑兵の中に女一人ありけり。