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僕等が小学校の時分に、写絵というものが非常に流行しました。それは毒々しい赤や青の絵具で紙に色々な絵が描いてあって、例えば武人の顔とか軍旗とか、花とか、その中で自分の気に入った絵を切り取って、水にぬらして腕や足に貼付け、上から着物で堅く圧えつけるのです。暫くたって紙をそっとはがすと、その絵がそのまま腕に写ってしまうのです。ただそれだけの事ですがそれをどういうものかその時分の少年達は、此の上もない面白いもののように思って、手や足では飽き足らず、終いには額にまで貼付けて誇ったものです。
一
午休の時間に、僕は臂掛が出来かかったので、嬉しくて堪らず、機械体操にぶら下って夢中になって練習していると、其処へ浜田がやって来て、
「面白い事をしているから来ないか。」と僕の名前を呼んだ。折角出来かかって居るのに、……それに浜田の遊びと云えば写絵に定って居る。僕は写絵は大嫌いだったし、若しそれが家へ帰って母に知れると大へん叱られるので行く気はしなかったが、どうしても浜田が来て呉れとまで云うので、渋々ながら降りて行った。
雨天体操場の裏には可なり大きな椿の木が繁って居て、その紅のような花と深潭のような色をした葉とは、五六人の少年等が集うには丁度好い日かげをつくって居た。
「さあ君に之だけ上げよう。この絵はね、僕が昨日わざわざ浅草まで行って買って来たんだよ。皆が何処で売ってるときくんだけれど、店の名前は誰にも知らさないのさ……。こんなのを腕に貼っとけば他の者が羨ましがるぜ。だから今この五人だけに僕はやって、あとから皆にみせびらかしてやろうと思うのさ。面白いぜ、君も早く写してしまいよ。僕達もう出来ちゃったんだから、早くして方方見せて歩こうじゃないか。」と浜田は僕に、まるで百円
紙幣でも呉れるかのように勿体らしく渡そうとしたので、僕は急いで云った。
「僕はいけないんだ。家で叱られるんだよ。」
「チェッ意気地がないな。」と浜田は不機嫌な顔色をしたが、僕はそんな事にかまっては居られない程機械体操の練習がしたかった。
「嫌ならいいよ。未だ此方に蘭丸や牛若丸や沢山あるんだけれど、そんなのをやらないばっかりだ。」浜田は
懐中から蘭丸の綺麗な顔を僅ばかりのぞかせて直ぐに
秘してしまった。
僕が之迄に見た写し絵は大抵果物とか花鳥とかというものばかりで、そんなのは全く珍らしかった。でもただ珍らしい位ならば、根が嫌いな物なのだから何でもなかったが、その時チラリと僕の眼に写った蘭丸の顔が如何にも美しく勇ましくまるで芝居にでも出て来る強い若武者を目の当りに見るように感じられた。と同時に、あんなのを自分の腕に貼付けたらどんなに愉快だろうと思った。と急に僕はそれが欲しくなってしまった。
「浜田、それ何処で売ってるんだい。」と負惜みなど云って居られない程僕はそれが欲くなって尋ねた。
「それは教えられないよ。」と浜田は冷かに笑いながら、それがききたくば俺の家来にでもなれと、いわんばかりに「ここに居る者にだってそれは教えられないのだもの、若し君が僕達の仲間に入れば、売ってるところは教えないけれど、蘭丸はやってもいいよ。」と云った。
この珍らしい写し絵を売ってる店を発見した浜田は、天下の秘密でも握ったかのような誇りを持っていたし、又事実その周囲に集っている友達等は浜田をそれが為に非常に尊敬しているのであった。
「僕にもう一枚おくれよ。」「僕にもよ。」「あたいにもよ。」などと皆な大騒ぎを始めた。僕は黙ってその光景を眺めて居た。皆なが騒ぎ出すと浜田は有頂天になって「僕をつかまえた者に、やろう。」と云いながらどんどん駆け出した。連中はドッと鬨の声を上げて浜田の後を追いかけた。
僕は浜田が癪に障って堪らなかったが、わいわいと皆なが騒ぎ廻っているのを見ている中に、どうやら自分の心もその渦の中に巻き込まれて来るらしく、その上浜田が偉い者のようにさえ思われて来た。
二
放課後に機械体操の練習をする筈だったが、僕はもうそれどころではなくなった。――どうかして蘭丸の写絵を手に入れたいものだ、浅草中の
玩具屋を一軒一軒尋ねても
関わぬから、浜田へはもう頼むまいと決心して傍目も触らずすたすたと歩いていた。蘭丸の幻が風のように僕の脳裡を去来していた。――本能寺の勾欄は今や焼け落ちんとしている。緋の肩衣は
紅蓮の颶風に翻えり、どっという
寄手の轟き、地をなめる猛火をはらって閃くは剣戟の冷たさ……火と煙と剣の閃光とを破って現れたのは蘭丸!
勇ましい蘭丸、美しい蘭丸、蘭丸の顔は薔薇の如く、神の如く、鬼の如く、美しく輝いた……僕はこんなとりとめもない空想に焦れていた。それにしても浜田が持っていた写絵は美しかった。僕の頭では本能寺の蘭丸と、浜田が浅草で買ったという写絵の蘭丸の顔とを区別することが出来なかった。その貴い写絵を得ることは、信長の忠臣森蘭丸と握手するのと同じ事のように思われた。
「おい。」と僕の名前を呼んだ者があったので振り向くとそれは浜田であった。――僕はその時、浜田の顔を見た瞬間に、――浅草に行って探し出すという
空頼を棄てずには居られなくなった。つまらぬ浜田への意地でそんな手間遠い真似をするより、少しも早く今ここで浜田へ頼んで蘭丸に会わしてもらおうと思った。自分で此れほど望んでいる蘭丸を浜田は左右する権利を持っているのかと思うと、今まで軽蔑して居た浜田が急に偉い者に思えて来た。珍しい写絵を持っていない連中があの様に浜田を騒ぎ立てるのは当然のことだと思った。
「浜田君!」と僕はその時に限って君を付けて、
「僕も君等の仲間へ入れて遊んで呉れないか。」
「でも先程嫌だと云ったじゃないか。家で叱られるのならお止しよ。」
「叱られたってかまやしないんだ。」
「――そんなら来給え。」とやっとのことで浜田から許しが出た。
三
その日折よく僕の家では母は使にでも出たものか留守だったので、僕は浜田等へ報酬の代りとして僕の室で遊ぼうと云った。浜田はすっかり機嫌がよくなって、未だ家にもあるからと云って沢山の写絵を持って来た。僕の室に来ると浜田は学校とは全然打って変って、自分の物を皆の前に残らず解放した。
皆思い思いの絵を選んで手に貼ったり足に貼ったりして――一つでもうまく写ったのがあると喜びの声を挙げて拍手した。(貼ったのが悉く写るというのではなく完全に出来るのは十の中二つか三つなのである。そこに面白味もあったのだ。)暫くたつと浜田を始め誰も飽きて了って、僕の本箱から絵本を引出して見始めたが、僕一人は飽きる処ではなかった。他の者が五枚も六枚も取り換えたのに僕だけは最初に腕に貼った蘭丸を、未だしっかりとおさえつけているのであった。そうして「どうか僕の腕にその儘に綺麗に写って呉れ。」と心に念じながら、力一杯たたいていた。涙が出そうになる程痛さが身にこたえてもかまわずに――。