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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage4
第76回バトル 作品

参加作品一覧

(2024年 4月)
文字数
1
おんど
1000
2
小笠原寿夫
1000
3
金河南
1000
4
サヌキマオ
1000
5
ごんぱち
1000
6
島崎藤村
2265

結果発表

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長編小説(途中まで)
おんど

あぐらを搔いているせいか足の匂いが鼻をつくのだった。もちろん革靴には活性炭フィルターを敷き詰めているし仕事中しばしば席を立ち屋上で靴下を脱いで乾かしているのに足が臭くなってしまうのだった。毎日毎日どぶ犬のような営業活動をしているから汗をかくのは仕方がないとしてもまったく売上が立たないのはどういうことだろう。売上が立たないと主力商品である酢味噌の在庫がどんどん膨らみ倉庫が酢味噌臭くなっていくしサンプルを持ち歩いている鞄もどんどん酢味噌臭くなっていく。在庫削減のために社食のカレーも半分は酢味噌が混ざっている。社内のいたるところの酢味噌臭さから逃げだすように営業に出るのだが世知辛い世の中はやすやすと酢味噌を受け入れてはくれない。団地を一軒一軒まわって奥様方に縋りついて酢味噌のレシピを提案するのだがパンツをおろせばもう酢味噌臭い。一日中歩き回ってひとつも酢味噌が売れないと死にたくなって屋上に駆け上がると屋上の手すりの前にはちょうどいい高さのスケベ椅子があった。酢味噌が売れないからスケベ椅子を踏み台にしてスケベ椅子自殺を図ったら梶原さんはどう思うんだろう。スケベ椅子の窪んだ部分に足を取られて転落死したと思うのだろうか。そこには人間の光と影が見える。これまで生きてきた中で光なんかあっただろうか。そう思うと暗くなった空が圧し掛かるように低く垂れこめてビルごと飲み込もうとするので慌てて階段を下りて地上へ出た。ビルの前の通りは右から左へなだらかに下っていて体重を預けると自然と右から左へと歩き始めた。足の指先がじっとり濡れて冷え切ってしまっていたからなおのこと速足で歩を進めた。なだらかな坂を下りきってしまうとアスファルトは途切れて砂利道になり、それをしばらく進むと砂地になった。革靴を脱いでぐっしょり濡れている足を砂の上に載せると湿った成分がすべて砂に吸い込まれていくようだった。その場で胡坐をかいて鼻を近づけるともう酢味噌の匂いはしなかった。何かが解決したような気もしたが酢味噌の匂いのしない足は物足りなかった。生きている実感がなくなってしまったようだった。私は背広のポケットから小分けの酢味噌を取り出してビニールを破り足に振りかけた。ぬるぬるになった指の股に酢味噌を揉み込んで鼻を近づけると懐かしい香りがした。たしかこんな情景を詠んだ歌があったはずだった。砂の上を人差し指でなぞると自然と歌が
長編小説(途中まで) おんど

真贋漫才
小笠原寿夫

 相方は極めて冷静だった。21歳の時に覚えた煙草が、更に吐き気を加速させた。
「無理かもわからん。」
「大丈夫やて。」
舞台袖から歓声と共に駆け足で38マイクに向かう。
「いや,、さっきも話してたんやけどね。もう再起不能かもわからん。」
「何がいな。」
「いやもう喋られへん。」
「喋ってるやん。」
「今のが俺の遺言やと思ってくれ。」
「漫才中に遺言残すなよ!」
「もう喋られへん。くも膜下出血や。」
「それ聞いて誰が笑うねん。」
「最後にこれだけは言いたい。」
「りんごが食べたいんか?美味しいステーキか?」
「乳揉みたい。」
「しゃあないな。俺ので良かったら揉ましたるわ。」
「まさか相方の乳が最期になると思わなかったわ。」
「柔らかいか?硬いか?」
「思い出すなぁ。初舞台もこうして乳揉ませてくれたよな。」
「お客さん、びっくりして声も上げんかったもんな。」
「今ではこれ見ないとお客さん、納得せえへんもんな。」
「コンプライアンスとか言うけど、乳は嘘つかへんもんな。」
「俺もう、ここで臨終してもええわ。最期の乳、確かにこの右手で揉ませてもらった。苦労も掛けたけど、最高の乳やったで。ありがとう。」
「こちらこそありがとう。もう揉んでくれる相方は居なくなるねんな。寂しいなぁ。」
「また、良い相方見つけてくれ。その時は、正統派の漫才披露してお客さん、あやかしてくれ。」
「じゃあな相方!」
「お前の乳、最高に気持ちよかったで!」
「相方ーっ!……死んでる。お客さん、見届けましたか?これがうちの漫才ですわ。これで40年やってきましてん。相方もお客さんに看取られて、さぞ喜んでいると思います。」
「それからな、相方。」
「何で生きてんねん!」
「これがほんまの極楽浄土ですわ。」
「うまいこと言わんでええねん!」
「失礼しました!」
これをする度に思う。「二度とするか。」と。
 支配人が血相を変えてやって来た時の事を思い出す。
「何やってんの君たち!うちの理念は清く正しく美しくだよ。もっと芸を磨きなさい!」
ひるんだ私に相方が、追随した。
「これも芸です。」
「兎に角、もう明日から来なくていいから。」
その時、テレビ局のプロデューサーが駆け付けた。
「君たち、テレビに出れるよ。」
その時の私の目の輝きは並大抵のものではなかっただろう。40年が経った。テレビの規制は拍車を駆けて厳しくなり、我々は時代の寵児にはなれなかった。今もテレビの電源をつける度に思う。
「こっちが本物や。」
真贋漫才 小笠原寿夫

逆転の発想
金河南

 どの対策も意味をなさず進み続ける少子高齢化。
 ついに政府は特別対策本部を設置し、根本的な解決の糸口を探りだした。
 その結果、今まで打ち出してきた出産費・小児医療費・学費などの無料政策は、そもそも子供がいないと何の意味もなさない事に気づいたのである。
 政府はまず、AIを活用した男女マッチング事業に取り組んだ。相性が90%以上の人間を全国データベースから割り出す画期的なシステムは連日メディアに取り上げられ、成婚者が右肩あがりに転じた。
 一方で子供の出生数はなおも減少し続けている。
 そこで特別対策本部は子供がいない結婚家庭にアンケートを実施した。すると、現代の若者は性行為そのものに興味が薄い事がわかった。
 次なる対策は「アムール作戦」と名付けられた。
 非常に快適なダブルベッドを新婚家庭に無償で配り、その後に妊娠がわかれば子供に関わる費用は全て国が負担する、というものである。新婚の二人が居心地の良いベッドで何時間も過ごせば、自然とそういう雰囲気になりやすいというもの。
 センシティブな問題でもあるため、アムール作戦は極秘に進められた。
 一級の家具職人を登用し、人間工学に基づいた快適な設計、音を立てないスプリング、硬すぎず柔らかすぎない枕、ふかふかの羽毛布団、雰囲気を演出するライトなどを造り上げていく。
 こうしてできあがったベッドは、満を持してモニターの新婚家庭10戸に配られた。
 だが。
 結果は驚くべきものであった。
 ベッドを配った全家庭の人間が餓死したのである。
 快適すぎるベッドから出たくないあまり、会社を無断欠勤し、惰眠をむさぼり、食事は出前で済ませ、そのうち食事さえ億劫になり、寝たきりの身体は弱り、衰弱していく……。
 モニター家庭の監視レポートを読了した特別対策本部長は、デスクから立ち上がった。
「ベッドを増産するよう工場に連絡を入れろ」
 とたんにざわつく本部内。意を決した副部長が声をあげた。
「なにをお考えですか! 人が死んだんですよ?! それも1人じゃない……全員だ!! 我々は……っ未来ある若者を殺すためにベッドを作ったんじゃない!」
「落ち着きたまえ。配るのは新婚家庭ではない」
 その言葉に虚をつかれ、副部長は怪訝な顔をして次の言葉を待った。
 本部長は副部長の肩に手を置き、薄く笑う。
「80歳以上の高齢者に無料介護ベッドの名目で送るのだよ。これで少子高齢化に歯止めがかかる」
逆転の発想 金河南

芝の浜の猫の話
サヌキマオ

 芝の浜をなるとに追われる夢を見た。小山のようなのからめめぞの王様のようなのまで、いろいろのなるとが砂地をずうりずりと這い寄ってくる。逃げるのをやめれば追いつかれる。
 なるとたちは近所の練り物工場がメルトダウンしたときに逃げたのが野生化したものだ。あの痛ましい事故から十三年。十三年かぁ、などと感慨にふける暇もなく、なるとから逃げている。暗い浜に月だけがわるわると、すっかり再建された練り物工場が岸壁に浮かびあがる。弱っちゃったなぁ、と走っていると窮すれば通ず、向こうから群を成して走ってくるのは魚河岸の鼠たちだ。日ごろはおたな三十みそ次郎のような棒手振りにとって目の敵ではあるが、このときばかりはありがたい。広い浜いっぱいを埋め尽くすねずみの大群が一斉になるとに向かっていく。指揮を取るのは白眉のアルジャーノン。日頃から爭えばメザシからクジラまで寄って集ってそっくり持っていかれちまうが、味方となれば心強い。今度花束をあげてください。
 海風にも消えぬねず鳴きの轟、あとも振り返らず一目散に河岸まで戻るとようやく足を止めた。ずいぶん走ったものだ。どこかに座るところはないか、と、まだ店を開けぬ魚問屋の前に床几が出ている。やれやれと腰を下ろすとまたぞろ床几が動き出す。しまった罠だった、と思う間もなく座った先がまたもや犬ほどのなると。なるとが這えば尻の下がもぞもぞしてたいそう気持ちが悪い。なるとに乗ってどこまでも、いくはずもなく井戸端の猫のいるところに振り落とされる。そうだ猫だ、お前らなにしてやがる、と見れば猫は猫、井戸の周りにぼとぼとと落ちている。落ちたかたちで転がって、何をするでもなくぼんやりと。お前らも働け、あれだけの鼠とちくわが跋扈しているのに、おまんまばかり食って働きやしねえ。縦のものも横にしねえ。お前、てめえ猫お前、
「ちょっと大丈夫かいお前さん」
 目が醒めて気が昂るので残っていた焼酎を煽っていると、妻のぺそが起きてきた。
「変な夢を見ちまって、やってられっかって心持ちよ」
 うちの猫は寝ている。主人の危機に夢にも出てこず、小山のような身体をだらしなく伸ばして四畳半の半分を埋めている。
「おまえさんも疲れているんだよ。もうちょっと寝ておいたほうがいいんじゃないのかい」
「だから飲もうってんぢゃねえか、なにかつまみはあるか」
「そうねえ、晩に残した、
「――やっぱ止すよ、また夢になるとが出る」
芝の浜の猫の話 サヌキマオ

人口肉
ごんぱち

「なあ蒲田」
「どうした四谷、深刻を装った顔して」
「この書き込みを……見てくれ」
「ふむ『人口肉、本物並』なんだこりゃ、ソイレントか……ああ、誤字か」
「うむ。人口と人工の誤字だ。当然、文字を打つのも人間だ、そういうのもあるだろうと思いはした。2年程前にな」
「妙な記憶力あるな」
「だが、昨日またこの誤変換を見かけた。そもそも昨日だけではない、案外、この誤変換を見かける事が多いんだ。こりゃあ一体何なんだ、ひょっとして、人口と人工の区別が付いてない輩が、昨今の世の中にはいるのか!?」
「まあ落ち着け。可能性は幾つかあるが、まずスマホ入力で適当に書き込んだと考えるのが妥当だろう。半端に使い慣れて予測変換を確認せず、画面は小さいから細かな誤字にあまり気付かない、そういうヤツだ」
「ふうむ……」
「後は、誤字と分かっていても、面白でわざと使ってるヤツだな。『ふいんき<何故か変換出来ない』『顔晴る』『子ども』『新ぶん』みたいな」
「なるほど。だが、『狂人の真似とて大路を走らば即ち狂人なり』ともいう。わざと使っているうちに、どちらが正しいのか良く分からなくなり、令和キッズ達は『言葉ってぇ、進化していくものだと思うんですぅ、進化を受け容れられない老害にはぁ、分からないと思うんですけどー、マジヤバ、マジウケル、マジMP5、UZI虫野郎』とか言い始めるのではなかろうか! もちろん、こいつらは進化を変態または突然変異の意味でしか使っておらず、自然淘汰の知識に辿り着いてはいない!」
「令和キッズはまだ6歳だから言わないとは思うが、雑な学習させている生成AI辺りはかなり怪しい使い方しそうだな。『人口甘味料』とか『人口受精』とか」
「『人口受精』というと、こりゃあディストピア感あるな。それとも、フェラチオからキス、クンニリグスという経路で授精するパターンだろうか」
「ああ、ディストピアっぽいな。人口調整の為に人工授精するって事だろうな」
「その社会は、人工授精で作られたキッズのうち、出来損ないとして廃棄されたキッズのレジスタンスによって破壊されるのかね」
「それがセオリーだろう」
「ならば、人口と人工が渾然とした状況を打破するのは令和キッズか」
「違いない」
「令和キッズは大切だな」
「そうとも。未来を拓く存在だ」
「みんな、子供は大切に!」
「少子化対策支援金、払おう!」
「支援金だから、増税なしで支援できちまうんだ!」

 えーしー
人口肉 ごんぱち

紅い窓
今月のゲスト:島崎藤村

 食堂のつくえの周囲には四五人の男女が集まって、花骨牌はなを引きつつあった。人々はいずれも椅子に腰掛けながら、自分自分の札を手にして、『四光』とか、『青たん』とかいう言葉を交換とりかわして居た。
 赤、紫などの短冊のついた札が、主婦のお若の前にも並べてあった。彼女は肉附きの好い、堅肥りのした婦人で、年は最早四十を越して居たが、顔の色なぞは未だ艶々として居た。純金の指環を二つも嵌めた手に女らしい誇りを見せながら、時々それを卓の白い布の上に置いて、静かな食堂の内部を見廻した。お若の旦那として、八年あまり同棲した西洋人は、彼女にその西洋館と、多くの財産とを遺して、七週間ばかり前に亡くなった。旦那には子も無かった。長く籠もったあけの後、お若は食堂へ人を集めて、慰みに花骨牌はなを引いた。丁度そこへ用事のある客が訪ねて来た。
 お若は自分の札を卓の上に置いて、椅子を離れた。あまり料理人の房吉が勝負強いのでお若は立ちがけに、一寸その耳を引いた。この戯れは男の長い耳を真紅にさせた。房吉は庖刀が器用で、ビフテキでも、カツレツでも、うまく食わせる男だ。軽い笑声が人々の間に起こった。お若も笑って、食堂から応接間の方へと長い廊下を通った。
 旦那の好みで作った部屋部屋の紅い窓も、大抵閉めてあった。庭に向いた廊下も寂しく見えた。そこは旦那が商館から帰って来ると、よく椅子を持ち出して、葉巻をふかしたところだ。濃い緑色に塗った柱の側で、故郷の方を思い出したような眼付きしながら、横浜の空を眺めたところだ。'Owakasan' などと妙に節を附けた日本語で可愛がって呉れたところだ。そこはまた、旦那があの房吉に用事をいいけて置いて、大きな靴を穿いた足を投げ出して居ると、房吉は犬のように四つん這いに這いながら、その足の下を潜り抜けなぞしたところだ。よく旦那はそんな串談じようだんをして笑った。旦那思いのお若は、上靴の音をさせて、主人の居ない廊下を歩いて行った。
 応接間には富田という客が待って居た。この人は弁護士の肩書は持って居ないが、至って心易い、親切に種々な相談をして呉れる法律家だ。お若はこの人に頼んで旦那から譲られた遺産の整理をした。ある石油会社の管理人に、自分の所有に帰した建物を譲り渡す約束もした。首尾よく登記も済んだ、と富田は種々な書類の入った古い鞄をそこへ取り出した。
 何となく応接間もガランとして居た。窓のところには、いくらか薄い色の窓掛けが掛けてあったが、そこから日光が射し入って、何となくそのあたりを薄紅く見せた。
 お若は旦那の四十九日も無事に済ましたし、ほぼ後片付けも出来たし、一旦この邸を出、何処か方角の好いところへ移って、それから田舎へ引込もうと考えて居た。彼女は旦那が遺して置いた埃及エジプト煙草を取り出した。それを世話になった富田に勧め、自分でも金口の紙巻を指の間に挿んで、灰を落とし落とし話した。その時、お若は自分の一生を話した。
 彼女は、生まれは上総のものだ、若い時に一度、田舎の方で嫁いだが、その旦那は若くて亡くなった。それから東京へ出て、再縁の口をもとめた。世話するものが有って、ある商人に嫁ぐことが出来た。不思議にも、また彼女は旦那に死別しにわかれた。その人の遺産は彼女のものと成った。二度目の旦那に別れた時の彼女は、かなり有福な人であった。嫁に行く先々で、こう旦那が亡くなるとは。彼女は未だ女の盛りであった。弱い旦那を持つほど悲しいことはない。身体さえ壮健な人であったらとあきらめて……三度目にここへ来るようになった。彼女は立派に戸籍まで入れたものであった。洋妾らしやめんなどと言う人には言わしておけ、二人して仲好く暮せばそれが何よりではないか……こういうほど、旦那も物の分かった人だった……異人とは思われないような人だった……でも、旦那も、何一つ道楽があるではなし……稼いで……稼いで……終いに、また寝台の上に横たわるようになった……。彼女は、金色に光った髯のボウボウ生えた旦那の顔を眺め、痩せ衰えた旦那の手を執って、散々泣いたこともあった……三度目の旦那も稼ぎ溜めた多くの財産を彼女に遺して、死んだ……

 これはお若が二年ほどばかり前に、横浜の居留地を去る前のことであった。
 丁度以前と同じような色の紅い窓を通して、お若は横浜の港町のかわりに、上総の田舎の空を望んだ。その窓は、形はいくらか造り易えられたが、しかし亡くなった旦那の意匠を受けいだもので。殊に彼女の好みで、新しい蔵造の家の裏二階の方に造りつけた。彼女は最早壮大な屋敷の女主人であった。土地でも指折りの金満家と言われるようになった。
 健康で有福なお若は、その窓へ行く度に、自分の前半生を思い浮かべた。時とすると、彼女の心は横浜にあった家の方へ行った。寝室へ行って眠りに就く前には、彼女は西洋の婦人に倣って、必ず髪を解いたことなどを思い出した。
 その窓から、お若は裏に植えた林檎畑を望んだ。そこで、房吉を呼び迎える時の楽しみを想像した。横浜の屋敷で房吉が料理人として雇われて来たばかりの時、大切な皿をこわしたことがあった。彼女はなぐり飛ばしもしかねまじき権幕で、房吉を呼びつけて、ひどく怒りつけた。その時平謝りに謝ったが、あの悄然しおしおとした男の姿は今だにお若の眼にあった。
 お若は房吉を呼ぶ前に、裏の流れのところに和蘭陀蜀葵おらんだからあおいなぞを作った。男に長生ながいきさせたいばかりに、養生ということを考えるようになった。畠に林檎を植えたのも、その為だ。彼女は、別に玉葱、赤茄子、人参、それから種の好い馬鈴薯を試植した。あひるもたくさん飼った。