笛吹かれれば踊れ、と云った気がする
サヌキマオ
「あ」
「あ」
「あー」
発声練習の声が視聴覚教室に響く。視聴覚教室は演劇部にとっての舞台であり稽古場、唯一無二のホームグラウンドだ。
演劇部の発声練習は、両手を口に当てて、普通の声であ音を発生する。長く、短く、あくまでも普通の音量で発声していると、だんだん喉が温まってくる。
「あっあっあっあっ」
「あー」
「あっ」
「どうも変だと思ったら、カブトムシの代わりにコガネムシを使ってるじゃないか!」
「勘弁して下さいよ、この暑い盛りにカブトムシを取りに行くなんて正気の沙汰じゃないや」
「コガネムシで替わりになると思う事自体がすでに正気の沙汰じゃないよ。どうしてこれで間に合うと思うんだ」
喉が温まったら、あとは自分に与えられたセリフをひたすら喋る。意識して、聞こえるように喋る。一字一句違えず、普通の声で。
普通の声で。
「玉ノ井の大手代がボルゾイを後添いにもらいまして」
「あがないにとむらいで息災を贖罪したそうじゃないか」
劇の名前は「毛玉」。「毛玉」と書いて「もふもふ」と読ませる。
「誰に向かって喋ってるんです?」
俵村曲が顔を見せた。学校指定のジャージに着替えている。その辺に座れ、と指示をする。客席に座る。私は目の前に立つ。
「なんで呼ばれたか、わかっておろうな?」
「まぁ」
周囲では着替え終わった部員が次々に発声練習を始める。人の声が壁になって、余所に声が漏れなくなる。
「実によくない」本当ならば資料を鼻先に突きつけてやりたいところだが、部員全員分の成績が載っているのでそうもいかない。
「平均点を下回っているのが十教科中七つ。主要七教科に至っては五分の四が平均以下、日本史と英語に至っては赤点。なんだ英語の七点って」
「あ、それって採点ミスがあったから九点だったんですよ!」
「どっちにせよ変わんねぇよ!」
おもわず声が大きくなる。周囲の声が止む。近くにいた安倍小星と目が合う。動転して発声を再開するので声が上ずっている。
「どっちにせよ最悪だよ。このままではお前を使えなくなる」
曲は微動だにせず、じっとこっちを見ている。
「役者をやっているせいで成績が悪いんじゃないか、って思われる。それが正しいかどうかじゃねぇよ? そう、思われちゃうんだ。演劇なんか特にそうじゃん。『好きでやっている』ことで本来やるべきことが疎かになる、疎かにしているというふうに思われるってのは、演劇部全体としても迷惑だ」
「野球部だって変わんないんすけどね」
「だから野球部はそういうところだけ無駄に厳しいだろ。平均点を下回る教科があるとスタメンで使ってもらえないとか、マラソン大会で順位の半分以下だと退部を勧告されるとか」
結果として、野球部内で代々伝わるテスト対策問題集や、過去問のデータバンクがあるというのはよく知られている。
「うちは弱小だし、そんなガッチガチの上下関係がないからアレだけど、だとしたらもっと各自がマジになってもらわないと困る」
「へい」
頷くと曲は腕を組んで考えこみ始めた。まぁもう稽古を始めるんだけど。
ここまでの話であれば「ちゃんと勉強しろよ」という、ありがちな類の話で済んだのだが。
「伊武さぁん、鯨出が来てるよ!」
作成中の小テストを放り出して駆けつけると、面接室ではまだ鯨出の担任の横光先生がこんこんと指導をしているところだった。肩まである栗色の髪に巨大なリボン、脇の椅子に置かれた真っ赤なランドセル。
鯨出幸、高校三年。元・演劇部副部長――と言っても、鯨出の代は元・部長の安藤千恵歩のふたりだけだったので仕方なく、である。
面談室の中の横光先生と目が合った。部屋の中に招かれる。あぁ、せんせぇ、と相変わらず舌っ足らずで高い声が聞こえる。
「こいつ、ちゃんと学校、来るそうです。約束しました」
「ああ、それは何よりだ」
「うん、事務所の社長にも『せっかくだから高校は出て、大学にいけ』って」
そうなのだ、こともあろうにこいつは(一応)演劇部での功績を認められて、AO入試での大学進学も決まっている。
「でも鯨出さ、それは前から、私だって横光先生だって云ってたでしょう」
「でもね泉ちゃん、もうあたしも何度もおんなじ事を云ってるんですけど、高校に来る意味も、大学に行く意味もわたしにはなくなっちゃったんですって。ちゃんとあちこちの現場に出てお給金も貰っています。今度は夜七時のバラエティにもでます。それってもう、完成形じゃない」
しかもむささび藝大。人によっては二浪も三浪もして行こうという大学の演劇学科だ。
「だがお前ね、今だから『天才子役風高校生』で通ってるけど、十年後、二十八になっても、まだおんなじウリでやってけると思うか?」
「ほらまたそういうことを云う」鯨出は頬を膨らませてみた。こうしてみると自分の娘がもっと幼かったころと同じ顔になる。天性は怖ろしい。
「先生、仰っていることが前と違うじゃないですかぁ。『笛吹かれれば踊れ』って。藝能の道で生きたければ、努力以上に、人の縁とチャンスにしがみつくことだ、って」
昨年秋、うちの演劇部が珍しく地区大会から都の大会に進出した。それだけなら「めでたい」だけで済むが、たまたま公演を観ていた藝能事務所の社長というのがいて、身長百三十四センチで、ニワトリの着ぐるみをだぶだぶに着て街並みのセットや自分より身長の高い町の人を殴打する鯨出幸に惚れ込んだ、翌日には社長直々に学校にスカウトに来た。
前述のとおり「笛吹かれれば踊れ」を旨としている当部としては誉れだ快挙だと一時は喜んだ。が、よほど好評を博しているらしく、鯨出はぱったりと学校に来なくなった。普段は春の新入生歓迎公演に合わせて新高三だけで演じる引退公演も、部長の安東と私の二人芝居となった。
「ねえ先生」
「なんだ莫迦」
「鯨出先輩みたいに芸能事務所にスカウトされるには、私には何が足りないのかな?」
稽古が終わって少々部員たちと駄弁り、いよいよ帰ろうという段になって曲が口を開いた。
「なに、お前も女優になりたいの?」
「女優になりたいというか」
「そうだな、お前は女優になりたいというか――芸能事務所の社長に見初められてスカウトされたい?」
「そうそれ」
「踊れる笛を吹かれたい?」
「そうそれ!」
「やっぱり莫迦だ、芸能界なめんな」
「そうかな?」
「別にスカウトされたから何かが楽になる、というわけではねえだろ。よく知らねえけど」
曲の他に、残っていた高校生数人ばかりの視線が集中するのを感じる。
「少なくとも、学校の勉強から逃げたいがために誰かがスカウトしてくれないかな、というのとはぜってえ違う。それは発想が宝くじと同じじゃん」
わははは、と誰かが笑ってくれたので、その日はそれでお開きになった。「もう遅いから、帰れ」と言うことが出来た。
うまく逃げおおせることが出来た。
結局鯨出幸の出席日数は残りの出席日数に足りなかった。随分と職員会議もあったが、校長の、
「でもさぁ、我が校から人気者が出るというのは、夢があって、学校のためにも、いいよね!」
という鶴の一声によって合法的に特例措置が取られた。
「おはよーございまーす!」
春休み、今日もジャージ姿の鯨出幸が学校の正門から走って登場し、そのまま中庭を突っ切って裏門で待っていた車に乗って去っていく。
「三月二十五日、鯨出、出席、と」
このまま無欠席で行けば、三十日には晴れて卒業となる。