汽車が山へかかった。車体の傾斜を右の肩に感じて、私はふと本から眼を離した。――本とは、出がけに送られた川端康成のよき短篇集。
車窓の外を山が動いて行く。
――あら、妙義山が見えてよ。
――違いますよ。
――あら、そうだわ。
――違いますったら。
隣りの恋人は退屈な話のつなぎを、自然界に移したものらしい。上野からここまで話し続けている彼等であった。
――あら、やっぱりそうよ。
――違いますったら、強情だなあ。
――あなたこそだわ。
あまのじゃくって云うのよ、あなたみたいな人。
概ねはこういう会話である。世の中にはどうしてこう恋する人々の多いのであろう。
私はまた本を開く。
今宵われ妻をめとりぬ
抱けばをみなのやはらかきことよ
わが母もをみなゝりしよと
涙流して新妻に云ひぬ
よき母になり給へよ
よき母になり給へよ
われわが母を知らざれば。
レールが奇妙な不調和音を出した。汽車が大きな
曲線を作って山の裾を曲がって行った。私はふと冷やかな信州の
山峡の空気にくちづけた。
夕陽とは云え、激しい夏の太陽が、汽車の回転につれて、谷の向こうに動いて行った。ちょうど私の向かい合わせの窓の中で止まってしまった。私は眼をパチパチとさせた。――と、そこの向かいに坐っていた一人の若い紳士が、いきなり、読んでいた雑誌を窓の所へ持って行った。ほんとの反射的な動作であった。私が眼を落した時、そうやって作られた
陰影の中に、幼い女の子がすやすやと、横になって眠っていた。紳士は時々眼を子供の上に落し、いつもその顔の上に陰影のあるようにしながら、また雑誌を読み続けていった。
私は
何故かこの若い父親に限りない好意が持てた。若い父親は鼻の下に短い髭を生やしていた。
私は子供を見た。まだ四歳位であろう。無邪気な丈夫そうな女の子である。私はその子供の顔から若い父親の顔の印象を差し引いて見た。そうやって抽象された母親の顔を、空想のカンバスに素描した。それは私の一番好きになれそうな女の顔であった。
『かあさん、かあさん、かあさん』
『母さんはここにいますよ。生きていますよ』
『かあさん』
子供はまた身体を病室の襖にぶっつけた。そして、わっと泣きだした。
『入れちゃいけないぞ。入れちゃいけないぞ』
『あなたは冷たいのね』
妻はあきらめたように眼をつむって首を枕に投げ出してしまった。……
私はこう読んでゆくうちに、ふと向かい合わせに眠っている子供の事が考えられて来た。この子供の若き母も、……と考えた。ぎごちない父親の慈しみの中に、あわれ育ちゆく
幼児よ!――すやすやと眠っている頬のあたりから、軽く開かれた唇のあたりに、何とも云えない淋しさが漂うている。床の上に脱ぎ棄てられた小さい二つの白靴も、なぜかしんみりと
可憐しかった。
陽はもうかげっていた。山の
端の群雲が、たとえようもない怪しい色に動いて行った。――若い父親はカバンを下ろしていた。
汽車は碓氷の
隧道にかかっていた。
今宵わが娘眠らず
抱けばをみなのやはらかきことよ
わが母もをみなゝりしよと
涙流して幼児に云ひぬ
よき母になり給へよ
よき母になり給へよ
われもわが母を知らざれば。
私は本を閉じた。
恋人の私語がまた耳に
這入って来た。
――ほんとに、お母さんに話したの?
――…………
――え?
――だって、もう知ってらっしゃるのよ。
――諦めてらっしゃるのよ、でしょう?
――まあ! 嫌な方。
こういうデリケートな話は避暑には向かないのである。私は前を向いた。幼児は眼を覚ましていた。きょとんとした寝起きの眼をぱっちりと開けている。父親が靴のボタンをはめてやっている。なかなかはまらないので、子供はわざと足をぶらぶら振った。
私はポケットから、銀紙に包んだチョコレートを取り出し、それを子供にやった。父親が代わりに礼を云った。ちょっと笑った。私のこの奇妙な不作法を咎めようともしない快い微笑である。私は恥ずかしい気持ちがした。
汽車が軽井沢の駅に
這入って行った。外はもうすっかり
黄昏れて、白樺の幹がほんのりと、高原の静けさの中に眠っていた。
この
車室の人々は大概ここで下りるのらしい。私も立ち上がった。私はふと、ゆるやかに動いて行く
車窓の外のプラットホームに、一人の女性の姿を
見別けた。私ははっとして瞬いた。
彼女である。――五年前に別れた、あの日の諒子であった。
私はレインコートの襟を深く立てて、黒のソフトを眼深に冠り、反対の降り口を、まだ停まり切らないプラットホームに降りた。二三歩して振り返った。
彼女はちょうど降りて来たさっきの子供連れを迎えていた。子供が彼女に縋っていた。彼女は水色の明石を着て、薄い黒の手袋をはめていた。
――独りで困っちまったよ。
――すみませんでしたわね。
子供の帽子を直しながら、諒子の顔が華やかな幸福の中に溶けて行った。夜風が朗らかな笑い声を、私の耳にまで運んで来た。
私は向き直って、人混みの中を
陸橋にかかっていた。汚れたカラが襟につめたい。この高原の夏の夜は、あんまり涼し過ぎる。
(一九二六・七・八――軽井沢にて)