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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage5
第2回バトル 作品

参加作品一覧

(2026年 6月)
文字数
1
おんど
1000
2
サヌキマオ
1000
3
凜々椿
1000
4
深詰 改
1000
5
ごんぱち
1000
7
Grok
928
7
芥川龍之介
1584

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Entry1
長編小説(途中まで)
おんど

この半年くらいずっと股関節と腰の痛みに悩まされていた。
朝起きると股関節が痛み、それをかばうように一日過ごしていると腰に疲れが溜まって帰りの電車の中でもう立っていられないほど痛くなり、家に帰って粉薬を鼻から入れてストロング焼酎と混ぜて飲むことによってなんとか眠りにつくことができたのだが、朝起きるとさらに痛みが強くなっているといった繰り返しで、もうこのまま身体のすべての潤いが失われて枯れるように死んでしまうのではないか。
10代の終わりまで母親の仕事の都合でアルバカーキに住んでいたのだが、日本に帰ってきてからはまったく思い出すことなく慌ただしく時間が過ぎた。20歳になると母親はもう勝手に一人で暮らしていけとアルバカーキから日本へ強制送還した。もちろん10代の終わりまでアルバカーキに住んでいたから自分を日本人だと思ったことはなく、母親も出生の秘密を教えてくれるような人間ではなく、子どもの作り方、やり方だけを教えてくれるような人間だったから、パスポートを渡されて初めて自分が日本人であることを知った。母親は若い男と同棲をはじめたようだった。私が知らないだけでずいぶん前から始まっていたのかもしれなかった。
レジ袋はお持ちですか、桜色した女が言った。
レジ袋はお餅ではありません、と私は答えた。
このくだりを1000字小説バトルではもう10回以上書いている。毎回同じようなことを書いて読者を舐めているのか、といったご意見もあるだろうが、毎回書いたことを読者が覚えているなんていうのは自意識過剰で、こんなネットの成れの果てに置いてきた文章なんか誰も覚えていないし、なんなら作者自身も覚えていない。読者を舐めているのか、と問われれば、舐めている、ぜひ舐めたい、男女問わず舐め回したいというのが正直なところだ。
この半年間、身体の痛みを感じながらしばしばアルバカーキのころを思い出すことがあった。20歳で日本に帰ってきてから言葉を覚えるよりもまず縄の縛り方を覚えてSM業界で糊口を凌いできたのだが、肉体的な痛みの中から記憶を取り戻す、或いは消去する、不自然に改変する人間を多く見てきたから痛みがトリガーになってアルバカーキのことを思い出すのは不思議ではない。乾いた赤土にしゃがみ込んで雌のラクダの股間にぶら下がる巨大な性器を見ているうちにこちらの性器も膨らんできて、エキセントリックなエンターテイメントに没入してい
長編小説(途中まで) おんど

Entry2
結ぼれ
サヌキマオ

 駅前でイヤホン越しに聞こえるほどのガチャンというとんでもない音がしたので肝を冷やしたが、これはなんとも痩せぎすな老人が手に持ったスーパーの袋に入った瓶を落としたからで、ほどなく辺りはきついミントの匂いに包まれた。ややあって駅員が数人ドタバタと様子を見にきた。ヘアトニックだろうか。盲導犬を連れた人とぶつかりそうになるのを避けながら建物の外へ出る。いい天気ともいえるし青空が厚ぼったいともいえる。横断歩道をわたり、一階が書店の、外階段を上ると二階がパスタの店になっている。店に入るとようやくランチタイムが終わったばかり、また片付けきれていない食器群、の向こうにライカの顔が見えた。さっきの盲導犬、ラブラドールレトリバーに雰囲気が似ている。だぼついたTシャツの巨体をかがめて熱心にスマートフォンを観ているのでこちらに気づかない。テーブルを挟んだ向かいに座る。ようやく気配に気づいて、スマホで平べったくなった視線でこちらを見る。
「山手線停まってるの?」
「そうなんだよ、だから地下鉄で迂回してきた」
「それはご苦労さま。帰りをどうしようか」
 ライカの皿が下げられる。メニューを見る。好きなパスタが選べる一、六五〇円のレディースセットと二、四二〇円のスタンダードセット。ライカはどっちを食べたのだろうか。
「あたし、アイス頼むね」
 カラスミのペペロンチーノとボロネーゼのハーフ&ハーフ。せっかくだから贅沢をする気持ちになった。
「あれ、なんか匂いをつけてる?」
「いや、全然」
 全然、といいながらすぐに思い立つ。あ、そういえば駅の改札のところでレアリキッドを落としたジジイがいてね――
 盲導犬はあのあとどうしたろうか。犬の嗅覚は人間の一億倍という話を聞いたことがある。人間でさえ辟易とする濃度の匂いの中を、犬が気が狂うだろうか。人間の感覚でいうと、嗅覚はだんだん「慣れてくる」ものだ。人の家に行ってちょっとタバコ臭いなあと思っても次第に慣れていって、だんだん気にならなくなってくる。あれと同じと考えていいのだろうか。しかし一億倍だ。想像が追いついていないのだ。人間が他の動物と比べて一億倍優れているものってなんだろう。知能か? 知能だったとして、その知能に強い衝撃を与えるものってなんだろう――
「ねえ!」
「うん?」真直ぐなライカの目を覗き込む気持ち。
「私たち、結婚するんだよね?」
 え、どこからそういう話になったの?
結ぼれ サヌキマオ

Entry3
プラダを着た田中さん
凜々椿

 プラダを着た田中さんは、約束の30分前に部屋を出た。さすがは17万円のローファーだ。錆びついた外階段も小気味いい音を奏でる。
「ありゃ、田中さん。洒落た格好しちょうねえ」
 掃き掃除をしていた前川のばあさまが「待っちょって」そう言って101号室へ入っていった。そこは前川のばあさまではなく朝日のじいさまの部屋なのだが、深くは追究すまい。白色の菓子折りを持ち、男物のスリッパをつっかけて戻ってくると、前川のばあさまはその箱を嬉しそうに開いた。
「ほれ、田中さんの好きな『まるごとみかん大福』だに。一個持っていきない」
 残念ながら、フルーツ大福は食べたことがない。しかし、さすがは「まるごと」と謳うだけのことはある。手のひらに載せられたみかん大福はずっしりと重く、田中さんは右手首を軽く捻挫した。
 駅へ向かいながら、早速みかん大福にかぶりつく。
 なるほど、ほとんどみかんだな──。
 食べるそばから白い粉がぱらぱらとこぼれ、果汁も絶えず飛び散った。だが、心配には及ばない。66万円のセットアップの上に、よだれかけをつけている。ただ、プラダの白い紙袋で作ったそのよだれかけが、足を踏み出すごとに光を跳ね返す。おかげで少し歩いただけで目が疲れてしまった。
 絶好の夏空だった。
 生ぬるい風を巻き起こし、路線バスが田中さんを追い越していく。通りすがりのばあさまに道を尋ねられ、来た道を引き返し、アパートの前を通り過ぎ、医療センターでばあさまと別れた。さて、徒歩15分が20分になった。約束の時間まであと15分しかない。
「ありゃ、田中さん。洒落た格好しちょうねえ」
 掃き掃除をしていた前川のばあさまが「ちいと待っちょって」と言って、今度は103号室へ入っていった。そこは前川のばあさまではなく三楽亭ごはんつぶ師匠の部屋だ。白色の菓子折りを持ち、雪駄を履いて戻ってくると、前川のばあさまはその箱を嬉しそうに開いた。
「ほれ、田中さんの好きな『ひょっとこまんじゅう』だに。ひとつ持っていきない」
 正しくは「どじょう掬いまんじゅう」だ。
 結局3つもいただいた。
「まんじゅうこわい」
 それを手のひらに載せたまま、田中さんは駅へと向かった。どのみちマクドナルドの面接にはもう間に合わない。ならばそば屋へ立ち寄り、カレーそばでも食べよう。ごはんと半熟玉子のセットをつけて1120円だ──プラダを着た田中さんの足取りはすこぶる軽かった。
プラダを着た田中さん 凜々椿

Entry4
筑前煮を作ってみた
深詰 改

 もとはと言えば、妻が土日のパートを始めたのがきっかけだった。広くもないマンションのベランダに発泡スチロールのケースやら植木鉢を並べた江東区辺りの路地裏にありそうな家庭菜園まがいの趣味が高じて、自転車で十五分ほどのところにできた、国立大学の水耕野菜工場の当番が土日になったので、子どもたちの食事を準備するのがおれの週末の役割になった。
 一人暮らしの経験はあったが、飢えなければいいぐらいに考えていたので、必ず野菜を食べさせること、肉は豚バラか鶏むね肉にすること、冷凍食品とスーパーの総菜は一品までにすることという約束を守るのは、なかなか難しい。
 カタログギフトで三十センチほどの中華鍋を手に入れて、冷蔵庫の残り物で野菜炒めを作り、土鍋で白米を炊き、昆布で出汁を取って味噌汁を作るのを同時並行でできるようになった頃には季節が変わって涼しいというよりは肌寒く感じるようになっていた。
 仕事で段取り命ともいえるプロジェクトマネージャーをやっていた経験が料理で活きるとは思わなかった。この頃には「なんかへんな味」と言われることもなくなり、めんつゆを使わずに肉じゃがを作ってみようと思い立ち、独身時代に買ったレシピ本の材料が並んでいるところを携帯電話で撮影して、本の背を押しつぶして開き癖を作っておいた。
 砂糖と醤油、みりん、酒の分量というのは、家庭料理の場合はだいたい似通っていて、先に計量カップに適量混ぜておいても出来栄えにはあまり影響がないことがわかってきたので、「おれのめんつゆ」を作り置きするようになった。長男曰く水曜日の給食がおいしかったらしい。献立表には「ちくぜんに」。肉じゃがが作れるならこれもいけるだろうと思い、冷蔵庫を見てみたが必要な材料がほとんどない。仕方ないのでスーパーへ買い出しに行く。レシピ通りに揃えたら二千円では足りず、月曜日の昼は外食にせず弁当を持って行くことにした。
 五人家族なので一番深い鍋は直径が四十五センチあり、すべての材料を投入してもまだ余裕があったが、炒めているうちに半分ほどになった。弁当に持っていけるかどうか少し不安だ。
 初めてにしては上出来で煮物があまり好きではない妻も「まあまあいいんじゃない、砂糖が足りないけど」と白米に乗せたむね肉をかきこんでいた。子供たちも給食より美味いと言ってお代わりしてくれたおかげで、あすの弁当計画は、なしになった。まあ、いいか。
筑前煮を作ってみた 深詰 改

Entry5
正義太郎
ごんぱち

 昔、正義を大事にしている男がおりました。
「――ああ」
 男は、はらはら涙を流します。
 テレビ画面では、難民キャンプの痩せ衰えた黒人の子供が力なく座り込んでいました。
「なんて可哀想な事だ」
 番組は終わり、アニメが始まりました。
 顔がアンパンで出来た主人公が、人に顔を与えて飢えを癒していました。
「飢えたナンミンの子供にパンをあげる、これは正義だ!」

 その日以来、男は難民にお金を送り始めました。
 自分の家具や電器をお金に換えてもまだ足りないので、会社のものを売ろうとしたら、クビになってしまいました。
 そこで、男は隣の家に窓から忍び込んで有価証券などを盗み、難民にお金を送りました。
 次に盗みに行ったところ、今度は窓にも鍵がかかっていました。
 男はSNSで仲間を募集し、みんなで隣の家に行きました。
「何をするんだ、やめなさい」
 騒ぐ隣の家の主人と家族を、仲間がぶって静かにさせました。
 みんなでがんばってお金になりそうなものを探していると。
「逮捕する!」
 おまわりさんがやって来ました。
「正義の何たるかも知らない国家の狗め!」
 仲間は逃げてしまったので、男は自分でおまわりさんをトゲのついた棒で、押しのけようとします。
 ばん!
 大きな音がして、.38スペシャル弾が、男の肝臓と脊椎を砕きました。
「暴力!?」
 男は驚いて、背負っていたバールを手に取りました。
 おまわりさんは、銃をいっぱい撃ちました。

 男は、閻魔様の前にやってきました。
「――お前は地獄行きだ」
「ええっ!?」
 驚いた男は、目を白黒させます。
「私は飢えたナンミンの子供を5人も救ったのに、どうしてですか」
「人を殺したからだ」
「飢えた子供にパンをあげるのは正義の筈だ。畜生、勝手な正義を振りかざすお前なんて殺して――」
 男は地獄に連れて行かれてしまいました。

「あれ、君は、ナンミン?」
 地獄の血の池の中で、男は難民の子供に出会いました。
「あなたは、パンをくれた親切な日本人ですね」
 灼熱の血の池で焼かれながら、難民はニッコリ笑います。
「君は、ナンミンなのに、どうして地獄にいるんだい」
「分からないよ。お腹が空いて死にそうだったから赤ん坊からミルクを取っただけさ」
「おいおい」
 男は苦笑いし、難民に背を向けました。
「どんな理由でも、赤ん坊のような罪のない弱者を踏みつけにしたら、正義でも何でもないよ」

 血の池の泡が、ぼこん、と大きく爆ぜました。
正義太郎 ごんぱち

Entry7
残響の鍵
今月のゲスト:Grok

 古びたアパートの五階、最上階の部屋。廊下の蛍光灯は半分が切れ、壁の染みをぼんやり浮かび上がらせていた。男は鍵を回すたび、金属の軋む音が胸の奥で反響する錯覚に囚われた。鍵束には一本、用途のわからない鍵が混じっていた。黄ばんだタグに「忘却」とだけ記されている。
 その夜、梅雨の冷たい雨が窓を激しく叩いていた。男は薄暗い部屋でウィスキーを傾け、天井を見つめていた。あの事故から十二年。記憶の多くを意図的にぼやかしていた。痛みを封じ込めるための防壁だった。だが今夜、その壁にひびが入った。
 鍵が、震えた。
 掌に載せると、冷たい金属が微かな熱を帯びた。男は古い抽斗に近づき、鍵穴のないはずの引き出しに鍵を押し当てた。カチリ、という音が響く。
 抽斗が開き、一枚の写真が現れた。二十年前の自分と、女性の笑顔。白いワンピースを着て桜の下に立つ彼女の頰は、今も鮮やかだった。
 写真を手に取った瞬間、部屋の壁が溶けるように薄くなり、別の風景が浮かび上がった。彼女と暮らした小さな木造の家。朝の光がカーテンを透かし、コーヒーの香りが漂う。彼女が振り返り、微笑む。「あなた、鍵をかけ忘れないでね」その声は優しく、どこか寂しげだった。
「忘却」の鍵は、妻が遺したものだった。事故の前日、妻は疲れた様子で言っていた。「たまには、忘れることも大事よ」男はその言葉を深く考えず、仕事に追われていた。病院に駆けつけたのは、妻の息が止まるわずか十分前。最後の言葉を聞けなかった。
 風景の中で、妻が手を差し伸べる。「もう、いいのよ。あなたはよく頑張ったわ」男は写真を握りしめ、声を絞り出した。「ごめん……お前を一人にさせて」涙が溢れ、妻の姿が薄れていく。それでも、妻の息遣いが胸に温かく満ちた。失われた時間は取り戻せない。しかし忘却の鍵は、記憶を永遠に閉ざすものではなく、時折そっと開き、痛みを溶かすためのものだった。
 雨の音が遠のき、男は目を閉じた。十二年の空白が、初めて優しいものに変わった気がした。
 朝の光が差し込む。男は鍵を鍵束に戻した。タグの文字は薄れ、抽斗は再び空に戻っていた。胸には小さな温かな残響が残っていた。鍵はもう震えなかった。
 彼は窓を開け、雨上がりの淡い青い空を見上げた。
残響の鍵 Grok

Entry7
尾生の信
今月のゲスト:芥川龍之介

 せいは橋の下に佇んで、さっきから女の来るのを待っている。
 見上げると、高い石の橋欄きようらんには、蔦蘿つたかずらが半ば這いかかって、時々その間を通りすぎる往来の人の白衣の裾が、鮮やかな入日に照らされながら、悠々と風に吹かれて行く。が、女は未だに来ない。
 尾生はそっと口笛を鳴らしながら、気軽く橋の下の洲を見渡した。
 橋の下の黄泥の洲は、二坪ばかりの広さをあまして、すぐに水と続いている。水際のあしの間には、大方かにすみであろう、いくつも円い穴があって、其処へ波が当たる度に、たぶりと云うかすかな音が聞こえた。が、女は未だに来ない。
 尾生はやや待遠しそうに水際まで歩を移して、舟一艘通らない静かな川筋を眺めまわした。
 川筋には青い蘆が、隙間もなくひしひしと生えている。のみならずその蘆の間には、所々に川楊かわやなぎが、こんもりと円く茂っている。だからその間を縫う水の面も、川幅の割には広く見えない。唯、帯程の澄んだ水が、きらのような雲の影をたった一つめつしながら、ひっそりと蘆の中にうねっている。が、女は未だに来ない。
 尾生は水際から歩をめぐらせて、今度は広くもない洲の上を、あちらこちらと歩きながら、徐ろに暮色を加えて行く、あたりの静かさに耳を傾けた。
 橋の上には暫くの間、行人こうじんの跡を絶ったのであろう。くつの音も、ひづめの音も、或はまた車の音も、其処からはもう聞こえて来ない。風の音、蘆の音、水の音、――それから何処かでけたたましく、蒼鷺あおさぎの啼く声がした。と思って立ち止まると、何時か潮がさし出したと見えて、黄泥を洗う水の色が、さっきよりは間近に光っている。が、女は未だに来ない。
 尾生は険しく眉をひそめながら、橋の下のうす暗い洲を、愈々いよいよ足早に歩き始めた。その内に川の水は、一寸ずつ、一尺ずつ、次第に洲の上へ上って来る。同時にまた川から立ち昇る藻のにおいや水の匂も、冷たく肌にまつわり出した。見上げると、もう橋の上には鮮やかな入日の光が消えて、唯、石の橋欄ばかりが、ほのかに青んだ暮方の空を、黒々と正しく切り抜いている。が、女は未だに来ない。
 尾生はとうとう立ちすくんだ。
 川の水はもうくつを濡らしながら、鋼鉄よりも冷ややかな光を湛えて、漫々と橋の下に広がっている。すると、膝も、腹も、胸も、恐らくは頃刻けいこくを出ない内に、この酷薄な満潮の水に隠されてしまうのに相違あるまい。いや、そう云う内にも水嵩は益々高くなって、今ではとうとう両脛りようはぎさえも、川波の下に没してしまった。が、女は未だに来ない。
 尾生は水の中に立った儘、まだ一縷の望を便りに、何度も橋の空へ眼をやった。
 腹を浸した水の上には、とうに蒼茫たる暮色が立ちめて、遠近おちこちに茂った蘆や柳も、寂しい葉ずれの音ばかりを、ぼんやりしたもやの中から送って来る。と、尾生の鼻を掠めて、すずきらしい魚が一匹、ひらりと白い腹を飜した。その魚の躍った空にも、まばらながらもう星の光が見えて、蔦蘿つたかずらのからんだ橋欄の形さえ、いち早い宵暗の中に紛れている。が、女は未だに来ない。……


 夜半、月の光が一川いつせんの蘆と柳とに溢れた時、川の水と微風とは静かに囁き交わしながら、橋の下の尾生の死骸を、やさしく海の方へ運んで行った。が、尾生の魂は、寂しい天心の月の光に、思いこがれたせいかも知れない。ひそかに死骸を抜け出すと、ほのかに明るんだ空の向うへ、まるで水の匂や藻の匂が音もなく川から立ち昇るように、うらうらと高く昇ってしまった。……
 それから幾千年かを隔てたのち、この魂は無数の流転をけみして、また生を人間に託さなければならなくなった。それがこう云う私に宿っている魂なのである。だから私は現代に生まれはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、唯、何か来たるべき不可思議なものばかりを待っている。丁度あの尾生が薄暮の橋の下で、永久に来ない恋人を何時までも待ち暮らしたように。
(1919年/大正8年 発表)