Ⅰ
どちらを向いても白い服だ。港の町は白い服で埋まって居る。
その中から、ピョンと飛び出した一つの白い服だ。
港の裏の高い山、麓の密林の中を、淋しそうに、たった一つの白い服が行く。
Ⅱ
山の上のゴルフリンクに、いかめしい口髭を生やした名士が居る。白い服が、青い山を登ってゆく。
海抜何千尺の山頂は、夏ながら冷めたい雲霧の中である。三間さきは濛々として見えぬ。
名士はためらった。あの雲の彼方へ――発止と打つ。球は雲を蹴立てて……はて、巧くいったかしら?
「おおい!」
霧に凍る口髭のしたから、名士は大きく人を呼んだ。
すると、むくむくと眼の前の雲がゆらいだと思うと、しょんぼり見知らぬ白い洋服の男が現れた。
Ⅲ
「君は誰だね?」
然し、白い洋服は無言のまま、恭々しく敬礼して、ポケットから一葉の名刺を取り出した。
「ハハァ」
名士は受け取った名刺を、すがめで読んだ。雲が、名刺の上を撫でてゆくので、彼をまったく遠視眼にしてしまったのだろう。
「××新聞記者……ああ新聞屋さんだね、君は?」
「はあ」
白い洋服の男は一歩前に進んだ。雲と霧との中に、ふたりの人間は去勢されてゆくように浮き沈みして見えた。
Ⅳ
三十分のちだ。
名士と、その友人たちとが、山頂の芝生の上に立ってしきりに議論したり、首を傾けたりして居る。もはや雲もこの峯を去った。くっきりと晴れ渡ったリンクの青い世界を、球拾いの少年たちが燕のように飛びまわって居る。
さっき名士が打った球が、どう探して見ても分からないと云うのだ。
いったい、どこへ飛んだのか? 名士はもう一度、球を打ったスポットに立ち戻り、斯ういう姿勢で、斯ういう方向に、この位の力で打ったのだ、と
棒を振って人々に説明しなければならなかった。
その
棒の方向、地面との角度、力の度、及び球の重さ、そういうものの一切を考慮に入れて計算してみたのだが、球の在りかはどう捜しても分からなかった。
Ⅴ
麓の森の中で、路がふたつに分かれて居る。
溪川にかけた土橋のねもとに標柱が立って、
「右、ゴルフリンク路、左A温泉路」と書いてある。
溪川にそった温泉路から、女がふたり出て来た。
「休もうよ」
「暑いわね」
渓川の水ぎわに二人はおりた。白いハンカチを、碧い淵に浸して、汗を拭く。
「誰も見ては居ないわ」
二つの半裸体の上を、濡れたハンカチが痛いほど軋んで走る。
突然、橋の上に靴音がした。深い森の中途にぶら下ったように、白い洋服が、ポッカリ浮き出て、橋の上に立ち止まった。
びっくりした拍子に、女たちの肌から葉緑素の水蒸気がむせぶように発散した。
Ⅵ
「きれいな身体ですね」
男はニコニコ笑いながら声をかけた。
二人の女は顔を見合わせた。それから、こちらもやはりニコニコして、手招きした。
「其所は涼しい?」
「ええ」
白い洋服は小走りに水際におりて来た。そして、いきなり、手を伸ばして、右と左に、二人の女の首をかかえて、ギュッと我が両頬にと締めよせた。
Ⅶ
もう夕暮れかしら?
男は空に去来する雲を眺めながら、自分の帰ってゆく港のことを想った。
白い洋服がうじうじと、溢れるほど、街中に盛り上がって居る港のことを。
「ねえ、眼をつぶってらっしゃいよ」
二人の女が口を揃えて云った。
渓川に突き出た岩の上に、あおむけに寝ころんだまま、男はおとなしく眼をとじた。
くすくすと女が笑って居る。
「俺は死ぬるのだな」
女たちのなすままに任せて、男はふと、そう云う実感が、だんだん濃くなってゆくのを感じた。
「死ぬるのか?」
それは夢のようでもあった。だんだん圧力が大きくなる。今は時期の問題だ。その時期が、物理的に近接して来る……もう少し! 死ぬる? 何糞! だが、女たちはくすくす笑いながら。
Ⅷ
突然、女たちは、岩のはずれから垂れ下がりそうな位置に、ぐったり弱ってゆく男の顔から眼を外らした。
その男の顔の下に、碧い淵が展がって居る。その水の上に、空が映って居る。
空をゆく雲が、水の上に映る。
一片の雲は、白い腹を返して泳ぐ鯉かのように、水の上を悠々とよぎって行った。
女たちは、その時、その水に映る一片の雲を見た。
それは、今しも峯をはなれたばかりの雲であろう。あおむけになって、眼をつぶって居る男の真上まで来ると、じっと立ち止まって動こうともしない。
と、どうしたわけか、その雲のまん中に、突然、丸い穴があいた。丸い球が、其の穴からこぼれて猛烈な勢いで落下して来た。
静かで、透きとおるほど碧い水の上に、落下するゴルフの球は、直線の影である。
Ⅸ
その球が、男の額の上にあたって、男が死んだ。そして女は?
白い洋服の男は、そこまで考えないうちに港の町に帰って居た。
――十四年七月――