≪表紙へ

3000字小説バトル

≪3000字小説バトル表紙へ

3000字小説バトルstage3
第5回バトル 作品

参加作品一覧

(2015年 12月)
文字数
1
緋川コナツ
3000
2
サヌキマオ
3000
3
植木
3000
4
久生十蘭
2115

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

山女魚
緋川コナツ

 渓流釣りが趣味だった僕は、その年の夏も一人で山に入った。
 渓流での釣りは、養殖されているニジマス釣りなどと比べると格段に難しい。しかも僕は本流、支流、源流とある渓流釣りの流域の中でも山岳地帯を流れる源流域での釣りを好んでいたので、それなりの装備や登山経験も必要とされた。
 天然の渓魚は警戒心がとても強く、人影を見たりするとあっという間に岩陰に隠れてしまう。だから源流域では一か所で釣り続けずに、常に遡上して場所を移動しながらの釣りとなる。
 その日も万全の態勢で渓流釣りに挑んだのだけれど、何故か思うように釣果を上げることはできなかった。
 下流から徐々に上流へと遡上していると、いつしか僕は急激な喉の乾きをおぼえた。リュックの中に水筒はあったけれど、目の前には冷たく澄んだ沢の水が流れている。手にすくって喉に流し込もうと試みたけれど、急な水の流れに躊躇してしまった。
「そうだ、滝だ」
 ここに来る途中、滝の音が聴こえたことを思い出した。そこの滝つぼなら水をすくって飲めるかもしれない。それに今日は全く釣れずに煮詰まっていたので、気分転換のつもりで散歩がてら行ってみることにした。
 鮮やかな緑の木々の葉と、降り注ぐ蝉しぐれを掻き分けながら前に進む。都会では聴いたことのない鳥の声に耳を傾けながら歩いていると、突然ぽっかりと視界が開けて滝つぼに出た。
 流れ落ちる川の水が轟音となって青い空に吸い込まれてゆく。幸いにも、注意して岩場を歩けば水際までたどり着けそうだ。僕は清水を求めて慎重に歩を進めた。
「うわっ、冷たい!」
 思った通り、滝つぼの水は驚くほど冷たく澄んでいた。両手ですくった水を口に含んで喉の奥に流し込む。あまりの冷たさに頭の先がキーンと痺れた。僕は靴を脱いで適当な岩の上に座り、山歩きで疲れた足先を軽く水に浸した。
 滝つぼの周りには、水飛沫によるマイナスイオンが多く発生しているらしい。きっとそこには目には見えない結界が張られていて、邪悪な者の侵入を阻んでいる。ふいに照れ臭くなって、僕は湧き上がる厳粛な気持ちを打ち消した。
「気持ちいいなぁ……最高だな」
 僕は試しに、持っていた釣り糸を滝つぼの水の中に垂らしてみた。ほんの戯れのつもりだった。そして清らかな水面をつま先でパシャパシャと叩きながら、大きく伸びをして目を閉じた。
 どのくらいの間、そうしていたのだろう。僕は何者かの気配を感じて目を開けた。ゆっくりと首をまわして辺りを見渡す。そこにはただ、木々の葉がざわざわと清浄な山の風に揺れているだけだった。
「おかしいな……気のせいかな」
 ひとりごちて水面に視線を移す。すると大きな黒い影が水面近くに留まって、僕の様子をじっと窺っているのが見えた。
「魚……巨大魚か?」
 すると魚は僕からの問いかけに答えるかのように、大きな水音を立てながら跳ねた。
「ヤ、ヤマメだ!」
 山女魚は「渓流の女王」ともいわれるくらい美しく、美味しい高級魚として有名だ。魚形は滑らかな流線型で、パーマークと呼ばれる小判型の模様が特徴となっている。僕は数ある渓魚の中でも、子どもの頃から山女魚が一番好きだった。
 山女魚は本来とても用心深い魚のはずなのに、一体どうしたことだろう。巨大な山女魚はしばらくの間、僕の目の前をぐるぐると泳ぎまわり、やがて岩陰へと消えた。
 すると呆気に取られていた僕の目の前で、信じられないことが起きた。滝つぼの中央あたりから、女がぽっかりと顔を出したのだ。僕は自分の目を疑った。ごしごしと目を擦ってみたけれど、やはりそこには黒く長い髪を艶やかに光らせた、美しい女の顔があった。
 女はこちらに向かって静かに泳いでくる。やがて浅瀬に着くと水から出てゆっくりと立ち上がり、まさに生まれたままの姿を僕の前に晒した。
 僕の視線は、神々しいまでの彼女の裸体に釘付けになった。濡れた肌は怪しくぬめり、ほんのりと銀色に輝いている。翡翠の色をした瞳、少し上を向いた丸っこい鼻、紅い唇、白桃のような二つの胸の膨らみ、そして足元まで伸びた長い黒髪。僕は一目で彼女に魅了されてしまった。
 膝下まで水に浸かった状態で彼女が僕を見ている。僕は何のためらいもなく結界を破り、水の中に入った。山の水は心臓がキリキリと締め付けられるように冷たい。それでも僕は彼女に触れたい一心で、水の中を一歩ずつ進んだ。
 僕は彼女の体を抱きしめた。不思議なことに痺れるほど冷たい水の中にいたはずの彼女の体は、驚くほど温かかった。それはまさに、彼女の体を流れる血の温度だった。
 どちらからともなく唇が重なる。僕はたまらなくなって自分の舌を滑り込ませた。キメの細かい白肌は触れば触るほどぬめりを帯びて、彼女の体から生臭い水のにおいが立ち上った。
「アッ……」
 彼女の一番大事な部分に指先を潜らせると、口元から切ない吐息が漏れた。そこは体のどの部分よりもぬめりが強く、温かかった。
 奥まで。もっと奥まで彼女に触れたい。僕の胸の中に彼女を愛おしく想う気持ちが湧き上がる。連れて帰ろうか。それとも、このまま食べてしまおうか。
 僕はたまらなくなり、彼女の体の奥にある深い滝つぼに中指をゆっくりと挿し入れた。
「うぎゃああああああ!」
 一瞬、僕は自分の身に何が起きたのかわからなかった。とにかく指先が熱い。彼女の中で感じた温かさとは全く違う、燃えるような熱さだ。
 水面はおびただしい血のせいで赤く染まっていた。そこに女の姿はなく、さっきの巨大な山女魚がその身を大きくくねらせながら、滝つぼの奥へと消えてゆく姿が見えた。
 僕は恐る恐る右手を水から上げて指先を確認した。彼女の中に収まっていたはずの中指の第二関節から先が、なかった。

 年老いた医師は僕の指先を見て首をかしげた。
「これは……何か動物に噛まれたんですか」
「山女魚です」
「ヤマメ? それは何かの間違いじゃないですかねぇ」
 医師は怪訝な表情を浮かべて、即座に僕の言葉を否定した。
「山女魚はとても神経質な魚で、人間に襲い掛かる、ましてや成人男性の指を噛み切るなんて、とても考えられませんよ」
「噛まれたんじゃなくて……」
「はい?」
「いや、何でもありません。そんなことは百も承知です。でも本当に山女魚なんです。僕はあの山の滝つぼで、彼女と情を交わしたんですよ。そのときに噛み千切られたんです」
「彼女、ですか?」
 医師が呆れたように目を丸くする。
「ええ」
 不思議と彼女を恨む気持ちにはなれなかった。それよりも、たとえ一瞬でも彼女と魂が呼応した悦びのほうが大きかった。彼女の体の奥から湧き上がる水苔の匂いが、今でも鼻の奥にこびりついている。
「山女魚、ねぇ……ふむ」
 医者は納得いかない様子で何度も首を捻ったけれど、もうそんなことはどうでも良かった。これは結界を破った罰だ。僕は途中までしかない中指を、じっと見つめた。

 後に、あの滝には「巨大な山女魚が棲んでいる」という古くからの言い伝えがあることを知った。その山女魚は滝の守り神であり、決して獲ってはならないと。もし、禁を破って捕獲し食した者は、末代まで祟られることになると。
 僕の中指は滝の守り神への捧げものだ。僕の指は彼女の中では咀嚼され、血肉となって永遠に生き続けるだろう。
 あれから何度か滝つぼに足を運んだけれど、彼女にも巨大な山女魚にも、二度と逢うことはなかった。
山女魚 緋川コナツ

青猫ロボの不在
サヌキマオ

 夕飯を食べ終わるとまもなく黄猫ロボに着信が入った。相手の名前を見て一気にゲンナリグッタリしたのだが出ないと面倒くさい。急いでアパート二階の父母の部屋を出て一階に降り、自分の部屋に戻ってくる。ロボをコンセントに繋ぐと、まもなく上半身裸にエレキギターを下げた皆友カズシが映像で壁に投影された。
「何? この俺を随分待たせんじゃん」
 いつも風呂場なのだ。無機質な白い壁に照明が反射し、カズシの声がわんわんと響く。
「馬鹿野郎、こっちは夕御飯食べてたんだよ」
「ああ、そういう時間か」エレキギターを首から下げての仁王立ちにも疲れたのだろう、カズシも(おそらく)浴槽のヘリにどっかと座った。カズシはいわゆる細マッチョで、毛の生えていない綺麗な肌をしている。そこだけは認める。
「曲が出来たんだよ。もう最高。このカズシミナトモ史上、いや、WORLD OF ROCKの最高傑作。それを今までの献身的態度を賞して一番最初にタビノ、お前に聴かせてやろうと思っ」
 私は無言で通信を切った。まもなく着信がある。
「安心してくれ、履いてるから」
 目の前に突き出された、紫のボクサーパンツの股間を無言で二秒だけ見て、また通信を切る。

 カズシと私が付き合っているのか、という疑問が出るわけがないのが私のクラスの当たり前というか共通見解になっている。カズシはクラス中のみんなに優しい。きっと全世界中の誰にも優しいのだろう。そんな優しい自分を世界の誰よりも愛しているからだ。
 十二月だというのに今日も制服のワイシャツを肩口に引っ掛けた状態で登校してきた。乳首が見えるかどうかの線で見せないのがマナーであるという。マナーとは配慮であり優しさなのだという。教室という風景の中に調和する俺がマナーなのだという。見るからに寒そうなあたりが全く調和していない、と指摘すると「だって暖房入ってるし」と反駁された。頭が悪いのだろうか。
「はいじゃこの問題を二十三番、皆友……はやめよう」
「先生、何が不満なのかこの俺に教えてくれないか」
「まずは服を着なさい」
「俺が服を着ようが着るまいがそこの答は23だ」
「違う」

「服を着ろ、というのは随分な言い草だと思わないかタビノ」
「そんなんしとるとおへそさんが風邪引きまっせ、皆友はん」
「そうか風邪か」謎のおかん風言い回しをスルーされたのがやや悔しい。「だがしかし、俺は風邪なんか引いたことがない」
「莫迦だからか」
「このミナトモを捕まえてなんてことを言うんだ」
「莫迦だから風邪にさえ気が付かないんだろう」
「そんなことはない。風邪を引いたら温かくして寝る。これに尽きるへっくしょい」
「やっぱり引いてるじゃないか!」
「風邪に対する対処を知っているからって罹患しているとは限るまい。いいかタビノ、一般論だ。これはあくまでも一般論で」
 ふと一瞬カズシが小刻みに震えたような気がした。凝視すると、開いたYシャツの胸元から鳥肌がびっしりと立っている。
「……いま衝撃が走った。これが俗にいう青天の霹靂ってやつか」
「よく知らんけど、寒気でしょ」
「お前はどうしても俺のことを病気にしたいらしいようだが……そうか。わかった。わかったぞ皆まで言うな」
 カズシは人差し指を立てると満面の笑顔を見せた。
「看病をしたいというのだな! この俺の!」
 カズシは「違ぇ」と私に激しく拒絶されるや否や、周りの女子に向かって「俺の看病をしてくれる人百人大募集!」とふらふら教室を出て行ってしまい、その日は帰ってこなかった。幾分か空気が爽やかになった教室で、穏やかな心境で授業を受けて帰宅する。冬になって日が落ちるのはずいぶん早くなったが、今日の終わりを思わせる夕日の鈍い赤を見るのにも随分心が温まった。おやおや、今日はどうしたことだろう。
「何故看病に来ない、タビノ君」
 夜八時過ぎ、通信で写されたカズシは裸に革のジャンパーを羽織っている。
「あの後保健室から病院に強制拉致されてこのザマだ」
「服を着ろよ服を!」
「認めたくないことだ。だが、身体に生じてしまった熱は気合で皮膚から放射すれば正常に戻るのだ」
「どんな健康法だよ! 布団かぶって寝ろよ!」
「はっはっは莫迦を言うな、俺の生活に布団など存在しない!」
「じゃあどうやって寝てるの!?」
「そんなの決まっているだろう、すのこだ。真の男はすのこの上で寝る」
「わけわかんねえよ! それで鍛えられても嬉しくないし」
「おっと」カズシは一呼吸置いた。その後鼻をすするから何もかも台無しだ。
「本題を見失うところだった。何故看病に来ない、タビノ」
「行けるか!」
「ああそうかそうか、お前の『行けるか』一言で全てを理解した。一を聞いて二百五十六を理解した。このマイティかつフレンドリーな俺様とは言えど、男の部屋にアンフレンドリーかつ華やかさの欠片もないお前を独りで寄越すというのは流石に配慮が足りなかった。この皆友、画竜点睛を欠いた」
「言っていることはいつも以上によくわからないけど、なんか自分が間違っていることを認めたらしいことは判った」
「よし、プランEだ」
「それまでのBCD三つが気になるんだけど!?」
「今からお前の家に看病されてやりに往こう」
「いや、ちょっと待っ」
「俺が知らないとでも思ったのか。タビノの家はアパートの二階に両親、一階にお前が一部屋借りて暮らしているはずだと記憶している」
「いや、それはそうだけどしっかし!」
「もちろんこの俺が行くのだ。手土産を持ってご両親にもご挨拶しよう! 合法的に看病されにやってまいりました、と!」
「なんだそれ! 本当にもう何だそれ!」
「じゃあ十分後に会おう!」
――と、一方的に通信を切られてしばらく呆けていたが、結局その日、皆友カズシはやってこなかった。消息が気になって電話をしようかどうかもしばらく考えたが、止した。暖かくして寝た。烏カアで夜が明けて、やはりカズシからの着信はなかった。
「――ミフルだって」
「へっ?」
 おかしい、ちゃんと寝たはずなのに、どうも人の話が抜けるくらいの体調らしい。聞いてないなこいつ、と骨川祐希は普段からとんがった口元をさらに尖らせる。
「カズシ君、クスリのせいでマンションの三階から飛び降りたらしいよ。それで足の骨折ったって」
「え? あぁ、そうなん?」
「正確には、街中を全力疾走しているところを警察に保護されたら、折れてたんだって、足」
「クスリって?」
「だからインフルエンザの薬だよ、今言ったじゃん」
「あぁ」
「看病しに行かなかったの? タビノ」
「は? 行くわけないじゃん。なんでよ」
「だって、昨日言ってたよカズシ君、『いまからタビノが嬉々として看病に来るから』って」
「ねぇよ!」
 カズシがどんなクスリのおかげで飲んでああなったとしても驚かないが、どんなクスリであっても、よもや飲むとは思いもしなかった。
 まだまだ新しい情報を仕入れたそうな骨川を適当にあしらいつつ、段々と自分自身、喉や節々に違和感が広がっていくのを感じていた。結果として私もインフルエンザである。薬のせいでカズシを殴り殺しても責任は問われないだろうか、と熱の中で真剣に考えた。

 なお、その日の夕方に青猫ロボットが帰ってきた。ネズミを駆除させようとして耳が取れたのを修理に出していたのだ。代替の黄猫ロボの方が使い勝手が良かった気もするが、「隣の芝生は青い」というやつであろう。むしろ青いのはうちの猫なんだけど。
青猫ロボの不在 サヌキマオ

S先生、カフカ、そしてぼく
植木

 S先生の指示で、ぼくは午前中いっぱいを図書館で過ごすことになっており、十二月に入ってそろそろ図書館通いも三週間が過ぎようとしていた。開館の時間に合わせて家を出て、三十分ぐらいかけて散歩がてら図書館に向かうのだけれど、道すがら、よそ様の塀の中をなんとなくのぞき見しながらぼんやりと歩いていく。S先生曰く「別に筋骨隆々になれと言っている訳じゃないから気楽に歩けばよい」そうだから、その点については運動嫌いのぼくも気が楽だ。
 今の季節はだいたい九時頃に陽射しが出てくるので、図書館に向かって極楽寺の辺りを歩いているときはまだ肌寒く感じる。ぼくは寒がりなのでマフラーをしっかりと巻いて歩くのだけれど、ここがぼくの性分で、歩き出すと、どんどんとペースが速くなってしまって仕舞いには体が熱くなって汗をかくぐらいの速度で歩いてしまう。もう、走り出したほうが絶対に楽に違いないというぐらいの速度になるころ、(肩のチカラを抜かなきゃいけない)と気付いて歩くペースを落とすのだけど、その頃にはコートの下は結構汗だくになっていたりする。そんなわけでマフラーを外して歩くと、汗が冷えてまたペースをあげて歩いてしまい同じことを繰り返してしまう。そんなことを都合三十分ぐらい繰り返すと、ようやく図書館に到着する。ぼくはもう三週間ぐらいそんな日々を送っている。
 S先生曰く、「肩にチカラがはいりすぎているぞ」この台詞を初対面の時から何回言われたことか。正確なところは数えていないから分からないけれど、通院の度に言われているような気がするので、おそらく通院した回数とほぼ同数と考えていいかもしれない。そうなるとS先生のところに通い始めたのが去年の二月十九日で、毎週だったり隔週だったりするから結構な回数だ。これはお互い頑固なのか、一方的にぼくの方に非があるのだろうか。もっとも、ぼくだってチカラを抜いてS先生が診察室に入ってくるのを待っていても、その言葉を言われる時があるのだから、一方的にぼくだけのせいではないだろう。どちらかといえば一方的と決め付けてしまう考え方がよくないのかもしれないのだけれど、それがS先生のところに長く通うことになった理由なのかもしれないとも思う。
 月曜日にS先生のところに行ったときはカフカの「変身」の話になった。三週間の図書館通いでは、読んだ本についてレポート用紙に十行程度の感想を書くようにいわれていて、月曜日にそれをS先生に見せることになっているのだ。
 「変身」は主人公グレーゴル・ザムザが、ある朝起きると突然大きな虫に変身していて、そのせいで家族に疎まれることになり、父親に投げつけられたリンゴによる怪我が原因で最後は死んでしまい、残された家族(両親と妹)はホッとする、という大雑把すぎる粗筋を書くと身も蓋もない話になるのだけれど、まあ、そんなカフカの代表作である。
 ぼくは十五、六才ぐらいのときに、ドストエフスキーの「罪と罰」とかサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」とかアラン・シリトーの「長距離走者の孤独」とか他の小説と合わせて一回しか読んだ記憶がなくて、細かい部分は当然おぼえてなく、ほとんど初読と変わらない状態だったので結構面白く読めたのだけど、そんなことよりも以前読んだときから四半世紀ぐらい経ってしまっているという事実のほうにぼくは深く感慨をおぼえた。紙に印刷された文字は変わらなくても、時間は過ぎて人生は進んでいくのだという当たり前のことに改めて気付かされた。カフカもまさか「変身」を書いているとき、のちに遠く極東に住む男が自分の小説を読んで人生の感慨にふけるとは、いささかも思っていなかっただろうけど小説というものは作者の予期しないところで時に強くこんな風に機能するものなのだろう。
 S先生は、ぼくのどうしようもない一週間分の感想を一通り「見て」から(どうも、ぼくには読んでいるように見えないのだが)、それから共依存のはなしをしてくれた。共依存というのは簡単にいうと、例えばアルコール依存症を患っている人の世話をしている家族がその世話の過程において、だんだんと依存者自体に依存するようになる状態を指し、俗ないい方をすれば、あなた無しではいきていけない、ということらしい。で、こんな関係は世の中にはもうたくさん見受けられるはずだと言うはなしだった。
 そして、S先生はこのカフカの「変身」が共依存の格好のテキストであることを教えてくれた。ぼくはS先生の説明を聞きながら、ぼくとS先生は共依存の関係にあるのかなどと考えたけれど、やはりそれはちょっと違うだろうなと思い、口に出すことは控えた。いずれにしても、カフカの小説はどんな解釈も可能でまたそれらを拒むものだ、と言う結論になった。
 それにしても、カフカはグレーゴル・ザムザをどうして虫の姿にしたのだろうかなどと、S先生からの帰り道にぼくは考えた。神は自分の姿に似せて人間を創造したのだからその姿を放棄することは何か宗教的な問題を孕んでいるのかもしれないなどと考えたりもした。もしかしたら、カフカは仏教の輪廻の考えを知っていたのだろうかなどと飛躍した考えも思いうかんだ。ぼくは少し喉が渇いたので自動販売機で水を買って飲んだ。S先生の帰り道は、特別おしゃべりをした訳ではないのに、よく喉が渇く。水を飲みながらしばらくカフカのことを考えつづけたが、だんだんとおっくうになってきて、極楽寺坂をのぼるころにはすっかり頭も体もバテてしまっていた。
 だらだらと坂をのぼりながら、もうカフカのことを考えるのをやめて猫の名前について考えた。来年の三月末に父と猫二匹の三回忌を終えたらまた猫を飼おうと思っていて、今はその名前を暇があると考えているのだ。しかし、実際目の前に猫がいないとなかなか難しいもので、くだらない名前を思いついては考え直すことを繰り返していた。猫にしたって、ありふれた名前では嫌だろうし、あまり突飛なものでも気に入らないに違いない。図書館でも子供の名前の付け方の本などを引っ張り出し参考にしているのだが、やはり人と猫は違う。どちらかというと、当たり前だが人のほうは面白みがない。それでも本を丹念に読むと役所で拒否された名前の一覧などが載っていて「えんじぇる」とか「ぴえろ」など信じがたい名前があり、まさに事実は小説より奇なりだ。
 ぼくの家族にしても、ぼくが飼うのだから名前は自分で付けろと言っておきながら、いざ候補を言えば難癖をつけるのだからタチが悪い。まあ、まだどんな猫を飼うかも決めていないのに名前を決めてしまおうというのも問題があるかもしれない。
 四月になったら里親探しの会に見にいくつもりで、色々と調べたりしているのだけれど、現在の問題は我が家で覇権を握っているオスのシーズーで、猫二匹が生きていた頃は小さくなっていたけれど、猫が死ぬたびに力を盛り返し、今は自信満々であるから、ぼくは黒船がくるぞ、とか脅しをかけているのだが、耳も遠くなり始めた老犬にとってはどうでもいいのか、わかっていないのか、大欠伸をしながら意味もなくご褒美をねだったりしている。この数年間天下泰平だった我が家の動物界もこれからは波乱を含んでいるのである。もっとも、その原因をつくっているのは他ならぬぼくなのであるから、人間とは因果なものであるらしい。
S先生、カフカ、そしてぼく 植木

骨仏
今月のゲスト:久生十蘭

 床ずれがひどくなって寝がえりもできない。梶井はあおのけに寝たまま、半蔀はじとみの上の山深い五寸ばかりの空の色を横眼で眺めていると、伊良がいつものように、「きょうはどうです」と見舞いにきた。
 疎開先で看とるものもなく死にかけているのをあわれに思うかして、このごろは午後か夜か、かならず一度はやってくる。いきなり蒲団の裾をまくって足の浮腫むくみをしらべ、首をかしげながらなにかぶつぶついっていたが、そのうちにくりやへ行って、昨日飲みのこした一升瓶をさげてくると、枕元へあぐらをかき、調子をつけてぐいぐいやりだした。
 那覇の近くの壺屋という陶器をつくる部落の産で、バアナード・リーチの又弟子ぐらいにあたり、小さな窯をもっていて民芸まがいのひねったような壺をつくっているが、その窯でじぶんの細君まで焼いた。
 細君が山曲やまたわ墾田はりだのそばを歩いている所を機銃で射たれた。他にも大勢やられたのがあってなかなか火葬の順番がこない。伊良は癇癪をおこして細君を窯で焼き、骨は壺に入れてその後ずっと棚の上に載っていた。浅間な焼窯にどんな風にして細君をおしこんだのかそのへんのところをたずねると、伊良は苦笑して、
「どうです。あなたも焼いてあげましょうか。おのぞみなら釉をかけてモフル窯できれいに仕上げてあげますがね」などと空をつかってはぐらかしてしまった。
 きょうはどうしたのかむやみにはかがいく。たてつづけにグビ飲みをやっていたが、
フアルも山も、百合ユーリ花盛フアナサカリーイ、行きすゅるソーデニオのしおらしや……」
 とめずらしく琉球の歌をうたいだした。
「いい歌だね。それに似たようなのが内地にもあるよ……野辺にいでて、そぼちにけりな唐衣、きつつわけゆく、花の雫に。それはそうと、きょうはひどくご機嫌だね」
 伊良はニコニコ笑いだして、
「まだ申しあげませんでしたが、わたしの磁器もどうやら本物の白に近くなってきたようで、きょうはとても愉快なんです」と力んだような声でいった。民芸では食っていけないので、ファイアンスの模造をはじめたが、予期以上にうまくいきそうなので、手本を追いこすくらいのところまでやってみるつもりでいる、とめざましく昂奮しだした。
「日本の磁器は硬度は出るのですが、どこか煤っぽくて、どうしてもファイアンスのような透明な白にならないんですね。ひと口に白といっても、白には二十六も色階があるので、日本磁器だけのことではなく、すぐれた磁器をつくるということは、要するにより純粋な白に近づけようという競争のようなものなんですよ。ファイアンスの白を追いこすことが出来れば、黒いチューリップや青いダリヤを完成したくらいのえらい騒ぎがおきるんです」
「すると君がやっているのは、中世の錬金道士の仕事のようなものなんだね」
 と皮肉ってやったが、まるで通じないで、
「錬金道士か。なるほどうまいこという。そうです。そうです。そうなんですよ。ひとつお目にかけますかな」
 ひょろひょろしながら出て行ったが、すぐ白い瀬戸物のかけらを持って戻ってきた。
「どうです。この白のねうちがあなたにわかりますか。これでたいしたものなんですよ。いったい磁器の白さをだすには、人骨の粉末を微量にまぜるというマニエールがあって、それは誰でも知っているんですが、セエブルでもリンブルゴでも、混合の比率は秘密にして絶対に知られないようにしているんです」
「そういうものかね。はじめてきいた。でもそれは人間の骨でなくてはいけないのか」
「そうです」
 というと、膝杖をついてうつらうつらとなにか思案しはじめた。
 この白さをだすのに誰の骨を使ったかなどとかんがえるまでもない。伊良の細君は肌の白い美しいひとで、その肌なら、ある意味で伊良よりもよく知っているわけだが、そのひとの骨がこの磁器のかけらにまじりこんでいると思うと、その白さがそのまま伊良の細君の肌の色に見え、いい知れぬ愛憐の情を感じた。
「ともかくそれは大事業だね。切にご成功を祈るよ」
「ところが、このごろ人骨が手に入らないので、仕事がすすまなくて弱っています。フランスでは磁器に使う分は政府が廃骨を下げわたしてくれるので楽ですが、日本にはまだそんな規則もないし、いざ欲しいとなると、これでなかなか手に入りにくいもんです」
 というと、ジロリとへんな上眼づかいをした。
 肉親も親戚もみな戦災し、死ねば伊良が葬うほかないのだから、骨の始末は心のままだ。ひょっとすると、伊良はこの骨に眼をつけて、毎日じりじりしながら死ぬのを待っているのかも知れない。大きにありそうなことだと考えているうちに、なるほどこれが伊良の復讐なのかと、それではじめて釈然とした。
 細君がほんとうに機銃掃射でやられたのかどうか、それを知っているのは窯だけだ。伊良がそういうつもりでかかっているのなら、これはもう皿にされるのはまぬかれないところなので、
「困ることはないさ。死んだらおれの骨をやるよ。期待していてくれたまえ」
 と先手を打ってやると、聞えたのか聞えないのか伊良は、
「ああ、酔った酔った」
 と手枕でごろりとそこへ寝ころがって鼾をかきだした。