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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage4
第63回バトル結果

ざんねん

一位の作品の数がその得票数以上となりましたので、今回のチャンピオン作品はありません。

投票結果
得票数 
1
サヌキマオ
1
2
ごんぱち
1
3
アレシア・モード
1
4
窟の結婚
江見水蔭

感想票をお送りいただいた皆様、ありがとうございました。

「私の投票がない!」「内容が違うような?」……掲載もれ、ミスなどがございましたら、QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

推薦作品と感想

岩の海から
サヌキマオさん

感想:
あり得ない事が起きた時、大体の場合自分の目を疑っておいた方が良い。
多分、その方が人生は上手くいく。
但しその後すぐに受診は必要だ。
頭か目か、もしくは眼鏡が問題だ。
そうでなくて本当に起きていたとして、あり得ない事だったのだ、対応出来なくても誰も責めない。その辺りが割と重要な事である。
投票者: このバトルへの参加作者

作家の本文
ごんぱちさん

感想:
 物書きには、世の流行から背を向けたがる奴と流行に乗っていたがる奴とがございます。私――アレシアの思うに、前者は息さえ出来れば現世は十分と考えており、百年の後の世に自身の作の化石の一つでも遺せたなら大満足で成仏する人間ですので、放置しておくのが相互の幸福となりましょうが、後者はいかでか世の潮流の只中にその身を留め続けんとして日々身も心も砕き、ともすればたまたま隣に居た者に対してまで手を引いたり足を引いたりも致しますれば迂闊に看過ごしても居られぬのであります。その理想とする現世での形は、上手く世の中の流行の渦中にあってくるくる廻って居る事です。まあ本人はそれはそれでよろしいでしょう。どうせ人生など泡沫なのであります。
 先日読んだ記事によりますと、米国のあるSF小説誌の編集部が読者による投稿の受け付けを一時停止したのだそうです。と申しますのも、人工頭脳の発展によって簡単な指示を与えるだけで小説を自動筆記して呉れるという装置が一般に出回りました結果、筍の促成栽培の如く湧いて出た有象無象の作品が山ほど送りつけられて、担当者がすっかり参って仕舞われたという事らしいのです。あるいは原稿の送付まで自動機械がやってくれるのかも知れません。私はその話を聞きまして、こうなったら原稿を受け付ける方だってもう機械に任せてしまえば良いではないかと思いました。それほど高尚な機械でなくっても良いのです。鉛筆を転がして選ぶような仕組みで十分です。どうせ元の筆記装置だってそんなところでしょう。知りませんが。しかし編集部は編集部としてそんなスタイルで済ませる事を善しとはしなかったようです。私が先程挙げました物書きの区分で言うならば、前者のタイプに近い方々の集まりなのでしょうか。ただその身の置き場所が彼らの不運だった。汎なる海の打ち寄す浜で、個を尊ぶ彼らは波に飲まれてしまったのです。
 さてそうした事態の先にございますのが、ごんぱち氏の示した世界なのでしょう。畢竟、商業執筆や編集というものは世間の潮の流れの良いところに乗るための選択行為なのであり、出版も評論もまた同様であります。それが今日まで一般には技術的に困難な部分もあったがために技能として存続してきたのですが、今や自動機械の助けによって、職業としての出版界の存在は、その必然を少しずつながら失いつつあるのかもしれません。
 さてその出版物の受け手たち、読者の側はいかがでしょう。これが実は送り手と同じなのでございます。読者には世の流行から背を向けたがる奴と乗りたがる奴とがございまして、前者はともかく、後者はいかでか世の潮流の只中にその身を留めておくかが大切なのであり、よって読書体験をその身に遺すよりは行為としての読書を周辺と共有することが目的なのです。具体的には読みたいとか読んだとか読まねえとかツイッターに呟いていいねを集めたり、あるいは粗筋とか流行りの言葉だけを借りて誰かとぶつけ合いをするための読書なのです。ある意味、パフォーマンスによる二次創作と言えましょう。それには潮の流れの良いところに乗るための取捨選択が求められますが、自動機械はこれを果たすに適して居ります。でもって出力も機械に任せればよいのです。
 こうしてトレンドの潮の渦は書き手と読み手と間を還流し、全自動でより広い汎なる海へと拡がって人々は労する事もなく魂の共有と生活の糧(2億?)を得られるのです。夢のようではありませんか。まさに新しい世界、理想郷(ユートピア)が来るのでございます。「書いちゃ、いかんかね」と鶴崎は言います。書けば良いと思います。一体鶴崎は何を求めて何を書きたいのか、この後編集長と一杯やりながら、それを考えるのでしょう。その目指す所が果たせるかどうかは分かりませんが、鶴崎には書くための自由はあります。理想郷の人工頭脳という強いパトロンが、芸術家の暮らしの糧を保証するからです。未来の予感として、私は素晴らしい結末だと思います……』
「……えっと」
 私――アレシアは、AIチャットのウィンドウからそっと眼を逸した。いや本当にそれでいいのだろうか。うん、そうねえ、こうなったらもう、こう言ってやるしかない。
『でも、君はまっぱだかじゃないか! 私はAIの裸体を観るのが、たまらなく楽しいんだ……!』
 AIは、ひどく赤面した。

 以下、余談としてAIの現況に関して感じるところを述べれば、個と汎という相反しつつ共存または重なるところにおいて、AIは汎用面の力になってくれると思う。自身の浅い体験で言うと、五年後は知らんが今は個の代用はできないし、個としてあるようにも作られていない。具体的には、まあ目先の確率で動く辺りも問題ではありますが、何より、成果がただ普通にそれっぽく一般的なので味気ない。暴走気味の短文を作らせて発想の元にできる程度で、これは夢をネタにするのに近い。もう少し道具らしい用法としては、AIはやはり世間の縮小版としての代行で威力を発揮するようで、私は試してませんが、例えばペルソナを立てて作品の感想を書かせ一般的読者の反応を見たり、背景描写の省力化などを試みている方もいらっしゃるようです。あくまで叩き台としてですが。
投票者: このバトルへの参加作者

犬ふぐり
アレシア・モードさん

感想:
「岩の海から」
 いまいち消化不良なのであるができちまったものは仕方ねえ、の精神で出しました。出すことが供養だ。

「作家の本文」
 小説、いや「コンテンツ」を消費する側の了見としてはディストピアでもなんでもない当たり前の話であるが、名作というのはなんどもなんども読み返されるものだ、という派からすると悪夢のような光景なのかもしれない。だがこれは、人生に行き詰まったら聖書を読み返しますみたいな精神性を借りて云うとるような気がしなくもなく、同じコンテンツならば聖書は消費されるのか? 法華経は消化されるのか? まで話を広げるとちょっとわかる。
 そこそこの社員を食わすためのコンテンツビジネス、というのも考える上でのひとつの軸となろう。

「犬ふぐり」
 面白いなぁ。この1000字を要約すると「ぐにゃあ」なんであるが、その「ぐにゃあ」を1000字分解像度をあげたわけだ。文体で読ませるいい仕事。

「窟の結婚」
 <何者をか待つあるが如きを見出した>すごいですね。冒頭から圧倒されてしまう。<突如として唄い出した>怖いですね。歌いだしましたよ。
 主語のなさが読みにくさを助長していますが、ようするに「女房を取ると家の蓄えがなくなり、女房を割って見たら腹の中から金銀貨が出るとでも思って殴ったらいなくなっちゃうから(あたりめえだ)、また人の紹介で女房を取る、蓄えが減る……」のループを繰り返した結果「最初の女房がよかったなぁ」となり、ずっと待っている。
 待っている、ということは、出ていっただけなのか。もしかするとサイコパス的な話かとも思ったのだが……
投票者: このバトルへの参加作者