神馬
今月のゲスト:横光利一
豆台の上へ延ばしていた彼の鼻頭へ、廂から流れた陽の光が落ちていた。鬣が彼の鈍った茶色の眼の上へ垂れ下がると、彼は首をもたげて振った。そして又食った。
肋骨の下の皮が張って来ると、瞼が重くなって来て、知らず知らずに居眠った、と不意に雨でも降って来たような音がしたので、眼を開くと黄色な豆が一ぱい口元に散らばっていた。で彼は呉れた人をチラッと見たきり、鼻の孔まで動かして又食った。いくら食っても、ウツラウツラとしている中に腹の皮がげっそり縮まっていた。彼は食い倦きると、此の小山の上から下を見下ろした。
淡紅の蓮華畑や、黄色な菜畑や、緑色の麦畑が幾段と続いていた。そのずっと向うには、濃い藍色の海が際涯しなく拡がっていて、その上を水色の空が恰も子守りでも命ぜられているかのように柔く圧えていた。彼は豆台を飛び越えて走りたくなって来た。が又豆がパラパラと撒かれると何もかも忘れて了った。一間程前で、朱の印を白い着物中にペタペタ押した爺が、檜傘を猪首に冠って、彼を拝んでいた。彼はその間ムシャムシャ頬張っていた。顔を揚げると、傍で小僧が指を食わえて、不思議そうに彼を見ていた。
(何て小っぽい野郎だろう。だが此奴は呉れよらん)彼は眼を爺様にむけた。爺は拝み終えて子供の頭を圧えながら云った。
「さあ、さあ、拝まっしゃれ。そんなに見たら眼がつぶれるぞ」
子供は圧えられている頭の下から未だ彼をジロジロ見ていた。軈て彼らは去った。
(阿奴ら変梃なことをしやがる。何をしやがったんだろう?)
急に臀部が気持ち悪くなった。彼は下腹に力を容れた。そして尾をあげるとボトボトと床が鳴った。瞼が下りかけた。と石段を辷って地べたの上を音もたてずに、すばらしい勢で走り過ぎた小さい影を見た。何かしら? と思って過ぎた方をよく見ると、高い空で鳶が気持ちよさそうに輪を描いていた。
(何だ、鳶か俺は又牛虻でも来やがったのかしらと思ったら)そして彼は又眠ろうとしたが、木の影から黄色な鯉が竿の尖端に食いついて遊んでいるのが眼につくと、それを瞶めていた。広い道が畑の間を真直に延びていた。首を振り乍ら歩いている馬や、唄を歌っている頬冠りした人間や、車等が沢山往ったり来たりしていた。
(出て歩きたいな)と思うと、両側の柱から垂らして口もとで結んだ縄を噛み切りたくなって来た。と何日か二三度逃げ出た時、三四日の間一食もくれなかった苦痛を思い出した。
(あんな目に合せやがる―)彼は首を振った。風が吹いて来た。前の榊の枝がざわついた。下の道に白い塵埃が舞い立って人も車も馬も飲み込まれた。鯉は竿に縋り、ガランが激しく鳴った。塵埃が向うの山の麓の方へ走り去ると又静になった。そして暗くなった山の峰が直き明るく輝いた。蓮華畑の横で女の子らが寝転びながら摘草をしている。他の二三人は麦畑の中で隠れんぼをしている。見つかるとキッキッと云った。お転婆らしい。掘り返した畑で大分腰の曲った男が肥料を撒いている。白い煙を吐いた下り列車が山際をノロノロ這っている。石段の方から鈴の音が響いて来た。彼は急いで首をその方に向けた。赤銅色にギラギラ光った顔の男が長い杖をつき乍ら下りて来た。男の顔には鼻がなくて真中に小さな孔が二つ開いているだけである。
(妙な野郎、呉れるかしら?)が男は彼れを見るのは見たが、素通りした。
(あかん。おや! 又来たぞ)下から下駄を叩きつけるようなあわただしい音がして来た。
(駄目駄目。奴は毎日通る奴だ)
直ぐ下の方が又喧しくなった。暫くすると五十人余りの子供らが教師に連れられて上って来た。彼の前で教師は子供らを些ょっと止めて説明した。
「皆さん。この馬は、日露戦争に行って、弾丸雨飛の間をくぐって来た馬であります。馬でさえ国のため君のために尽して来たのでありますから、皆さんは猶一層勉強をして、国家のために尽さねばなりません」
子供らは口をポックリと開けてみな彼を見ていた。誰も顔をほてらしている。
(あいつらは何だろう俺をジロジロ皆見やがる。だが呉れそうもない)そして彼は食い残した前の五六粒の豆を拾った。子供らは又饒舌くりながら、塵埃を立てて石段を昇って行った。彼は食い物がなくなると、何かそこらに落ちていないかと思って、あたりを見廻した。が何もなかった。眼の前の箱にもった豆を食いたいが口がとどかぬ。つと榊の下に捨ててあった黄色な橙の皮に眼がついた。
(何だろう、あれゃ?)彼は色々考えてみたが遂々分らなかった。然れ共食い物に違いないとだけは思った。そして妙に気にかかってならなかった。(食いたいな)
その時遠くの方から馬の嘶声が聞えた。彼は刺されたように首をあげて耳を立てた。
(おや! あれゃ牝馬の声だぞ)もう橙のことを捨てたように忘れて了って、猶じっと聞いていた。(牝馬だ。牝馬だ)迅速な勢でギューと何かしら背骨を伝って下へ走った。彼は前足を豆台の上へ乗っかけて飛び出ようとした。両側の縄がピンと張って口をウンと云う程引いた。で彼は直ぐ足を落ろした。頭の中がガーンと鳴っていた。狂い出しそうになった。で後足に力を込めて、無茶苦茶に床板を蹶った。社務所から男が来て彼を鎮めた。それでも未だ馬舎の中で立ち上ったりした。頭がはっきりした時には、牝馬の嘶声が聞えなかった。彼はその方にじっと向いていた。
淡藍の遠山がかすんでいた。海には白帆が二三点見えた。暖い陽が総てのものの上に愉快げに見える。子供の喇叭を吹く音が聞えて来た。入道雲が動かない。
(何処で嘶いたのだろう)
彼の前には綺麗な若い娘と白髪を後頭で刈り切った老婆とが立っていた。老婆は財布から二銭玉を出して、机の上にのせて、一升の豆を豆台に投げた。それから両手で何かを頂くような真似をした。其処へ黒犬の大きいのが尾を振りながらやって来て、立ち止って彼を見た。少し首をかしげている。
(ははア、此奴、豆を盗もうと思っていやがるんだな)彼はあわてて豆を食った。老婆も娘も犬も彼の前から去った。
軈て人通りが少くなった。日が落ちた。淡闇が海を渡ってきた。白帆がもう見えぬ。星が廂の角で光っている。湿っぽりした風が緩く吹いて来た。鳥が海から帰って来る。畑にはもう人が見えぬ。奥から鐘がゴーンと鳴って来た。いつもの男が彼の所へ、豆粕と藁とを混ぜた御馳走を槽に容れて持って来た。彼は残らず平げた。そして男は重い戸をピッタリ落ろした。真暗になった。外で錠前の音がカチカチとした。今日も知らない一日を彼は生きた。