夕飯を食べ終わるとまもなく黄猫ロボに着信が入った。相手の名前を見て一気にゲンナリグッタリしたのだが出ないと面倒くさい。急いでアパート二階の父母の部屋を出て一階に降り、自分の部屋に戻ってくる。ロボをコンセントに繋ぐと、まもなく上半身裸にエレキギターを下げた皆友カズシが映像で壁に投影された。
「何? この俺を随分待たせんじゃん」
いつも風呂場なのだ。無機質な白い壁に照明が反射し、カズシの声がわんわんと響く。
「馬鹿野郎、こっちは夕御飯食べてたんだよ」
「ああ、そういう時間か」エレキギターを首から下げての仁王立ちにも疲れたのだろう、カズシも(おそらく)浴槽のヘリにどっかと座った。カズシはいわゆる細マッチョで、毛の生えていない綺麗な肌をしている。そこだけは認める。
「曲が出来たんだよ。もう最高。このカズシミナトモ史上、いや、WORLD OF ROCKの最高傑作。それを今までの献身的態度を賞して一番最初にタビノ、お前に聴かせてやろうと思っ」
私は無言で通信を切った。まもなく着信がある。
「安心してくれ、履いてるから」
目の前に突き出された、紫のボクサーパンツの股間を無言で二秒だけ見て、また通信を切る。
カズシと私が付き合っているのか、という疑問が出るわけがないのが私のクラスの当たり前というか共通見解になっている。カズシはクラス中のみんなに優しい。きっと全世界中の誰にも優しいのだろう。そんな優しい自分を世界の誰よりも愛しているからだ。
十二月だというのに今日も制服のワイシャツを肩口に引っ掛けた状態で登校してきた。乳首が見えるかどうかの線で見せないのがマナーであるという。マナーとは配慮であり優しさなのだという。教室という風景の中に調和する俺がマナーなのだという。見るからに寒そうなあたりが全く調和していない、と指摘すると「だって暖房入ってるし」と反駁された。頭が悪いのだろうか。
「はいじゃこの問題を二十三番、皆友……はやめよう」
「先生、何が不満なのかこの俺に教えてくれないか」
「まずは服を着なさい」
「俺が服を着ようが着るまいがそこの答は23だ」
「違う」
「服を着ろ、というのは随分な言い草だと思わないかタビノ」
「そんなんしとるとおへそさんが風邪引きまっせ、皆友はん」
「そうか風邪か」謎のおかん風言い回しをスルーされたのがやや悔しい。「だがしかし、俺は風邪なんか引いたことがない」
「莫迦だからか」
「このミナトモを捕まえてなんてことを言うんだ」
「莫迦だから風邪にさえ気が付かないんだろう」
「そんなことはない。風邪を引いたら温かくして寝る。これに尽きるへっくしょい」
「やっぱり引いてるじゃないか!」
「風邪に対する対処を知っているからって罹患しているとは限るまい。いいかタビノ、一般論だ。これはあくまでも一般論で」
ふと一瞬カズシが小刻みに震えたような気がした。凝視すると、開いたYシャツの胸元から鳥肌がびっしりと立っている。
「……いま衝撃が走った。これが俗にいう青天の霹靂ってやつか」
「よく知らんけど、寒気でしょ」
「お前はどうしても俺のことを病気にしたいらしいようだが……そうか。わかった。わかったぞ皆まで言うな」
カズシは人差し指を立てると満面の笑顔を見せた。
「看病をしたいというのだな! この俺の!」
カズシは「違ぇ」と私に激しく拒絶されるや否や、周りの女子に向かって「俺の看病をしてくれる人百人大募集!」とふらふら教室を出て行ってしまい、その日は帰ってこなかった。幾分か空気が爽やかになった教室で、穏やかな心境で授業を受けて帰宅する。冬になって日が落ちるのはずいぶん早くなったが、今日の終わりを思わせる夕日の鈍い赤を見るのにも随分心が温まった。おやおや、今日はどうしたことだろう。
「何故看病に来ない、タビノ君」
夜八時過ぎ、通信で写されたカズシは裸に革のジャンパーを羽織っている。
「あの後保健室から病院に強制拉致されてこのザマだ」
「服を着ろよ服を!」
「認めたくないことだ。だが、身体に生じてしまった熱は気合で皮膚から放射すれば正常に戻るのだ」
「どんな健康法だよ! 布団かぶって寝ろよ!」
「はっはっは莫迦を言うな、俺の生活に布団など存在しない!」
「じゃあどうやって寝てるの!?」
「そんなの決まっているだろう、すのこだ。真の男はすのこの上で寝る」
「わけわかんねえよ! それで鍛えられても嬉しくないし」
「おっと」カズシは一呼吸置いた。その後鼻をすするから何もかも台無しだ。
「本題を見失うところだった。何故看病に来ない、タビノ」
「行けるか!」
「ああそうかそうか、お前の『行けるか』一言で全てを理解した。一を聞いて二百五十六を理解した。このマイティかつフレンドリーな俺様とは言えど、男の部屋にアンフレンドリーかつ華やかさの欠片もないお前を独りで寄越すというのは流石に配慮が足りなかった。この皆友、画竜点睛を欠いた」
「言っていることはいつも以上によくわからないけど、なんか自分が間違っていることを認めたらしいことは判った」
「よし、プランEだ」
「それまでのBCD三つが気になるんだけど!?」
「今からお前の家に看病されてやりに往こう」
「いや、ちょっと待っ」
「俺が知らないとでも思ったのか。タビノの家はアパートの二階に両親、一階にお前が一部屋借りて暮らしているはずだと記憶している」
「いや、それはそうだけどしっかし!」
「もちろんこの俺が行くのだ。手土産を持ってご両親にもご挨拶しよう! 合法的に看病されにやってまいりました、と!」
「なんだそれ! 本当にもう何だそれ!」
「じゃあ十分後に会おう!」
――と、一方的に通信を切られてしばらく呆けていたが、結局その日、皆友カズシはやってこなかった。消息が気になって電話をしようかどうかもしばらく考えたが、止した。暖かくして寝た。烏カアで夜が明けて、やはりカズシからの着信はなかった。
「――ミフルだって」
「へっ?」
おかしい、ちゃんと寝たはずなのに、どうも人の話が抜けるくらいの体調らしい。聞いてないなこいつ、と骨川祐希は普段からとんがった口元をさらに尖らせる。
「カズシ君、クスリのせいでマンションの三階から飛び降りたらしいよ。それで足の骨折ったって」
「え? あぁ、そうなん?」
「正確には、街中を全力疾走しているところを警察に保護されたら、折れてたんだって、足」
「クスリって?」
「だからインフルエンザの薬だよ、今言ったじゃん」
「あぁ」
「看病しに行かなかったの? タビノ」
「は? 行くわけないじゃん。なんでよ」
「だって、昨日言ってたよカズシ君、『いまからタビノが嬉々として看病に来るから』って」
「ねぇよ!」
カズシがどんなクスリのおかげで飲んでああなったとしても驚かないが、どんなクスリであっても、よもや飲むとは思いもしなかった。
まだまだ新しい情報を仕入れたそうな骨川を適当にあしらいつつ、段々と自分自身、喉や節々に違和感が広がっていくのを感じていた。結果として私もインフルエンザである。薬のせいでカズシを殴り殺しても責任は問われないだろうか、と熱の中で真剣に考えた。
なお、その日の夕方に青猫ロボットが帰ってきた。ネズミを駆除させようとして耳が取れたのを修理に出していたのだ。代替の黄猫ロボの方が使い勝手が良かった気もするが、「隣の芝生は青い」というやつであろう。むしろ青いのはうちの猫なんだけど。