ふと昔の夢が胸に浮かんで来た。
私は或る山へ登ろうとしていた。禿山で、頂には樹木も無い。草花が所々懸崕の端に咲いている。私の傍には二人の小児が居た。一人は男の児で六歳ばかり、一人は女の児で四歳ばかり、男の児は先に立って登って行く、女の児は私の手に縋って歩いている、ふと懸崕の頂の草花が目に入った。
「あれ取って頂戴な」女の児は私に取りついて放れない。危ないのを、右手でその児を押えながら、身を曲めて、左手を伸ばし、取ろうとすると、砂がほろほろ崩れて崖下へ落ちて行く。下は深い谿だ。底深く吹き上げて来る風に草花はゆらゆら搖れている。また、手を伸ばそうとする、が、一歩踏みはずせばそのまま深谿へ落ちてしまう。わずかに花を摘んだ。女の児は悦んでその花を手にして登って行く。
この山へ登るものはただ私等三人より外に人が無いような気がする、が、何人か、何人とも解らないが、私とは別れて別の途を行った人のあるような気がする。
途は下り坂になった。凸凹の途に足が傷んでたまらない。見ると、脚下に遙か遠く、人家が立ち並んでいる。薄曇の空は上から覆いかかるようにしているが、鉄色した塔の頂、白壁の家などが、歴々目に入る。私は立ち留まって眺め入った。沈静の色、何の物音一つ聞えて来ない。人家は並んでいるが、その中に何人も住んでいる人があるとも思われない――途が少しづつ下る。と思うと、私の傍を一人二人ずつ、旅姿をした男女が通って、傍目もせずに下って行く。私も急いで降りようとしていると、後方から小足におりて来る人がある。一寸立ち留まって振り廻って見ると、少し隔って若い女性が彳んでいる。見覚えのある顔だな、と思ったが、その人は立ったまま動かない、おりて来ようともしない。何人だろう。私は二三歩後戻りした。「ああ自分の妻だ!」胸の動悸は急に高まって来た。如何様したのだ、一所に下りて行こう、と慫めると、視線を落したまま動かない。小児等は俄かに泣き出した。
二人とも自分に取り縋って、哀れな声で、「下りて行って頂戴よ、下りて行って頂戴よ」顔をば私の袖へ固く押し当てて離れない。妻はなお動かない。「一所に下りて行ったらば好いだろう、この先に休場もあるから」と云ってもなお動かない、疲れたような顔色をして静乎と立っている。「後方へ帰りましょう、如何様に険しくても、今迄の途なら知っていますから」ただそれだけ、眼を閉じて動かない、冷たい風が下の方から吹いて来る。――今迄の途なら険しくても知っている、これから先きの途は如何なるとも判然らないと云うのか。私は耐らなくなった。同時に小児等は大きな声を挙げて泣き出した。
はっと思うと眼が醒めた。
私には妻もなく子もない。何故夢に見た人が自分の妻であると知ったか解らない。不思議で耐らなかった。その時の寂しさは、消えずにいつまでも胸に残っていた。