Entry1
泉の女神
サヌキマオ
夕めしを食い終わると、五歳になる娘から「なぜ泉の女神はきこりが正直だと金と斧と銀の斧をくれるのか」という質問があった。
金の斧も銀の斧も正直の褒美である。つまり、正直が美徳とされており、当時の人々は多くが正直ではなかったということだ。いわゆる正直の啓蒙であるが、啓蒙にしても、金の斧と銀の斧はなんの役に立つだろう。金の斧は柔らかくてすぐに刃が潰れてしまうし、銀の斧は脆く折れやすい。となると飾るしか無いのだが、当時の王侯貴族は斧をシンボルとして飾るようなことをしたろうか。そもそも、正直とは何か。
木こりのハンスはこう思ったに違いない。そんな刃の潰れるような斧も折れるような斧もものの役には立たず、潰して塊にするにも手間がかかる。正直はむしろ功利の上にあったのではないか。しかもだ、その木こりが大金を持ったところで使うところはあったろうか。持っていれば持っているだけ、他人が己と比べた恥の恨みを、その幸運についてのそねみを一身に負うと考えたろう。
と、二秒半で考えたところで、
「昔は正直であることに金の斧や銀の斧くらいの値打ちがあったんだよ」
とだけ答えた。
それにしても泉の女神とは何であろうか。泉を守っているのか。泉の周りの生態系も担当に入っているのだろうか。
脳裏で泉の女神はカミナリじいさんとリンクする。土管のある空き地の横に居を構えているカミナリじいさん(本名不詳)は子どもが打ち上げた野球のボールが庭に飛び込んで窓ガラスを割ると、すごい形相で飛び出してくる――もしくは、塀の向こうから首を出して怒鳴りつけてくる。「お前が打った球だ」「もともとお前の持ち物だ」すったもんだしながら子どもたちが謝りに行くと「やったことはやったこととして正直でよろしい」などと言いながら茶と菓子を出してくれる。これもこの齢になると判るが、場末のコンビニの五十代くらいの店員に延々と話しかけている家の無いなったようなじいさんの背中にも繋がる――つまりは寂しさだ。カミナリじいさんの出す茶菓子も泉の女神の授ける金の斧銀の斧も、つまりは相手が喜ぶかどうかなど最初から考えていないのではないかしら。
そこまで考えていると娘が膝の上に登ってきた。ずいぶんと懐いているようにみえるかもしれないが、一月の寒いのに床に足をつけたくないのである。寒いなら靴下を履け、というとすごすごと隣の部屋に行き、そのまま帰ってこなかった。