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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage4
第73回バトル 作品

参加作品一覧

(2024年 1月)
文字数
1
おんど
1000
2
サヌキマオ
1000
3
ごんぱち
1000
4
アレシア・モード
1000
5
横光利一
1480
6
野村胡堂
1451
7
野村胡堂
1187
8
野村胡堂
1045

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長編小説(途中まで)
おんど

夕方から雨になった。
12月だというのに日差しは強く、日中の最高気温は20℃を超えた。
私の体温も38℃を超えた。
温泉が枯れて地下水をくみ上げて温めたお湯に浸かっていると身体がじりじりと絞めあげられるような圧を感じ、気がつけばぶるぶると震えて風邪だった。
梶原さんも同じ湯に浸かって同じように身体を震わせた。何かに縛られているようだと私に同調した。熱も出た。38℃を超える熱だった。
「ふたり合わせると76℃ですのね」と仲居が言った。
「そのようですね。ああたしかにふたり合わせると76℃だ」と私はスマートフォンの電卓をたたいた。
「ところで、日経平均株価の終値はどうかね」
「わかりません」
言葉遣いは丁寧だが、どこか横柄な態度を見せる仲居だった。
「仲居だったら、本日の日経平均株価の終値くらい覚えておくべきじゃないかね」
そう言って私は38℃を超える熱でふらふらになった身体を斜めに倒し、その先にある仲居の肉体を押し倒した。
めりめりっと音がして布団部屋と廊下を隔てる襖が布団部屋に向かって倒れたからそこが布団部屋だとわかり、他に宿泊客がいないため鬼のように積み重なった布団の中へ二人の身体が無音で飲み込まれたのはいいが、きっとめりめりっという処女膜を破るような音は廊下の反対側の客室の中の布団に臥せっている梶原さんの耳に届いたはずだった。
ひっと仲居が鋭く飲み込む息を手のひらで押さえ、ここ数カ月で数組の泊り客しか訪れていないせいで布団どうしが布団臭さを温めあったようなアジの開きの皮を舐めた時に感じる鉛のような匂いが鼻をついた。
仲居は唇ぜんたいにあてがわれた私の手のひらの中指と人差し指の付け根あたりを悪びれもせずぺろんと舐めた。
「悪びれっくす新潟」と仲居は言った。
むらむらと怒りがわいた。
布団の奥に縄があった。
姥捨て山へ連行される寸前の老人たちが囲炉裏端で草鞋を編むようなチリチリの縄ではなく、ワークマン女子が愛好するような明るいオレンジ色のつるつるした直径6㎜ほどの縄だった。
私の手のひらをもはや無警戒にぺろぺろ舐めている仲居の分厚い唇に縄をあてがい、うしろにひっつめたお団子髪の上を通って二重三重に巻いてやった。顔の下半分がオレンジ色の縄に覆われその隙間から仲居はよだれを垂らし、まるでこうなることを私たちが大泉から関越道に入り高坂サービスエリアで渋滞につかまるあたりから予想していたというような厚かましい顔でオレンジ色の
長編小説(途中まで) おんど

百年の姑息
サヌキマオ

 前世の記憶があったので、確認して現状に大いに満足した。人間としては大変につまらない人生だったので「生まれ変わるならなにがいいか」という問いは「深山幽谷の苔がいい」と答えていた。そうした結論に至るまで思考を巡らすくらいには、一生が暇だったのだ。
 生き物もなかなか入らぬ川である。源が近いのかもしれない。摂理でなるように生えた木々の隙間から毎日同じように日が差したり差さなかったり、差すときには光を全身で取り込んで体中の緑が燃える。炭素を取り込んで大きくなる。水かさが増せば流れに洗われ光り輝く。己の大きさは宇宙の、地球の規模から見れば存在しないようなものであるが、確かに生きていた。次の雲がどのような影を落とすかを楽しみとした。
 空が闇くなった。岩の上から降った雨が滴り、下の川から水が洗いに来る。
 流れに乗って影が見える。大岩魚だ。岩魚は自然に踊らされているように見えて、実は普段通わぬ道の、ふさふさと生えた苔の山に目を細めているのかもしれぬ。がり、と音がしたようなせぬような、己のすぐ横の苔の塊を大きくえぐって消えた。己も苔のつもりでいたが、どこまでが己で、どこからが己ではないのだろう。とまれ、嵐の前には緑一色だったところに、大きく傷痕ができた。もし次の岩魚がきたら己の番だろう、と心に決めた。しばらく動く影に身を竦めはしたが、まもなく嵐は去った。日が差して触れた岩肌がきらきらとした。
 それから何年経ったかはわからない。あいかわらず身体の緑は燃えて、身体は広がり続けている。えぐられた岩肌も周囲から侵食した苔がすっかり埋めてしまった。
 蟹が通った。蟹は苔のふさふさと長く伸びたところから、はさみを使ってもそもそ食べている。お、これだったらいいな、と思った。蟹のような節度のある態度は好ましく映った。かといって生まれ変わったら蟹になりたいかというと、特にそういうこともないのだった。蟹は今の自分よりもずっと簡単に他の動物に食べられてしまうに違いない。
 また何年たったことやら、己の周囲はもっとあたらしい、ぴかぴかの苔で埋め尽くされていた。昔ほど体が燃えず、葉は捻じくれて、流れる水に身体がぶらんぶらんする。
「やれやれ、ようよう逃げ延びたぞ」そうした感想が漏れた。己はなにから、どう逃げ延びたのかはわかっていない。しかしながら、自分の中の実感として「逃げ延びた」という感想が生まれてしまったのだ。
百年の姑息 サヌキマオ

粉挽きロバのお話
ごんぱち

 昔、とある農場に、3匹の粉挽きのロバがおりました。
 それぞれが繋がれた石臼は、倉庫と繋がっていて、回した分だけ麦が追加されるようになっています。
 主人は、ロバの仕事を出来上がった粉で測りながら、鞭で急き立てたり、餌を多くやって褒めたりしていました。

「ふぅ、やれやれ、これぐらいで良いかな」
 痩せたロバが、足を止めました。
「おいおい、そりゃあ少なすぎるよ」
 逞しいロバが笑います。
「鞭を貰わなけりゃ、充分さ」
 痩せたロバは座り込みます。
「なんてつまらない考えだ」
 逞しいロバは、いささかムッとした顔でなじります。
「最低限の餌だけなんて、死んでいるのと何が違うってんだ。たっぷり食べる事が一番だろ。足りないから分けてくれと言っても、酸っぱいカタバミ1本も分けてやらないぞ」
「かまわないよ。僕の身体には、最低限の餌で充分だ」
「怠けたいだけだろ、ごまかすなよ。お腹空かして後悔して俺に泣きつくしかないんだ」
 痩せたロバは、背中を向けて寝てしまいました。
「図星だったな、何も言い返せないだろ!」

「――よし、これで終わりっ!」
 小柄なロバが、足を止めました。
「おいおい、まだ日も暮れてないぞ」
 逞しいロバは、呆れたように言います。
「日暮れまで挽くのが本当だろう」
「充分粉は挽けたよ」
 すばしこい小柄なロバが挽いた粉は、逞しいロバの100倍はありました。
「これで100日分も余分に餌を貰えるだろうからね。私はしばらく休むよ」
「なんて甘い考えだろう!」
 逞しいロバはすっかり馬鹿にした風に言います。
「100日の餌なんて、30日分ずつ食べれば4日でなくなってしまう」
「そんなには食べないよ」
「100日分も挽く君は、それぐらい食べるに決まってるし、100日も働かずにいられるものか」
「そしたらまた働くよ。キミの理屈じゃ、休みは4日だけどね」
「無理だね。休んでいたら、身体が慣れちまう。そこから働いたって、半分も挽けるものか。そうなれば、鞭を貰いながら、飢えて過ごすしかなくなるんだ。それなら、ずっと働いていた方が良いじゃないか」
 まくしたてる逞しいロバに、小柄なロバは背を向けて寝てしまいました。
「ほら言い返せない、働き続ける者こそが偉いんだ!」

 逞しいロバは、早朝から夜遅くまで休まず挽き、ついに足を悪くしてしまいました。
 主人は7日ほど鞭をくれた後、血の臭いのする荷車に逞しいロバを積み、運び出していきましたとさ。
粉挽きロバのお話 ごんぱち

おせちもいいけど
アレシア・モード

 正月なのでカレーを食べようと思う。なぜだろう。そう思ったからだ。キャンディーズ曰く、おせちもいいけどカレーもね。断じてピザではない、正月はカレー。これは哲学かもしれない。インド哲学?
「お待ちなさい」
 私――アレシアは口に運びかけた匙を止めた。
「誰だオメーむさいヒゲだな」
「私は通りすがりの孔子。なるほど正月にカレーを食う女は礼節が足りませんな。おせち料理は周王朝の礼制を受け継ぐ伝統、正月に食する事で祖霊や天帝への敬意を表します。人間はおせちで道徳を高めるのです」
 主語も述語もデカすぎる。
「すまんがここは日本だし周の祖霊とか居ないし文化の押し付けで多様性の否定ですわ。じゃ」
「お待ちなさい」
「わ、またヒゲだ」
「私は通りすがりの孟子。確かにここは日本だが、ならばおせち料理こそ日本の伝統と文化を表す正月の王道。貴方はおせちを食べて日本の神様との調和を求め、善の心を育てなさい」
「お待ちなさい」
 またヒゲだ。
「私は荀子。おせちは社会的規範であり神様との調和ではない。そもそも人間に善の心など無い。人がカレーを望むならカレーを礼と重んずる規律正しいカレー社会から整備すべきです」
「お待ちなさい」
 あっ、外人だ♡
「ボンジュール、ワタシ通りすがりのルソーですが、そうした社会文明こそ人間の不幸の源。人間はもっと自然に暮らす事で悪い欲望を抑制できます。おせちもカレーも人間の欲望の産物だから、どっちも食べるのやめなさい」
「不幸マックスじゃん!」
「うむ! 私は通りすがりのベンサムだが、我が幸福計算法によればカレーとおせち、どちらがより多くの幸福を与えるかが大切だ。カレー好きが多いならカレーを最大化する社会が必要だ」
「通りすがりのミルですが、辛いの苦手なんでカレーの方が不幸です。好きな方を食べたら社会は最大幸福って事で何とぞ」
「ちょっと待った」
 何か神経質そうな男が割り込んだ。
「私は通りすがりのサルトルだが、人間は社会によって存在するものではなく、人間は存在を自己決定する自由存在でありおせちとカレーの選択は自己の存在を自己規定する自己表現で自己の本質で自己証明であり因って貴方はカレーを食べ伝統文化への叛逆としてその結果に自己責任を負う事で存在を選択し正当化し」
「ちょっと待った」
 思想家たちは周囲を見回す。
「アレシアはどこだ?」

 アレシアは逃げた。一人称設定も無視して逃げた。泣きながらカレーを食べた。
おせちもいいけど アレシア・モード

寝たらぬ日記
今月のゲスト:横光利一

〈湘南サナトリウムの病院にて〉
 桜草が雨に濡れたまま円陣を造っている――
 昨日は日光室で煙草を一本吸うと、馳け足で引き返し、リゾオルの中へ手を突っ込んだ。
 此処の病室には愛と日光とが行き渡っている。角のあるものは、ドアーと三角形のレントゲン室と、病人だけだ。
 昨夜はベランダで寝た。眼を開く度に、月が鼻のさきにぶら下がっていて邪魔になった。
 朝起きたとき、
「ほう、朝だ」と思ったら、痔になっているのに気がついた。しかも、海は山と山との間から、厳格な朝の挨拶をし始めた。
 ――今日は雨だ。バルコオンが濡れている。梯子は骨のように立っていて不吉である。
 花束が見知らぬ患者から贈られた。これも濡れているので触ってみた。
 日光室の患者は、硝子の中で聖書を持ったまま、雨を仰いでいた。
 ――汝もし百疋の羊を得たらんに、その一疋を失わば、九十九疋を置きて迷える一つを山に尋ぬべし。(タイ伝某章)
 此処の山には蠅が多い。病人は一日、天井にとまっている蠅の数を算えていた。
 僕は病人の便器の中へ古新聞を押し込んだ。ふと見ると、
「自己を見詰めよ、」と書いてある。僕は便器の中を見詰めていた。
「真に生きよ、真に」――馬鹿な話は、もう止そうではないか。子供がまた一人増すだけだ。
 少し暇が出来ると、病室の蠅叩きと蠅追いだ。
「さて、もうこれでいなくなった、」と思っていると、自分の身体に一番真黒くたかっていた。
 今日は何日か、さっぱり分からない。
 ここへ来てからは腹が空いて仕方がない。殆ど朝の五時から夜の十一時まで立ちづめである。動きづめである、啖の取りづめである。
 煙草を一本吸う暇を見つけるためには、小説の題を考える程の才智が必要になって来た。
 此処は肺病院であるが故に、煙と云う奴は敵である。少なくとも、煙は人間の道徳に従って決して動いたためしがない。
 夜の九時が来ると、ここは一斉に灯が消える。すると、われわれは平凡に寝なければならない。そこで、私だけは、その日の二本目の煙草を吸うために、足音を忍ばせ、灯の消えた廊下を伝って軒へ出る。
 ――何処へ、と問うものあれば、
 ――待人あり。
 人間はこう云う気品のあることを云いたいのだ。
 今日は病人の寝ている暇に、送って来た雑誌を繰ってみた。活字の大小逆倒に対する論戦一条。しかし、此の論戦は、結局、いずれにせよ、「非」概念的で問題にならない。問題になるためには、「概念」に足を踏み込んでいなければ。
 概念とは範疇である。――インマヌエル・カント。
 今日の花は薔薇と菊とひな罌粟げしと、名も知らぬか弱き花と。
 食慾のない病人は、ひたすらに花にすがって痩せて行く。
 大阪の「辻馬車」が玄関から這入って来た。
 川端康成の葉書が舞い込んで来ると、風がやんだ。
 康成さんが来ると云う。来れば、第一にバルコオンへ連れて行こうと思う。それから、僕は煙草を吸う暇を見つけるだろう。
(飯田豊二よ、もう此の位で赦してくれ。眼が廻るのだ。それから豊二よ、君の此の頃書く雑文は面白い。石鹸の泡を顔に塗って、まだ、自然主義の穀が抜けぬと憤慨しているあたり、油断がならぬ。
 豊二よ、僕は独楽のように廻っていながら、後三四日の間に、戯曲を二つと、小説を一つと、雑文を四つ書かねばならぬ。僕は病院の手品師だ。痩せた花嫁は貰ってはならぬ。自然主義はどこまでも花婿を追っ馳ける)

       ×  ×  ×

 今日は昨日の翌日である。雨はやんだ。昨夜は五度起こされて、頭重きままに、濡れた竹の皮の草履をはいてこの高みに立った。雨を含んだ白い野茨のいばらを折って下を見る。病んだ妻の着物が竿に長くかかっていた。
寝たらぬ日記 横光利一

八五郎手柄始め(上)
今月のゲスト:野村胡堂

 明神下の銭形の平次の家へ通ると、八五郎は開き直って年始のあいさつを申し述べるのです。
「明けまして、お目出度うございます――昨年中はいろいろ」
「待ってくれ、その口上はもう三度目だぜ、ご丁寧には腹も立たないというが、お前の顔を見る度ごとに、一つずつ年を取りそうで、やりきれたものじゃない、頼むから世間なみの挨拶をしてくれ」
 もっとも、三度目の年始に来た八五郎は、かなり酔っておりました。
「相すみません。悪気じゃなかったんで。余計ぶんの口上は、来年の年始に廻して置いて下さいよ、何しろ、目出度いの目出度くないのって、今年の正月は別あつらいで……」
「正月に出来合いも別あつらいもあるものか」
「そうともいえませんよ、今年の正月は、滅茶滅茶な大当たりで、私はもう」
 八五郎は長ンがいあごをなでまわして、髷節での字を書くのです。
「大層な機嫌じゃないか、新イロでも出来たのか」
「そんなものは珍しかありませんよ。古い借金と新色はついて廻るが、小判なんというものは、滅多なことじゃこちとらの身についてくれません」
「何んだと、お前はまさか、小判を手に入れたわけじゃあるまいな」
「ところが、確かに小判を手に入れたに間違いありませんよ。天道様に照らされても、とたんに木の葉にもならず、両国で一杯飲んだのが崩し始めで、柳原の土手を酒屋と小料理屋を一軒一軒飲み歩いて、七、八軒目にここへたどり着きましたが、小判というものは遣い出がありますね、親分」
 ペロリとくちびるをなめて、両掌を宙に泳がせる八五郎です。
「あきれた野郎だ。そんな金を何処で拾った、まさか、盗んだわけじゃあるめえ」
「あれ情けない。たまたま稼いで儲けた金を持っていると、こうも疑ぐられるものですかね、貧乏人は」
「一両は大金だ。お前にそんな働きがあるわけはねえ」
「いよいよ驚いたなア。こう見えても、智恵を働かせて稼いだ金で、何処へ出しても、きまりの悪くない一両小判ですぜ」
「それじゃ、聞いてやろう」
 平次はむずと腕を組みました。八五郎の人の良さはわかりすぎるほどわかっておりますが、万一にも間違いをさせたくない、平次の潔癖さの現われです。
「わけを話すとこうですよ。本所花町、三つ目通りに、江島屋という万両分限の材木屋のあることを親分もご存じでしょうね」
「知ってるとも、先代は七兵衛――良い男だったが、仕事に熱心な男で敵を作りすぎたから悪七兵衛と言われた。なんでも一年ばかり前に、日光山御造営のことで間違いがあったとかで、行方不明になったはずだが、だれでも知ってるよ」
「その七兵衛の義理の弟――半三郎というのが今の主人で、相変わらず材木屋をやっているが、昔のようなことはありません――ところで、その先代七兵衛の娘に、おさめさんという、とって十八になる娘がある。母親は三年前に亡くなり父親は一年前から行方知れず、叔父の半三郎の厄介になっているが、近ごろはいろいろのわけがあるらしく、花町の江島屋を出て、父親の七兵衛が好きだった、亀戸の天神様の近く、亀戸町の田んぼの寮に一人で寂しく暮らしている――というが、それが大した好い娘で」
「お前に言わせると年頃の娘は皆んな美人だ」
「ところで、この間亀戸の天神様へ初詣でに行ったとき――今年の恵方は東の方でしょう、久し振りに臥龍梅がりゆうばいでも見ようと、田んぼ道を入ると、江島屋の寮の庭へ出た。私と一緒に行ったのは三つ目の竹の野郎で――あとで聞くと、かねて銭形の親分か、その子分の八五郎を誘って来るようにと、江島のお嬢さんに頼まれていたんですって」
八五郎手柄始め(上) 野村胡堂

八五郎手柄始め(中)
今月のゲスト:野村胡堂

「で?」
「竹の野郎は、銭形の親分には言い難いからと、あっしで間に合わせたと言いますがね、間に合わせは気になるじゃありませんか」
「まアいい、その先を話せ」
「お嬢さんに逢いましたが、好い娘ですぜ、少しやつれてはいるけれど利口そうで、愛敬があって、縁側へ向かい合って掛けると、なたで梅の花がプーンとにおう」
「話はくどいな」
「お嬢さんは、あっしに一枚の紙をひろげて見せるのですよ。一年前に行方知れずになった父が、姿を隠す前に、私にこの紙片かみきれをくれて、一年経ってから見ろ――と言いました。一年経って見たけれど、私には、何が何やら少しもわからない、お願いだからこのナゾを判じて下さいと」
「何が書いてあったのだ」
「文字はたった十一、こいつは皆んな日本の字だから、あっしにだって読めまさア。――たしのしい、けたはのらう――とね」
「何だ、そんなことか」
「親分なら、直ぐわかるでしょう。あっしは小半時はんとき考えましたよ。幸いお嬢さんと向かい合っていたので、その紙片を逆に見たら、一ぺんにわかりました。何だ、下から読めばよかったんで」
「なるほどな。――裏の畠、石の下か――まるで子供だましじゃないか」
「でも、このナゾを解いてやると、お嬢さんは喜びましたよ。今まで二、三人に見せたが、だれも解けなかった。それでは裏の畠の石灯籠の下に父親が、なんか埋めたに違いない。日光山御造営のことで、江島屋取潰しの噂のあった頃だから何千両という金を埋めたかも知れないと」
「それは大変なことだな」
「早速お嬢さんにすすめられてあっしが、鍬始めに掘りましたよ」
「なんか出たのか」
「石灯籠の下から出たのが、小判が一枚、お嬢さんに差上げると、これは八五郎親分の智恵と働きで掘ったものだから、骨折り賃に収めてくれと、どうしても受取らない」
「なるほどそれで両国から明神下までハシゴ酒をやったのか、あきれた野郎だ」
「ところが、それからが大変で」
「何が大変だ」
「お嬢さんが、裏の畠を勝手に掘っても構わないと言いだしたからたまらない。本所中の野次馬が、二、三十人も押しかけ、鍬まで持ち出して、江島屋の寮の裏を掘り始めましたよ。世の中には、欲の深い奴は多いもので」
「お前だって浅い方じゃないぜ。その一両は江島屋へ返して来い」
「二分しきゃ残っていませんよ」
「使った分は俺が出してやる。――ところでお前は、その謎を書いた紙片を持って来たのか」
「これですよ、いい手でしょう」
 平次は八五郎が懐から出した、もみくちゃの紙片のしわを伸ばしました。半紙一枚、細い文字で優し気に書いた仮名文字は、妙に平次の神経に響きます。
「これは女の書いた字だよ。それに腑に落ちないことばかりだ、お前が行ったのはいつのことだ」
「今日ですよ、――ほんの今朝ほど」
「まだ陽は高い。ちょいと覗いてみよう」
「江島屋の裏は大変ですよ」
 平次は八五郎に案内させて、亀戸まで飛びました。
八五郎手柄始め(中) 野村胡堂

八五郎手柄始め(下)
今月のゲスト:野村胡堂

「あの通りだ。親分」
 亀戸へ着いたのはもう夕方、薄暗くなりかけた江島屋の寮の裏、畑の中にかがりまで焚いて、五、六十人の野次馬がひしめき合っているのでした。
 その野次馬の中には鍬まで持ったのがあり、それぞれの道具を持ったのや、それとはなしに棒切れなどを持ったのや、老若男女をこみにして、石灯籠を中心に、二、三たんの畑を、メチャメチャに掘り荒らしているのです。
「さアさア帰ってくれ、誰に相談をして、人の土地を掘り荒らすんだ。もぐらの真似はもうごめんだ、さっさと帰らないと、お上の手をかりて退散させるぜ」
 縁側の下に突っ立って、ふんぷんたる声を張り上げるのは、江島屋の当主の半三郎でしょう。四十前後の精力的な赤い顔、こんな男は、本当にどんな事でもやりかねないでしょう。
「お前が悪いのだ、何んだってこんな事をさせたのだ。今時の畠の中からはみみずも出るわけはない。サア何んとか言えッ」
 振り向くと半三郎の後ろには、打ちのめされたように、若い娘がふるえております。先代の娘――八五郎に謎を解かせたおさめというのでしょう。青白いが品の良い顔、打ちしおれておりますが、顔をあげるととした叡智が眉の間をはしって、美しくはあるが、何様ひとかどのものを感じさせる娘です。
「さア、皆様、叔父さんがあんなに申します。どうぞ帰って下さい、そこにはもう何にもありません」
 という声も、半三郎に強いられて、幾度くり返したことか、もう絶え絶えです。
「いや、続けてもらおうか、その石灯籠の下にはまだ鍬は入らない、灯籠はどかせてもいい」
 こう声を掛けたのは平次です。ここへ飛び込んで平次は、野次馬の群れを前から手をあげてこう言うのです。
「お前は誰だ、何のわけがあって、そんな事を言うのだ」
「明神下の平次だよ。――さア、皆の衆、もうひと息」
 石灯籠は引っくり返されました。四つ五つ提灯が集まりました。石灯籠の真下を二尺三尺と掘り下げると、
「あ、出た」
 それは小判でも千両箱でもなく、荒むしろに包んだ人骨、半ばれた、浅ましい死骸ではありませんか。
 野次馬の大群はドッと散りました。
「八、江島屋七兵衛殺しの下手人、半三郎を逃すな」
 平次は声を掛けると、
「御用ッ」
 八五郎は猟犬のように飛びついて、威張り返っている半三郎を取って押さえたことはいうまでもありません。
「――」
 振り返ると、縁側に降りた先代の娘のおさめは、平次の方をふし拝んでおります。何が何やら、わけもわからぬ野次馬は、八五郎の声に驚いて夕闇の中にバラバラと散って行きます。


「これは一体どうした事なんです親分」
 半三郎を土地の御用聞に引き渡して帰る途、八五郎は尋ねました。
「一年前の日光山御造営の間違いは、半三郎の拵え事だったのさ。あとで七兵衛の無実はわかったが、その時はもう七兵衛は行方知れずで、江島屋は半三郎が乗取っていたのだよ。娘のおさめは、父親が半三郎に殺されたに違いないと思い、―― 一年前寮へ半三郎と一緒に来たっきりから行方知れずになったので、裏の石灯籠の下の土まんじゅうが怪しいとにらんだ。小娘の力ではそれを掘るわけに行かず、その上近所には半三郎がにらんでいる、そこで、へんな謎を拵えてお前を呼び寄せて、謎を解かせた上、石灯籠の下を掘らせたのだよ。あの謎はあんまり下手すぎたし、字は優しい女の子の筆蹟だ。――お前でも解ける謎は、まずあんなものだろう。――そして多勢の野次馬を呼んで、石灯籠のまわりを掘らせたのだ」
「ところで半三郎は?」
「七兵衛殺しの大悪党だ。それを器用に縛らせた納という小娘は大したものだよ」
「あっしの初手柄も大したものでしょう」
 相変わらず、アゴをなでる八五郎です。両国の橋の上、夜の水を渡って、筑波おろしが頬をなでます。