宇宙時代のオイディプス
植木
別れてから一年半が経った。
早いものなのか、ようやくなのか一口には言えないのだけれど、とにかく時間だけは容赦なく過ぎていくらしく、それは例えば、砂時計を遠くから眺めると何も変化が無いように見えるけれど、近づいてガラス管がくびれている所を見れば、思いのほか勢いよく砂が下へと落ちていく、あの見る者に少々不安を与える感じに似ていなくもない。うっかりして目を離してしまうと、とめどなくさらさらと目の前を砂も時間も通り過ぎてしまう。人生も、とまで話を広げると大げさかもしれないけれど、確かなことは一年半の間、僕にはその砂時計をひっくり返す暇も余裕もなかったと言うことだ。ただそれは結局、誰にむかって言うわけではない、自分自身に対する言い訳なのだけれども。
いつごろからか定かではないけれども、夕食後のキッチンで息子と話をするのが習慣になっていた。僕の家にはテレビもラジオをないから、夕食を終えてから眠るまで時間をどうつぶすかが問題になってくる。息子はホットミルク、僕はカフェオレを淹れてペパーミントグリーンのテーブルを挟んで向かい合う。二人とも猫舌だから湯気を立てているマグカップを前にして少し冷めるのを待たなければいけない。ひょっとしたら、その待つ間の居心地のわるさを避けるために、どちらかが話し始めたのかもしれない。
息子も小学校に通うようになり、他所の子供たちの輪の中に混じるようになってから会話が少し上手くなったようだ。以前は僕の問いかけに、ぎこちなく返事をするだけだったし、だいたい僕自身が息子に対してどんなことを話せばいいのか良くわかっていない状態だったから、二人の間には会話らしい会話と言うものがなかったわけだけど、最近は息子から話を切り出すことも多くなり、僕も少し頼もしく思えるようになっていた。
「うちゅうひこうしになるんだ、なんびゃくまんこうねんもさきにある、ほしにまでいくんだよ」
「へえ、そりゃあヘビーな話だな」
「『へびー』って?」
「いっぱい『べんきょう』しなくちゃいけないってことさ」
「べんきょうはすきだよ、りかがとくいなんだ」
「パパと同じ『せいしんかい』になるつもりはないのかい」
「いっしょはつまらないよ、パパも、みよしせんせいとおなじで、みんなといっしょにしなさいっていうの?」
「パパはそんなことは言わないよ、ひとは皆、違うものだからね、いっしょになろうとしてもどだい無理なんだよ」
「ふーん、よくわからないよ」
息子は月に一度、彼女の家に泊まる約束になっている。この件に関して僕は親権だなんだと、とやかく言うつもりは全くなく、結局のところ双方の弁護士が上手く彼女と話し合って処理をしてくれたってことなのだけれど、彼女が僕にとってどんな存在であったにせよ、子供には母親が必要な年齢があることは確かだと僕は思っているから、この現状に異存はないのだけれど、やはり泊まりに行く前の晩にはついアルコールなどを飲んでしまう。別に飲まなきゃやっていられないと言うわけではないのだけれど、これも一つのジェラシーなのかもしれないと考えたりもする。泊まりに行ってしまった晩は、もちろん一人きりになってしまうのだけれど、狂おしいほどの寂しさを感じるかと言えば案外そんなこともなく、アルコールは前の晩に飲んでしまっているので別に飲みたいとも思わず、定番のカフェオレを淹れて、キッチンで漱石やハメットを読んだり、セロニアス・モンクを聴いたりしながら時間をつぶしている。
翌日の日曜日の夕方に、真新しい服を着せられ、新しいおもちゃを抱えてアパートメントに戻ってくる息子に、彼女とどんな話をしたか僕はあえて聞かないことにしているし、息子もまた、それを話題にすることはない。ただ、いつも帰ってくるなり、すぐに服を脱がせ、熱いシャワーを浴びせ、手荒な手つきで頭をタオルで拭き、ピーナッツのライナスが胸の部分にプリントされたスウェットに着替えさせてしまう。自分でも何でそんなことをするのか、半分くらいは理解しているのだけれど、まるでどこか遠い国の儀式のようにそれを毎回毎回繰り返してしまう。そんな慌ただしい時が一段落し、キッチンで恒例の語らいを終えて、息子がベッドで眠りについたあと、玄関から廊下にかけて散乱している引き剥がすように脱がせた服を片付ける。クローゼットにはまるで一年半の成長記録の様な、季節ごとに少しずつ大きくなっていく、彼女好みにコーディネートされた服が整然と並んでいる。僕はそれを眺めながら過ぎた一年半とこれからやってくるであろう時間についてしばらく考えたあと、ひとつため息をついてからベッドに潜り込む。
「ウラシマこうかってしってる?」
「子供の頃に本で読んだよ、たしか双子の兄弟の一人が宇宙に行って帰ってくると、もう一人はおじいさんになってるって話だろう、そういえば、浦島太郎が玉手箱を開けたらおじいさんになったのはなぜだか知ってる?」
「りゅうぐうじょうにいったから」
「ちがうよ」
「たまてばこにまほうがかかっていたから」
「それもちがうな」
「わからないよ」
「時間をあげるから少し考えてごらん」
「……やっぱり、わからないよ」
「降参?」
「こうさん」
「正解は『男だから』だよ」
「そんなのわからないよ」
「これは『いじわるクイズ』なんだよ」
「『いじわるクイズ』なんかきらいだよ、それよりぼくがうちゅうにとびだしてから、ちきゅうにもどってくるとパパはうらしまたろうみたいにおじいちゃんになってるんだよ」
「それじゃあママもおばあちゃんかい?」
息子はじっと僕を見つめ、しばらく返事をしなかったが、
「……ママはコールドスリープ(冷凍睡眠)だよ」と、呟き黙ってしまった。
僕はその時、息子の顔を見つめながら、息子はもう立派につとめていたじゃないか、と悟った。彼女と僕との引力に引き裂かれてしまった孤独な宇宙飛行士。小さな背中に生命維持装置以上のものを背負いながら、たった一人で空想の宇宙のなかを漂い。大人の都合で砂時計をひっくり返され、時間と空間の中で弄ばれてしまう小さなアストロノート。きっと、あの細いガラスのくびれを通り過ぎる砂のように、大人の数倍もの速度で毎日を過ごしていたにちがいない。息子は何一つ語ることはなかったのだけれど、僕は、いや息子に関わった全ての大人たちが一年半の間、そのことに気付かなかった。息子の命綱を握っているつもりが、無重力の空間に放りだしていたのだから。
キッチンはいま冷蔵庫の微かなモーター音だけが響いている。僕はその音を聴き、それから自分の座っている椅子と体の接触している部分の感触を確かめ、呼吸していることを確認し、今まで自分の中にふわふわと漂っていたものが、大事な気付きとして目の前に現れたことを確信した。
「パパは起きてなきゃいけないのかい?」
「だれかがぼくのこと、みおくってくれなくちゃいやだよ……、うちゅうにむけてとびたつとき、こっくぴっとのまどから、パパとママがてをふってくれるのをぼくがみるんだよ」
「……そうだな、パパとママは必ずそうするよ、そして、パパがどんなにおじいちゃんになっても、ずっと待ってきっとおまえを迎えるさ」
向かい合った二人のマグカップはまだ熱くて、僕はカフェオレのほろ苦さを、息子は薄く膜をはったミルクのやさしい甘さを、 いまだ飲み干せないままでいる。