「あとにもさきにも、これは僕の経験した嫉妬、たった一度の嫉妬ではなかったかと思うのだが……」
と、佐々木さんが話して聞かせるのである。
四十歳を不惑と云う。四十歳を過ぎると、女とのかかわりも、まず、あと腐れのないように、最初からそれを見込んでとりかかります。それぐらいですから、情事には違いないが、それほど好きでもなく、勿論、嫌いでもないという女。だが、肉体のつながりが出来るまでにはいくらかの月日の経過がありました。
女の気持ちのほうは、推量り兼ねたけれど、彼女を好いている一人の青年があったと思い給え。
「青年というからには、もちろん、あなたよりも歳下でしょうね」
と、私が訊くと、佐々木さんは頷いてみせてから……。
学校を出たばかりの青年でした。絵のほうの、僕の、お弟子。家庭の事情で、本人は東京へ居残りたいらしかったが、それが許されずして、裏日本の郷里で暮らしていました。それぐらいだから、腐っているという程ではないとしても、怏々として愉しまず、さ。
先方へ、一夜泊りで、ひとつ慰問に行ってやろうではないかというのが、僕と女との相談。
「その女、モデル女ですか」
佐々木さんは首を横に振って……。
僕たちが行きつけていたカフェ、そこのマダムの妹。出戻り娘さ。もちろん、あの戦時下で、カフェは廃業していたが、そこはまた、おもて向きのようなもので裏には裏があったからね。店の椅子や、卓子などはかたづけて、片隅に積み重ねられていたが、しかし、茶の間というものがあるからね。酒は配給。友人同志で持ち寄ってはよくその茶の間へ出かけていったものさ。闇値の小料理にはチップもはずんだのです。妹の、この女も昔どおりにお酌をしてくれる。もっとも、廃業と同時に、遊んでいると例の女子徴用ということもあるので、昼間、彼女はその「徴用除け」に勤めに出ることは出ていましたけれど。
その裏日本へ出かけて行く途中、温泉宿で僕たちは一泊しましたがそんなことは夢にも知らない青年。いいところのある青年でした。若い人たちの今時の言葉でいえば「よさ」というあれですかね。ひとつには、人間、育ちですね。僕と女との間を疑っていないのですね。こちらが、腐っているのを、遙々、東京から慰問に来てくれたものとばかり思って、青年は非常に喜んでいるんですね。
ひとり息子でしたが一家を挙げて大歓迎。
夏のことでした。いい月光で、二階に泊められましたが、水を打った爽々しい小庭の樹木、その向うに白壁の倉、その白壁に蒼白い月光がとても美しい。
蚊帳はもう吊ってあった。
青年の方は縁側が鍵なりになった部屋。そこが自分の居間でここへも蚊帳は吊ってあった。縁側に蚊遣りの燻。冷たい飲み物と果物。ここは町端れで遠くのほうでかすかに盆踊りの太鼓の音が聞こえていました。その縁側で、三人、暫く話した。階下のどこかで柱時計が鈍い音で鳴っている。一つ。二つ。二時まで算えたので、
「お先へ失礼するよ」
と、そう云って、誰の返事も待たずに、僕はさっさと蚊帳の中へ這入ってしまいました。
しかし……なかなか、寝つかれないのです。女と青年と、二人で話しているのが、僕の睡眠を邪魔しないつもりか、急に、小声になってしまいました。それが却っていけない。気になるんですね。
そのうち、女のほうから、「もうやすみましょうか」と云ったらしいが、青年がそれを止めている様子です。
「あの月は、倉の屋根のてっぺんを逼うようにして、左から右の方へと移っていく、それが時々不思議に思われてならない。不思議なわけはないのだけれど、子供の時もそうだった。今もそうだよ。それじゃせめてあの月が……」
青年はどこかの屋根の一角を指さしたらしい。
「月が、あそこへ来るまでつきあい給え」
また、女と小声の話が続いた。僕は鼾をかきはじめた。
「鼾を?」私は問い返した。
狸さ。だから、最初に云ったとおり、これは僕が生れて初めて経験した嫉妬なのさ。狸寝いりなの、さ。
そのうち……女が小さい声をたてた。その声に、僕も、はッとしたね。今すこしで狸寝入りの鼾を止めてしまうところだった。僕は眼をうっすらと明けていた。恰で、誂えたように、月影が倉の翳で二人の座っているところだけ暗くしているではないか。
「僕の部屋へ行こう」
青年が押えるような声で云った。
「…………」女が首を横に振っている。
「大丈夫だよ。先生、寝っちまっているんだもの。鼾をかいているじゃないか」
佐々木さんはここまで話してから急に口を噤じた。私は黙って次の言葉を待った。しかし、佐々木さんはそれきり暫く黙っていた。
可哀そうなことをしましたよ。青年は、それから間もなく応召されて……出征。南太平洋の孤島で戦死しました。友人達の噂では童貞だったろうということです。僕が鼾をかいたばかりに一生一度のチャンスを僕はこの弟子に与えてやれなかったのです。僕が、「鼾をかかない男」であることを、女はよく知っていましたからね。哀れな物語ではありませんか。