≪表紙へ

3000字小説バトル

≪3000字小説バトル表紙へ

3000字小説バトルstage3
第2回バトル 作品

参加作品一覧

(2015年 9月)
文字数
1
緋川コナツ
3000
2
サヌキマオ
3000
3
アレシア・モード
3000
4
若杉鳥子
2020

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

六花
緋川コナツ

 初めての男と肌を合わせるときの緊張感は、雪が降り出す前の張り詰めた空気に似ている。雪は降りはじめが一番冷たく、痛いくらいに清い。それは何人の男と寝たところで変わることはなく、わたしの中で繰り返される。
「わたしのこと……好き?」
「もちろん」
「どのくらい好き?」
「言葉では言い表せないくらい」
 普段、理性で抑え込んでいる疑問が口をついて出る。そんなことを訊いて、どうするつもりだったのだろう。想いを言葉にしたところで、ただ空しいだけなのに。
 年齢を重ねるごとに少しずつ臆病になって、男の唇が体に触れる瞬間が、とても、怖い。大切にしている何かが、内側から一瞬にして溶け出してしまいそうで。
 二人の体の上に、静かに雪が舞いはじめた。雪は音もなく降り続き、世界を白く染めてゆく。安堵したわたしは、再びゆっくりと目を閉じる。
 
 子どものころは、雪が待ち遠しかった。
 冷え切った大気を切り裂くように百舌が鳴く。わたしはそれを聴きながら、鉛色の空を見上げる。やがて雲の合間から、ちらちらと白い欠片が舞い落ちてきた。
「お母さん、雪! 雪が降ってきたよ!」
 わたしは左手で母の手を握りしめ、右の手のひらでふわりと舞い降りた雪を受ける。雪の結晶は手ぶくろの上で一瞬だけ眩い輝きを放ち、儚く融けて消えた。こんなにも美しい形をしたものが、空から落ちてくることが信じられなかった。
「六花ちゃん、寒いからもう帰ろう」
「やだー。もっと雪とあそぶー」
 六つの花、と書いて「りっか」と読む。六花という名前は母がつけた。
 わたしが生まれたのは東北の太平洋に面した小さな町で、その日は記録的な大雪のせいで電車もバスも止まった静かな朝だったそうだ。「六花」というのは雪の異名で、その結晶が六角形であることに由来している。母は六花を、空の神様からの贈り物だと言った。
 四歳のころ、雪のほとんど降らない土地に引っ越した。冬となれば乾いた冷たい風が吹き、晴天の日が続く。わたしは、いつも雪に焦がれていた。
 やがて雪が強くなってくるとワクワクした気持ちは最高潮に達し、歌いながら仔犬のようにはしゃぎ回った。空に向けて口を大きく開けて、冷たさを味わった。とにかく雪が降ってきたことが、嬉しくて嬉しくて、仕方がなかった。
「ゆーきやこんこ、あられやこんこ」
「このぶんだと積もるかもしれないね」
「積もる? ほんとに? やったー!」
 まばらな細雪は徐々に大きなぼたん雪となり、コンクリートやアスファルトを少しずつ白く覆いはじめる。その頃には張り詰めていた空気も緩み、見慣れた景色が絵本の挿絵のように幻想的に変わってゆく。
「雪が積もりますように」
 わたしは、あらゆる色を失ってゆく公園のすべり台、ブランコ、橋の欄干、放置された自転車、商店街のアーケードや街路樹の木々たちの姿を、固唾を飲んで見守る。
 当たり前に存在するものが雪に白くデコレーションされてゆく様子は、自分自身が砂糖菓子の町の住人になったみたいで、気持ちが浮足立った。
「雪が止みませんように。もっともっと、たくさん積もりますように」
 小さなわたしのささやかな願いは、空の神様に届いただろうか。
 
 やがて男のぬるい唇が、遠慮がちにわたしの体に刻印を刻む。それはまるでひとひらの雪のように肌の上に舞い降りた瞬間、透明な水となってわたしを濡らす。
 互いの体が熱を帯びてゆくにつれて、いつの間にか雪は吹雪となって痛いくらいに打ち付けてくる。その痛みに身をまかせるような素振りをしながらも、雪は必ずいつかは止み、泥と排気ガスで醜く汚れ、やがては跡形も無く消え去ってしまうことをわたしは確信する。
 今ならわかる。雪は、儚いからこそ美しい。大人になったわたしは、いつしかそれに気づいてしまった。 
 
「六花ちゃん、起きて外を見てごらん。雪が積もっているよ」
 父に揺り起こされて、わたしは慌ててベッドから飛び起きた。勢いよくカーテンを開けると、外は一面の銀世界だった。
「すごい、真っ白だ!」
 雨は夜半過ぎから雪に変わったらしい。今朝は、タイヤに装着されたチェーンの音が時おり遠くから聞こえるくらいで、怖いくらいに静かだ。雪は、あらゆる生活の音を包み込んで、贅沢な静寂に満ちていた。
 雪が積もると喜んで外で遊んだ。まだ誰にも踏まれていない新雪にさくりと足を踏み入れるたびに、快感に背中が粟立つ。真新しい雪原は、あっという間に子どもたちの小さな足跡でいっぱいになった。
 学校では、授業を変更してクラス対抗の雪合戦大会となった。不格好な雪ダルマを作り、校庭の雪を無理矢理掻き集めて憧れのかまくらを作る。それはところどころ泥が混じり黒く汚れていたけれど、みんな満足して嬉しそうだった。  
 赤い毛糸で編まれた手ぶくろは、融けた雪が滲みてすぐにビショビショになった。長靴の隙間から雪が入って、ズボンの裾も冷たく濡れた。それでもわたしは雪と戯れるのを止めなかった。
 誰にも踏まれていない雪の上に仰向けに寝転んで、空を見上げた。すると自分の体が空に向かって吸い込まれてゆくような気がした。私は雪に抱かれながら、「この雪が、いつまでも降り続きますように」と、心の中で祈っていた。
 
 男が体を離すとわたしの上に降り積もっていた雪は全て融けて、少し汗ばんだ体には何も残らない。それでいい。ひとときの間だけ汚れを隠し、全てを白く清く染め上げてくれれば、それでいい。「いつまでも降り続いて」なんて、もう願わないから。
「今度は、いつ逢える?」
「仕事が忙しいから、すぐには無理そうかな」
「そう……」
 外に出ると、雪は小降りになっていた。凍てついた空気に、吐く息が白い。歩くたびに、北国ではない地方特有の湿った雪が足元にまとわりつく。

 ゆぅきやこんこ、あられやこんこ、ふってはふってはずんずんつもる

 どこからか歌声が聴こえたような気がした。
 思わず振り返ると、ひとりの小さな女の子と目が合った。歩道脇に植えられた散りかけの山茶花の横で、嬉しそうに微笑んでいる。赤いほっぺたと、見覚えのある赤い手ぶくろ。それは、まぎれもなく幼いころのわたしの姿だった。
 しばらく茫然と見つめていると、女の子は小さく手を振って踵を返し、ウサギのようにぴょんぴょんと跳ねながら雪の町のどこかへ消えていった。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
 いつの間にか雪は止んでいた。冷たくかじかんだ指先を吐息で温めていると、男がわたしの手を取って自分のコートのポケットに入れてくれた。
「雪が止んだね」
「うん」
「あのさ、オレ六花のこと好きだよ」
 わたしと目を合わさずに前を見つめたまま、男が言った。軽い挨拶を交わすみたいに、さりげなく、いつもの口調で。
「……ありがとう」
 わたしたちはポケットの中で手をつないだまま、駅へと続く道を歩いた。
 雪は完全に止み、厚い雲の切れ間からわずかに星が覗いている。わたしは少し寂しくなって、男の手を強く握った。止まない雨がないように、止まない雪もない。
「また降るかな……雪」
 男がわたしに訊く。
「降るよ、きっと。ううん、絶対に降る」
 わたしたちは顔を合わせて、にっこりと微笑みあった。
 
 雪は、いつかは消えて空へと還る。
 それでも男が囁いてくれた言葉のひとつひとつが、決して消えない雪の結晶となって、わたしの心の中にやさしく降り積もってゆく。
六花 緋川コナツ

青猫ロボットの増殖
サヌキマオ

 ああ、親の金で食べるアイスはおいしい。しかもハゲダのバニラアイスだ。
「ハゲダのアイス工場は世界に三つしか無く、そのうちひとつは群馬県にある」だって。へーまずいじゃん群馬を敵に回しちゃ。未開だ疎開だこんにゃくだと言っているといずれしっぺ返しを喰うところだった。今度からちゃんと栃木県との区別をつけておこう。
「きみはじつに莫迦だな」という声が聞こえた気がするがそれは脳内ツッコミである。青猫ロボットは縄張りのパトロールにでも出かけているのだろうか、と思うやいなや帰ってきた。玄関の扉に、なにかどすん、ぶつかる音がしたかと思うとまもなくスマホが点滅した。「"名称未設定"が帰宅しました。入口の扉を開けてください」と通信がくる。戸を開けると外でカンカンに熱された青猫ロボットがのそのそ入ってきた。車のボンネットで目玉焼きが出来ようという気温である。狭い玄関が赤赤と暑い。いずれこの1LDKももれなく暑くなるだろう。駄目だ入ってくるな扇風機が効かなくなる。猫は気にせず奥の寝床に歩いていく。しかたない、素手で掴もうものならこちらがタダで済まない。水をかければ蒸気を噴いて湿度が五百パーセントとなる(やったことがある)。その割にはこいつのマニュアルには「精密機械保護のため極力冷やしてください」とある。昔のヴァージョンでは小型原子炉で動いていたらしいし、その辺の名残かもしれない。
 あっ、やめてアイスが溶ける。青猫ロボットの放射する熱であっという間にハゲダのアイスは甘くへなげたいちごクリームとなっていく。くそう返せ戻せこの泥棒猫! と思いつつ紙カップを啜るのだが、そうした空気を察してかどうか、猫はネットカタログからおすすめ商品を壁に投影してくる。
「新世紀の技術奇跡の実用化!! 農産クローン製造機『バイんバイン』で食費の節約!」

 人が鬱憤を晴らす方法というのはいくらもあるが、勢いで大金を一気に使うというのはかなりの上位に入ると思う。
 青猫ロボットを通して通信した結果、翌日には郵便受けに小包が放り込まれていた。緩衝材のプチプチ付き封筒というのは再生紙に回していいのか燃えるゴミにするしかないのか毎回悩むところだ。もしかすると使いまわせるかもしれないし。
「バイんバイン」の取扱説明書には実例としてくりまんじゅうの写真が載っている。くりまんじゅうにバイんバイン液を一滴垂らすだけで栗まんじゅうが一分に一回、次々と分裂していく様子が写真で掲載されている。Yourtubeには動画もあります、とアドレスが書いてある。取扱説明書といってもA4版のPPC用紙二枚をホッチキス留めされたものであるが、それよりもなによりも、大枚をはたいたわりに送られてきたのが目薬の容器に入った透明な液体だから恐れいった。この目薬を五つも買ったら新しいクーラーが買えたかもしれない。そんなに使ったらさすがにしばかれるけど。パパの金だし。
 でもアレだな「栗まんじゅうが分裂する」といったら、食べた後も、もしかして排泄の後もお腹の中で分裂を繰り返すということにはならないのかしらん。でもさすがに、その辺りは製品として売られている時点で考えられている(であろう)可能性で、胃の中に納まってしまえば、もしくは口の中で噛み砕いてしまった時点で大丈夫なのだろう、と考えた。噛み砕いてしまえば栗まんじゅうも「元・栗まんじゅう」なのかもしれない。「栗まんじゅうを噛み砕いたもの」と「栗まんじゅう」は名前が違う以上別物であり、加えて「元・栗まんじゅう」はこれ以上分裂するはずがない――昔こういうギャグがあったな、「莫迦だなぁ、象の毒が人間に効くわけがないじゃないか」。
 何を以って栗まんじゅうか栗まんじゅうでないかの認識を分けるか。哲学だ。これは科学でなくて哲学の問題なのであろうか。
 買ってしまった以上、ここは覚悟を決めて使ってみねばならない。この為に駅前のスーパーに行ってハゲダのバニラアイスを買ってきたのだ。歩いて三分のところにあるコンビニにはそもそも売ってなかった。コンビニへの道を取って返して駅前まで十分。夏の終わりのしぶとい暑さにねっとりとした川風がまとわりついて汗が吹き出してくる。家に帰るまでにアイスが溶けそうなので小走りだったのが、いつしか走っていた。ビーサンで来るのではなかった。アキレス腱のあたりがビキビキいっている。
 やっぱり莫迦なんじゃないか。そうだよいいよもうどうせ莫迦だもの。急ぎアイスクリームをスーパーの袋ごと冷凍庫に投げ入れ、扇風機の前に滑りこむと強風で熱気を吹き飛ばす。猫は部屋の隅で横倒しになりながら、首だけ持ち上げてこちらの様子を窺って。
 アイスの蓋を取り、中蓋を剥がし、バイんバインを一滴二滴と垂らす。透明な液体は若干のとろみを見せながらアイスに落下し、もしかして詐欺じゃないだろうな、と思う間もなく液体の触れたところから盛り上がってきた。うまい表現だとも思わないが、無くなったアイスが逆再生でその姿を取り戻すような動きをして、みるみるアイスクリームが二倍になった。ぐうの音も出ない薬の効果に目を見張っていると、アイスはまもなく三倍に、四倍に増え、テーブルの上からこぼれ落ちた。
 せっかく二万五千円も払った(親の金で)のだから、という気持ちと、まさかそんな大それた効果が、と半信半疑だった気持ちとないまぜになっていたが、実際には目の前で起こったことが理解できない、ということなのだろう。部屋中にあふれたハゲダのアイスクリームは増殖を続け、あたしを飲み込んでさらに膨れ上がる。青猫はフギャーと一声遺して、逃げた。
 白くて冷たい塊は部屋いっぱいになったところで一瞬動きが止まった(ように思えた)。しばらくなにか考え込んでいる様子を見せたが、やおら動き出すと開け放していた裏庭の掃出しの開いたところから流出し始める。塊は想像以上の夏の暑さに一瞬怯んだように見えたが、部屋の物をいくつか巻き込みながら、結構な勢いで飛び出していった。その場で呆然としたい気持ちを抑えつつ、サンダルをつっかけて表に出る。アイスクリームは増殖を続け、路地いっぱいになりながら上水の方へと進路をとった。きっとアイスクリームの性が水を求めたのだろう。横っ腹に急ブレーキの軽自動車をめり込ませつつ、重い体に一念発起、跳躍して上水になだれ込んだ。白濁の流れは一糸乱れず川下へと流れていく。
 話はそれでおしまいである。惨状もカードの使い込みも両親に死ぬ程怒られるし、部屋中糖分でベタベタするし、せっかく買ったバイんバインもどこかに無くなってしまうし。通販こわい。もうしばらくアイスは食べない。そういう結論でいいと思います。その位の答で許してもらわないと理解が追いつかない。

 部屋に入り込んでくる蟻の行列がようやく絶えようというころ、ネットニュースで「謎の白い物体が太平洋を北極方面に向かって北上中」という記事を見た。ニュースの扱いは日を追って大きくなり、プランクトンの集合体かという憶測がなされたりしたが、白濁は北極圏で動きを止めたとの報道が入る。報道のカメラを載せたヘリコプターが近づいていったところ、それはもりもりと増え続けるバニラのアイスクリームであった。
 後にこの増殖し続ける「凍土」が北極の溶解を食い止める大きな要因となるのであるが、それはまた別の話だ。
青猫ロボットの増殖 サヌキマオ

彼岸
アレシア・モード

 陽差しは僅かに傾きかけている。
 私――アレシアは、今日も『受付』のガラス越しに晩夏の海を横目に眺める。退屈だった。
 海の沖合い、手の届きそうにも見える僅かな沖には、古ぼけたイルカのイラストの看板が立つ小さな島がある。その名も夢の島マリンパーク。ここからコンクリートの白い橋を渡って行ける。歩いて一、二分ばかりだ。しかし橋にはささやかな関所めいた入場口があり、その『受付』には退屈げな女が、微笑みとも見える微妙な表情で座っているのだった。何だこいつ。ああ、私だ。例えば今、目の前を通り過ぎようとする幼い女の子に気付くとしよう。そう、今、一組の親子連れが、まさにこの関所を通ろうとしているのだが、さて入場券は買ったかな。そう、そのイルカのイラスト入りのチケットだよ。それを『お姉さん』に渡すのだよ。すると『お姉さん』は受け取った券をミシン目からぴりりと千切ると、再び微妙な笑顔で半券を返すのだ。そうしてもってお前らは、あの夢の島マリンパークへと渡る資格を得るのだ。って、おい、券を出さずに向こうに行くわけ? あらあらまあ、どうやらお前は幼いくせに、大した度胸の持ち主なんだね、お嬢ちゃん!
「エミちゃん、ほら、券を『お姉さん』に渡して」
「はーい」
 エミちゃんとやらは母親に促され得意げに入場券を私に差し出す。麦藁の下で陽に半ば照らされた白い頬が愛らしい。母親が訊く。
「イルカショーは何時からですか?」
 たまに私は『マリンパークの事なら何でも知ってるお姉さん』と誤解される。愚かな事だ。私の仕事はここに応募して以来、この関所と少し離れた事務所だけで完結していて、実は橋を渡った事さえない。私の持つ情報の全ては手元の案内図と連絡メモ、イベント月間表、あとは憶測でしかなかった。
「四時半からです。本日最終となりますのでお早めに」

 退屈は罪だ。私は軽く手を振りながら、橋を行く親子を微妙な笑顔で見送る。私の行った事のない夢の島。確かに楽しい場所かもしれないなあ。だがここで私は、幸せ親子の後ろ姿に向かって、あの島に関するある興味深い真実を、そっと心の中で告げてやるのだった。実はねえ、お嬢ちゃん。
(この橋を渡って夢の島へと行った者は、二度と生きて戻れないのさ……)
 幼女の不安な顔つきを想像し、私の頬にさらに微妙な笑みが浮かぶ。
(向こう側から帰って来て、再び私の前に現れる者なんて居ないのさ……)
 察しの通り、これは全くの事実だ。すなわちここが入口専用であり、出口は島の向こう側にあり、加えて言えば二度三度と訪れる客があったって私は顔など覚えてないからだ。そう、こうして今日、退屈な午后をのたりと過ごす私は確かに退屈なのだけど、下らぬ努力には退屈を費やしたくない。だから幼女を密かに苛めては胸の痛みをそっと愉しむ事はあっても、客の顔を覚える事など絶対ないのだ。ただ一人……あの子、そろそろ現れるあの男の子を除いては。
(ああ、来たよ)
 十歳くらいだろうか。あの子はどこからともなく現れる。二週間ほど前あたりから、たぶん毎日来ている。決まってこの時間にだ。すでに私は彼を見ると(ああ今日もあと二時間で終わりだ)とか(あと二時間もあるのかい)とか思って、どちらにせよ微妙な笑みが反射的に浮かぶようになっていた。十分前に来ればいいのに。
 いつも受付の隣に立って話しかけてくるから、さすがの私も記憶せざるを得ない。彼もまた退屈なのだろうか。お前他にやる事無いのか。友達ないのか。そしていつも会話は唐突に始まるのだ。
「姉ちゃん、姉ちゃん。どう、儲かってる?」
 妙に大人びた口ぶりで、そのくせどうでもいい事しか訊かないのだった。子供だからか。
「今日はねえ、イマイチね……」
 ここで何人の客を捌いても私の儲けとは関係ない。
「ほうか、ほないな日もありよるの」
 彼はどこのお国とも知れぬ方言を得意げに使うと、ケラケラ笑った。日焼けした顔に歯が白い。笑いながらズボンのポケットを探り始める。スマホとか3DSとかが出るのかと思いきや、彼はへこんだタバコの箱を引っ張り出すと、銀紙をめくり指でぱすぱす箱を弾いて一本を抜き口にくわえるのだった。そこで私は一声かけてやる。
「美味しい?」
 すると彼は指に挟んだシガレットチョコを口から離し、ぷううと息を吐いて「沁みるねぇ」などとほざくのだ。まるで昭和の子供の遊びだ。冬なら吐く息も煙のように白かろうが、夏にやっても虚しい限りだ。私はこれを五回は見せられている。
 こんな感じで彼はいつも私と会話ごっこを楽しみ、暫くすると「じゃあね~」とそのまま帰ってしまうのだった。何しに来たんだお前は、と呆れつつ、きっと都会から帰省でこの田舎に来たものの退屈しているのだろうと私は想像していた。

(さて今日の彼は、と)
 何気なく窺うと、彼は青塗りの鉄柵に肘をつき、珍しく黙って橋の向こうを眺めていた。そして急にこちらを向くから目が合ってしまった。私が微妙な笑みを浮かべると、彼はぽつりと言った。
「姉ちゃん、向こうの島はどうかなあ、いい所なのかな」
 たまに私は『マリンパークの事は何でも知ってるお姉さん』と誤解される。知らない事は憶測で答えるしかなかった。
「行った事ないの? うん、いい所じゃないかな」
 彼はにっこり笑った。
「じゃ、姉ちゃん儲かってないみたいだし、今日は入場してやるよ」
「えっ」
 これには不意を衝かれた。私はもう男の子というのは、馬鹿な事を毎日繰り返す不思議な不毛な生き物なんだと思ってたから。今日もいつも通りと思っていた。
「子供は幾らだい」
 この子がお金を持ってるイメージがない。
「ええ、小学生は七百円だけど……」
「そっか姉ちゃん。じゃ、こいつで。釣りは取っときな!」
 彼は何やら高尚な千円札を窓口に押し込んだ。白ひげの爺さんが描いてある。この子やっぱ変だ。
「何これ、あ、お釣り、じゃなくって券売機で」
「遠慮するなって、いつも頑張ってるからさ、サービスだ! じゃあね~」
「あ、ちょっと、えっと」
 実は彼の名前も知らないのだった。
「ありがとよ、姉ちゃん」
 彼は素早く橋へと駆け出して行く。私は立ち上がり、ガラス越しに声をかけた。だが声は届いているのかいないのか、彼は一度だけ振り返って手を振ると、すぐさま向こうへ駈けて行き、橋の向こう、夢の島へと次第に小さくなって行く。私はもう、見送るしかなかった。
(行っちゃったよ……)
 私はそっと内線電話の受話器を上げ、事務所のボタンを押す。
「あ、マリ? あのさ、前に話した男の子だけど」
 いちおう経緯は伝えたが、だからどうだというのか。まあ警備には話は行くだろうし、気を付けてはくれるだろう。けど、一人だからって直ちに保護される年齢でもなかった。彼はきっとマリンパークを見て、適当に帰るだろう。近所の子が一人で遊びに来て、帰っていく、それだけの事だ。
 ただなぜか、駆けていく彼の姿が妙に印象に残っていた。傾いた黄色く煙った日差しの中で、駆ける半ズボンの足、たあん、たあんとセメントを蹴って彼方へ消えていく姿が。

 そして、彼は二度と戻らなかった。
 それはすなわちここが入口専用であり、出口は島の向こう側にあるからだろう。二度とあの子が現れないのは、きっと都会に帰ったからだろう。そして今も私はここに居て、忙しかったり退屈だったりと。
 まあ、それだけの話である。
彼岸 アレシア・モード

棄てる金
今月のゲスト:若杉鳥子

 その日は暮の二十五日だった。
 彼女は省線を牛込で降りると、早稲田行きの電車に乗り換えた。車内は師走だというのにすいていた。僅かな乗客が牛の膀胱みたいに空虚な血の気のない顔を並べていた。
 彼女も吊皮にぶら垂ったまま、茫然と江戸川の濁った水を見ていたが、時々懐中の金が気になった。
 彼女はこれから目的の真宗の寺へ、その金を持ってゆかなければならなかった。
 その金というのは、この春死んだ彼女の祖母が、貧しい晩年にやっと残しえた唯一の財産だったが、祖母の死後、親戚は大勢集まってその金の処分に就いて評議しあった。その結果、金は永代経料として、祖母の埋まった寺とは無関係な、ただ遠い祖先の墓があるというだけの目白の寺へ納める事に決められた。彼女はまだその寺へ一度もいった事がなかった。
 然しその金が彼女の手に渡るまでには、かなり永い時日が経った。それは親戚の誰彼の手をカルタのように廻っていたからだ。そして皆が持ち扱った末、とうとう彼女の処へ廻り廻って来たのだった。
 その寺は、徳川何代将軍とかの妾によって建立されたものとかで、楼門を入ると、青銅の屋根を頂いた本堂の前には何百年かの年月を思わせるような大きい蘇鉄が、鳶色の夕陽を浴びている。
 彼女は暫く其処に佇んだ。物寂びた森閑とした境内に立っていると、失業だ飢餓だ住宅難だと渦巻いている世の中が段々遠くへ霞んでいってしまいそうな気がした。
 本堂の暗い仏殿の奥には、何やら黒い木像らしいものが安置されてあった。
 そして本堂の次の広間には、造花だの火鉢だの蒲団だのという死者の土産物が並んでいた。その上の長押にはまた広告ビラのように無数の紙片が貼りつけてあった。各壇家が競争的に寄附したものと見えて、万にも千にも近い金額や姓名が記されていた。
 中には金でなく株券や田畑を寄附している者もあるが、それも金額の高低の順に貼り出されてあるらしかった。
 彼女は其処から二三度案内を乞うたが、香の匂いが深くたちこめているだけで人影もなかったので、更に本堂の右手に見える住職の住宅であるらしい、大きい玄関の前に立った。其処ではラジオの拡声機が長唄か何かを放送していた。
「御めん下さい」
 彼女は三四度声をかけて見たが、奥迄はその声が徹らないらしかった。色々の調子を変えて呼んで見た。すると奥から衣摺れの音がして三十格好の梵妻らしい粋な女が出て来た。が、女は彼女の服装を下から上へと逆に一瞥しただけで玄関の突き当りの電話室の硝子戸の中に入ってしまった。
 此処は典雅な本堂を見た眼には、闇と光りのように趣きが異う。相場師の住宅という感じがあった。
 彼女は玄関に突っ立った儘、手持ち無沙汰に木の香の新しい周囲を見廻していた。その瞬間、ふと先刻の本堂で見た莫大な寄附金が何に使われたかに気附いた。勿論この住宅も電話も檀家の寄附によって新造されたものだろうと思った。
 そして彼女は無意識に、懐中の永代経料に手を宛てた。そこには、あの倹約な祖母が、一日に何遍も数えて溜め遺した、そして今この傲奢な宗教家の生活の中に溶け込もうとする百円があった。
 その時、彼女の背後に、「お帰りいッ」と勢のいい車夫の声がして、一台の俥が梶棒を下ろした。すると先刻から何度呼んでも出て来なかった坊さん達が、ただ一声で三人許り出て来て玄関の敷台に膝を突いた。
 俥から現れたのは、酸漿のように赤く肥った中年の僧侶だった。法衣こそは纒っているが、金ぶちの眼鏡の下には慾望そのもののような脂肪ぎった贅肉が盛り上がっていた。
 用事は簡単なのだったから彼女はそれが住職だと知ると、早速来意を告げて、懐中から例の紙幣を取り出した。
 新しい五円紙幣二十枚、括った帯封には、親戚の老人の手で、

   一金一百円也    永代経料
    × × 寺 殿      × × 家

 と細字で書かれてあった。
 住職は気味の悪い程柔かい物馴れた態度でその金を受け取った。
 円い大きいスタンプのような寺の判を捺した領収書を貰うと彼女はすぐに其処を出た。不浄物を棄てたような身軽さと、親戚の環視の眼から逃れたような気易さとを感じながら、寺の石段を下りたが、先刻から彼女の眼には、死んだ祖母が背を屈めて、物影へ入っては、チャリン、チャリンと音をさせながら、一日中に屹度一度、人に隠れて銭勘定をしている姿が泛んでいた。
 当時彼女はよく、祖母の銭勘定を嗤ったり罵ったりしたが、今はその姿を想い出すと眼頭へ涙が滲んで来た。
 然し先刻のあの僧侶が、祖母の為に永遠に経を読む等という真ッ赤な嘘を、公然とお互に通してゆく世の中を考えると、彼女は擽られるような気持ちにもなった。
 寺の石段の上からは、直ぐ下に暮の街が展開された。薄い夕靄の中に電燈の火が鏤められていた。
 彼女は石段を下り切ると、一度寺の方を振り仰いで見た。厳めしい楼門は貧弱な寄進者なんか眼中にも置かないように、そそり立っていた。