≪表紙へ

3000字小説バトル

≪3000字小説バトル表紙へ

3000字小説バトルstage3
第9回バトル 作品

参加作品一覧

(2016年 4月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
緋川コナツ
3000
3
蛮人S/マーク・トウェイン(原作)
2018
4
岡本かの子
1698

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

笛吹かれれば踊れ、と云った気がする
サヌキマオ

「あ」
「あ」
「あー」
 発声練習の声が視聴覚教室に響く。視聴覚教室は演劇部にとっての舞台であり稽古場、唯一無二のホームグラウンドだ。
 演劇部の発声練習は、両手を口に当てて、普通の声であ音を発生する。長く、短く、あくまでも普通の音量で発声していると、だんだん喉が温まってくる。
「あっあっあっあっ」
「あー」
「あっ」
「どうも変だと思ったら、カブトムシの代わりにコガネムシを使ってるじゃないか!」
「勘弁して下さいよ、この暑い盛りにカブトムシを取りに行くなんて正気の沙汰じゃないや」
「コガネムシで替わりになると思う事自体がすでに正気の沙汰じゃないよ。どうしてこれで間に合うと思うんだ」
 喉が温まったら、あとは自分に与えられたセリフをひたすら喋る。意識して、聞こえるように喋る。一字一句違えず、普通の声で。
 普通の声で。
「玉ノ井の大手代がボルゾイを後添いにもらいまして」
「あがないにとむらいで息災を贖罪したそうじゃないか」
 劇の名前は「毛玉」。「毛玉」と書いて「もふもふ」と読ませる。
「誰に向かって喋ってるんです?」
 俵村曲が顔を見せた。学校指定のジャージに着替えている。その辺に座れ、と指示をする。客席に座る。私は目の前に立つ。
「なんで呼ばれたか、わかっておろうな?」
「まぁ」
 周囲では着替え終わった部員が次々に発声練習を始める。人の声が壁になって、余所に声が漏れなくなる。
「実によくない」本当ならば資料を鼻先に突きつけてやりたいところだが、部員全員分の成績が載っているのでそうもいかない。
「平均点を下回っているのが十教科中七つ。主要七教科に至っては五分の四が平均以下、日本史と英語に至っては赤点。なんだ英語の七点って」
「あ、それって採点ミスがあったから九点だったんですよ!」
「どっちにせよ変わんねぇよ!」
 おもわず声が大きくなる。周囲の声が止む。近くにいた安倍小星と目が合う。動転して発声を再開するので声が上ずっている。
「どっちにせよ最悪だよ。このままではお前を使えなくなる」
 曲は微動だにせず、じっとこっちを見ている。
「役者をやっているせいで成績が悪いんじゃないか、って思われる。それが正しいかどうかじゃねぇよ? そう、思われちゃうんだ。演劇なんか特にそうじゃん。『好きでやっている』ことで本来やるべきことが疎かになる、疎かにしているというふうに思われるってのは、演劇部全体としても迷惑だ」
「野球部だって変わんないんすけどね」
「だから野球部はそういうところだけ無駄に厳しいだろ。平均点を下回る教科があるとスタメンで使ってもらえないとか、マラソン大会で順位の半分以下だと退部を勧告されるとか」
 結果として、野球部内で代々伝わるテスト対策問題集や、過去問のデータバンクがあるというのはよく知られている。
「うちは弱小だし、そんなガッチガチの上下関係がないからアレだけど、だとしたらもっと各自がマジになってもらわないと困る」
「へい」
 頷くと曲は腕を組んで考えこみ始めた。まぁもう稽古を始めるんだけど。

 ここまでの話であれば「ちゃんと勉強しろよ」という、ありがちな類の話で済んだのだが。
「伊武さぁん、鯨出が来てるよ!」
 作成中の小テストを放り出して駆けつけると、面接室ではまだ鯨出の担任の横光先生がこんこんと指導をしているところだった。肩まである栗色の髪に巨大なリボン、脇の椅子に置かれた真っ赤なランドセル。
 鯨出幸、高校三年。元・演劇部副部長――と言っても、鯨出の代は元・部長の安藤千恵歩のふたりだけだったので仕方なく、である。
 面談室の中の横光先生と目が合った。部屋の中に招かれる。あぁ、せんせぇ、と相変わらず舌っ足らずで高い声が聞こえる。
「こいつ、ちゃんと学校、来るそうです。約束しました」
「ああ、それは何よりだ」
「うん、事務所の社長にも『せっかくだから高校は出て、大学にいけ』って」
 そうなのだ、こともあろうにこいつは(一応)演劇部での功績を認められて、AO入試での大学進学も決まっている。
「でも鯨出さ、それは前から、私だって横光先生だって云ってたでしょう」
「でもね泉ちゃん、もうあたしも何度もおんなじ事を云ってるんですけど、高校に来る意味も、大学に行く意味もわたしにはなくなっちゃったんですって。ちゃんとあちこちの現場に出てお給金も貰っています。今度は夜七時のバラエティにもでます。それってもう、完成形じゃない」
 しかもむささび藝大。人によっては二浪も三浪もして行こうという大学の演劇学科だ。
「だがお前ね、今だから『天才子役風高校生』で通ってるけど、十年後、二十八になっても、まだおんなじウリでやってけると思うか?」
「ほらまたそういうことを云う」鯨出は頬を膨らませてみた。こうしてみると自分の娘がもっと幼かったころと同じ顔になる。天性は怖ろしい。
「先生、仰っていることが前と違うじゃないですかぁ。『笛吹かれれば踊れ』って。藝能の道で生きたければ、努力以上に、人の縁とチャンスにしがみつくことだ、って」

 昨年秋、うちの演劇部が珍しく地区大会から都の大会に進出した。それだけなら「めでたい」だけで済むが、たまたま公演を観ていた藝能事務所の社長というのがいて、身長百三十四センチで、ニワトリの着ぐるみをだぶだぶに着て街並みのセットや自分より身長の高い町の人を殴打する鯨出幸に惚れ込んだ、翌日には社長直々に学校にスカウトに来た。
 前述のとおり「笛吹かれれば踊れ」を旨としている当部としては誉れだ快挙だと一時は喜んだ。が、よほど好評を博しているらしく、鯨出はぱったりと学校に来なくなった。普段は春の新入生歓迎公演に合わせて新高三だけで演じる引退公演も、部長の安東と私の二人芝居となった。
「ねえ先生」
「なんだ莫迦」
「鯨出先輩みたいに芸能事務所にスカウトされるには、私には何が足りないのかな?」
 稽古が終わって少々部員たちと駄弁り、いよいよ帰ろうという段になって曲が口を開いた。
「なに、お前も女優になりたいの?」
「女優になりたいというか」
「そうだな、お前は女優になりたいというか――芸能事務所の社長に見初められてスカウトされたい?」
「そうそれ」
「踊れる笛を吹かれたい?」
「そうそれ!」
「やっぱり莫迦だ、芸能界なめんな」
「そうかな?」
「別にスカウトされたから何かが楽になる、というわけではねえだろ。よく知らねえけど」
 曲の他に、残っていた高校生数人ばかりの視線が集中するのを感じる。
「少なくとも、学校の勉強から逃げたいがために誰かがスカウトしてくれないかな、というのとはぜってえ違う。それは発想が宝くじと同じじゃん」
 わははは、と誰かが笑ってくれたので、その日はそれでお開きになった。「もう遅いから、帰れ」と言うことが出来た。
 うまく逃げおおせることが出来た。

 結局鯨出幸の出席日数は残りの出席日数に足りなかった。随分と職員会議もあったが、校長の、
「でもさぁ、我が校から人気者が出るというのは、夢があって、学校のためにも、いいよね!」
 という鶴の一声によって合法的に特例措置が取られた。
「おはよーございまーす!」
 春休み、今日もジャージ姿の鯨出幸が学校の正門から走って登場し、そのまま中庭を突っ切って裏門で待っていた車に乗って去っていく。
「三月二十五日、鯨出、出席、と」
 このまま無欠席で行けば、三十日には晴れて卒業となる。
笛吹かれれば踊れ、と云った気がする サヌキマオ

思いの儘
緋川コナツ

「あなたの他に好きな人ができたの」

 私がそのことを伝えると、小鳥遊さんは怒るでもなく悲しむでもなく、ただひとこと「そうか」とぽつりと呟いた。
 新しい恋人に乗り換えることについてはもちろん自分なりに思い悩み、冷却期間をおいた上で何度も話し合った。その結果、ふたりで逢うのは今日で最後にしよう、という結論に至ったのだった。
 温かいミルクティを口元に運びながら窓の外に目をやると、高校生くらいの若いカップルが腕を組みながら跳ぶように歩いているのが見えた。きっとその背中には、見えない羽根がついているはずだ。
 他人の目を気にして、わざわざ遠く離れた郊外の喫茶店で待ち合わせをするのも、これが最後。そう思うと、胸の奥がちりちりと焼けるように痛む。今日の待ち合わせも、家族に嘘を重ねて時間を捻出しているのだろう。
 ふいに来客を知らせる柔らかな鈴の音が店内に響いた。すかさず店員が「いらっしゃいませ」と声を掛ける。私は顔を上げて、音がした店の入り口に視線を移した。
 入ってきたのは小柄な男性だった。ベージュのチノパンに見覚えのあるモスグリーンのジャケットをはおり、手には大きな紙袋を持っている。それはまぎれもなく、別れを決めた彼だった。
「日奈子ちゃん、おまたせ。待った?」
「ううん」
 私は小さく首を横に振った。
「大丈夫。私もさっき来たとこ」
「そうか良かった。あ、僕はブレンドコーヒーね。ホットで」
 小鳥遊さんはあわただしく店員にコーヒーを注文すると、脱いだジャケットを椅子の背にかけた。少し会わない間に、髪に白いものが増えたような気がする。そのせいか久しぶりに目にする小鳥遊さんの姿は、とても疲れているように見えた。
 小鳥遊さんは私が以前働いていた職場の上司で、奥さんと娘さんがひとりいる。その娘さんは私達が一緒にいた三年と二ヶ月の間に、幼稚園を卒園して小学校の二年生になっていた。
 前に一度だけ、運動会のときの写真を見せてもらったことがある。手足の長い利発そうなお嬢さんで、鉢巻き姿にピースサインをした笑顔がどことなく小鳥遊さんに似ていた。
 私達の間で小さなケンカは日常茶飯事だったし、正直、別れようと思ったことも一度や二度ではない。妻子ある人との恋愛に伴う後ろめたさをいつも感じながら、流れに抗うこともできずにズルズルと関係を続けてしまった。
 つきあっていたことを「後悔していない」と言えば嘘になる。でもそれは、ふがいない自分に対する腹立たしさでもある。そして私から別れを言い出さなければ、この不毛な関係を終わらせることはできないことも、頭ではよくわかっていた。
「あ、そうそう、これ小鳥遊さんに。先月行ったハワイ旅行のおみやげ」
 私はトートバッグの中から、なかなか渡せないままになっていたビニール袋を取り出して無造作にテーブルの上に置いた。
「ああ、そういえばハワイに行くって言ってたね。ところで誰と行ってきたんだっけ?」
 どきん、とした。
「リサちゃんって、短大時代の友達。ほら、前に写真見せたことあったじゃない。リサちゃんハワイが大好きで何度も行ったことがあるから、今回いろいろと案内してもらったの」
 嘘つき、と耳の後ろから私を責める声がする。
「でも、あんまり日に焼けてないね」
「イマドキの女子は白肌命!だもん。絶対に焼きたくないからビーチでも日焼け止め塗りまくって、ずっとパラソルの下にいたんだ」
「それじゃあハワイに行く意味がないんじゃないの?」
「いいの! ハワイの楽しみは海だけじゃないし。買い物でしょ、グルメでしょ……」
 リサちゃんとの二人旅なんて大嘘だった。
 ハワイの旅行中ずっと一緒だったのは、小鳥遊さんの知らない男の人だ。彼は取引先の営業マンで、新年会で急接近し口説かれた。歳はバブル世代の小鳥遊さんより、ずっとずっと若い。
 親しくなってすぐに、ハワイ旅行に誘われた。そんな若い彼の強引な態度さえも、私にとっては新鮮に感じられた。
 見えない影に遠慮しながら罪悪感を飼い慣らすのに、私はほとほと疲れ果てていた。恋人は親や友達に紹介したいし、人目を気にせずに腕を組んで街を歩きたい。週末はできるだけ一緒にいたい。そしていつかは結婚して、あたたかな家庭を築きたい。
 公にできない妻子ある人との恋愛には、もう戻りたくなかった。
「ハワイのおみやげ、あけてみてもいいかな」
「もちろん」
 おみやげは南国チックな安っぽいキーホルダーと、お決まりのチョコレートだった。万が一、奥さんに見つかっても怪しまれない無難なチョイスだ。事務の女の子からのおみやげだと、いくらでも言い逃れができる。
 それなのに小鳥遊さんは滑稽なくらい大袈裟に喜んで、まるで宝物をしまうみたいに大切そうに自分の脇に置いた。
「おまたせしました、ホットのブレンドコーヒーです」
「ああ、どうも」
 香ばしい芳醇な香りがカップから立ち昇る。
 コーヒーが運ばれてくると、もうそれ以上、話すことは何もなかった。無理矢理はしゃいだ後の少し気まずい沈黙が私達を包む。店内に流れるなだらかなピアノの旋律が、やけにはっきりと耳に響いた。
「実は僕からも、日奈子ちゃんにプレゼントがあるんだ」
「プレゼント? 私に?」
「そう。良かったら、もらってくれるかな」
 小鳥遊さんは沈黙を振り払うように大きな声で私に言った。そして足元に置いていた大きな紙袋を持って立ち上がり、私の隣の空いている椅子の上に慎重に置いた。
「何が入っているの」
「さあ、何だろうね? 見てごらん」
 身を乗り出して手提げ袋の中をそっと覗き込んでみる。そこには小さい可憐な花をいくつもつけた、梅の木の盆栽が入っていた。
「え……これって、もしかして梅?」
「そう、梅の木。正解。これね『思いの儘』って品種の梅なんだ。ひとつの枝に淡紅色、紅色、絞り、白と、さまざまな花をまさに思いのままに咲かせるんだよ」
 私は紙袋から梅の木を鉢ごと取り出して、自分の足の上に置いた。かすかな甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「へぇ、知らなかった。思いの儘、か……そんな名前の梅があるんだ」
 あらためて花びらを観察してみると、確かに花弁の色はそれぞれ違っていた。一本の木から派生した花なのに、各自、勝手気ままに思い思いの花を咲かせている。
 初めて目にする不思議な梅の花に、私はすっかり見入ってしまった。
「これが僕から日奈子ちゃんへの最後のプレゼントだよ。今まで本当に、どうもありがとう」
 そう言って小鳥遊さんは、ぺこりと頭を下げた。
 私も、と言おうとして、言葉は喉の奥で新たな疑問にかき消された。
 もしかしたら小鳥遊さんは気づいていたのかもしれない。私が内緒で新しい彼と旅行に行っていたことを。そして人目を気にせずコソコソと隠れることなく、自由な時間を存分に楽しんでいたことを。
 
 これからは思いの儘に生きろ

 と、小鳥遊さんにぽんと背中を押された気がした。
「どうして……どうして、この梅の花を私に?」
 やっとの思いで切り出した問いかけに、小鳥遊さんは何も答えない。でも、それで良かった。自分から決めた別離なのに、これ以上、何か言われたら私はきっと泣いてしまう。
 どんよりとした雲の切れ間から差し込むあたたかな日射しが、八重咲きの花弁を照らしている。思いの儘に咲き誇る色とりどりの花びらを見つめたまま、私と小鳥遊さんは、互いに微動だにしなかった。
思いの儘 緋川コナツ

人生の五つの贈りもの【勘訳版】
蛮人S/マーク・トウェイン(原作)

 第一章
 輝かしい人生の朝には、善なる妖精がバスケットを提げて訪れる。そして若者にこう告げるのだ。
「あなたに贈りものをあげましょう。この中から一つを選んで、後は残しなさい。慎重に、賢く選びなさい――って、人の話を聴いてますか? 人生で本当に大切なのは、この中の一つだけだよ」
 贈りものは五つあった。名声、愛、財産、享楽、死。そして若者は「何を悩むって言うんだ」と勇んで享楽を選ぶのである。

 彼は人生の大きな世界へと飛び出し、その若さを満たすべき享楽を追い求める。だがそれはいずれも束の間のこと、期待外れの、無意味で虚しいことばかり、そして目の前から消え去っては彼の心を荒らすのだった。結局、最後に彼は言う。「自分はもう、何年も無駄に費やしてしまった。もし、もう一度でも選べるなら、もっと賢く選ぶだろうに……」


 第二章
 妖精が現れて言う。
「贈りものが四つ残っています。もう一度お選びなさいな。忘れないで、時の流れは速いもの、大切なものは一つだけ」
 男は長く考えた末に、愛を選んだ。妖精の目に密かに浮かぶ、憐憫の涙には気付かない。

 多くの、多くの年月が過ぎ、男は孤独の家で、棺の傍らに座っていた。悲しみに深く沈みこみながら、彼は言う。
「一人、また一人、みんな私を残して去って行った。最愛の、私の最後の人も……今やここに横たわる。孤独に続く孤独に、すっかり私は押し流されてしまった! 愛……いまや心底、忌々しい……まるで悪どい、いかさま商人! 私は刹那の幸せな時間の代償として、こんなに多くの悲しみの日々を支払わされたのだ……」


 第三章
「もう一度お選びなさいな」
 妖精の声がした。
「年月があなたに、聡明さを教えたことでしょう――いや本当に。さて、贈りものが三つ残っています。忘れないで、価値があるのは一つだけ。慎重にお選びなさい」
 長く考えて、男は名声を選んだ。妖精は嘆息して帰って行った。

 再び時は流れ去り、男は黄昏の薄暗がりの部屋の中に、ひとり座って考えこんでいた。その背後には、再び現れた妖精が立っていた。
(私の名は世間に知れ渡り、人々の賞賛の声は満ち、すべてはうまく運んでいたよ……しばらく、しばらくの間は! やがて訪れる嫉妬と憎悪、誹謗中傷、大炎上……嘲笑まで来りゃ末期的……最期には生温かい同情心、これぞ名誉の告別式、ああ憫然の、我が名声の苦しみの、メシウマの泥にまみれし栄光の、没落ザマァの憐れみの――!」
「……頼むから、私の思考を後ろで読み上げないでくれないか」


 第四章
「もう一度、お選びなさいな。贈りものは二つ残っています。絶望してはいけませんわ。一番尊く、ありがたいもの、それは最初からここにあったし、今もある」
「おお財産、これこそパワー!」男は言う。「私の目は節穴だったのだ! さあ、ついに今こそ我が人生はその価値を持つのだ。金を使おう、金を使って、使いまくって、目も眩むほど輝こう。私を馬鹿にする奴、軽蔑する奴、みんな我が足元に這いつくばって泥を舐めるがよい。無様な奴らの羨望で、飢えたハートを満たすのだ。すべての贅沢、すべての享楽、すべての魂の愉悦、すべての肉体の満足を、Buy・Buy・Buy で倍返しだ! さあ私を敬え、尊べ、讃えよ、崇めよ! 人生をぴっかぴかに飾りたてるものなら何だって、私のテーブルに並べさせてやる。私はこれまで多くの時間を費やしては馬鹿な選択をしてきたが、それはもう良かろう、私が無知だったのだ。これからは私にふさわしい最高のものをいただくばかりだ……」

 短い三年が過ぎ去った後、小汚い屋根裏部屋に震えて座る一人の男があった。痩せて蒼ざめ、その目は窪み、ぼろ着を纏っていた。そして乾いたパンの耳を齧っては、もごもごと唇を動かすのだった。
(人生の贈りものだなんて……みんな嘘、偽りだった。享楽、愛、名声、財産……つまりは夢の貸し付け、人生の姑息な粉飾じゃあないか……すぐにメッキは剥がれて現実が残る。痛み、苦しみ、恥、貧窮……なるほど、妖精の言葉は正しかった。彼女の商売ものは、一つを除いて屑だった。今では分かる、どれもこれも、いかに粗末な安物、下劣な屑であったことか。最後の一つこそが……代えがたい大切なもの、愛しく、心地よく、優しいもの。この身を責め苛む痛みを、この心と感情を食らう恥辱と悲しみを、もう夢見ることもない永遠の眠りの淵に、沈め清めてくれるのだ。
 さあ妖精よ、持って来てくれ、もう沢山だ、私はもう、休みたい……)


 第五章
 妖精は来た。贈りものの四つを再び持って。そこに「死」は無かった。
「死は、どうしたのだ……」
「死はね、ある母親の小さな可愛い子供にあげてきたよ。何も知らない幼子だったけど、私を信じたから、選んで欲しいって、私に頼んだから――そしてあなたは、そうしなかったから」
「おお……哀れな私に、何か、私に残されたものは?」
「あなたには似つかわしかろう――老人の醜い虚勢ばかりよ」
人生の五つの贈りもの【勘訳版】 蛮人S/マーク・トウェイン(原作)

今月のゲスト:岡本かの子

 その人にまた逢うまでは、とても重苦しくて気骨の折れる人、もう滅多には逢うまいと思います。そう思えばさばさばして別の事もなく普通の月日に戻り、毎日三時のお茶うけも待遠しいくらい待兼ねて頂きます。人間の寿命に相応しい、嫁入り、子育て、老先の段取りなぞ地道に考えてもそれを別に年寄り染みた老け込みようとは自分でも覚えません。縫針の針孔(めど)に糸はたやすく通ります。畳ざわりが素足の裏にさらさらと気持よく触れます。黄菊などを買って来て花器に活けます。
 その人にまた逢うときには、何だか予感というようなものがございます。ふと、ただこれだけの月日、ただこれだけの自分ではというような不満が覚えられて莫迦々々しい気持になりかけます。けれども思えばその気持もまた莫迦らしく、こうして互い違いに胸に浮ぶことを打ち消すさまは、ちょうど闇の夜空のネオンでしょうか。見るうちに「赤の小粒」と出たり、見るうちに「仁丹」と出たり、せわしないことです。するうち屹度その人に逢う機会が出て来るのでございます。
 出がけのときは、やれやれ、また重苦しく気骨の折れることと、うんざり致します。逢って見る眼には思いの外、あっさりして白いものの感じの人でございます。ただそれに濡れ濡れした淡い青味の感じが梨の花片のように色をさしてるのが私にはきっと邪魔になるのでございましょう。
 その人は体格のよい身体をしゃんと立てて椅子に腰をかけ、右膝を折り曲げています、いつも何だか判らない楽器をその上に乗せて、奏でています。普通には殆んど聞えません。私は母から届けるよう頼まれた仕立ものを差出します。その人は目礼して受取って傍の机の上に置きます。そして手で指図して私をちょうどその人の真向うの椅子に掛けさせて、また楽器を奏で続けます。その人は何も言いません。細眼にした間から穏かな瞳をしずかに私の胸の辺に投げて楽器を奏でます。私の不思議な苦しみはこれから起ります。
 その人の中には確かに自分も融け込まねばならぬ川が流れている。それをだんだん迫って感じ出すのです。けれどもその人は模造の革で慥えて、その表面にヱナメルを塗り、指で弾くとぱかぱかと味気ない音のする皮膚でもって急に鎧われ出した気がするのです。私の魂はどこか入口はないかとその人の身体のまわりを探し歩くようです。苦しく切ない稲妻がもぬけの私の身体の中を駆け廻り、ところどころ皮膚を徹して無理な放電をするから痛い粟粒が立ちます。戸惑った私の魂はときどきその人の唇とか額とかに向っても打ち当って行くようです。アーク燈に弾ね返される夜の蝉のように私の魂は滑り落ちてはにじむような声で鳴くようです。
 私は苦しみに堪え兼ねて必死と両手を組み合せ、わけの判らない哀願の言葉を口の中で咏きます。けれどもその人は相変らず身体をしゃんと立て、細い眼の間から穏かな瞳を私の胸に投げたまま殆ど音の聞えぬ楽器を奏でています。私の魂は最後に、その人の胸元に向って牙を立てます。噛み破ります。
 ふと、気がつくと、私は首尾よくその人の中に飛び込めて、川に融け合ったようです。川はもう見えません。私自身が川になったのでしょうか。何だか私には逞しい力が漲ぎり、野のどこへでも好き放題に流れて行けそうです。明るくて強い匂いが衝き上げるような野です。もう私の考えには嫁入り苦労も老先きもないのです。
 いま男の誰でもが私に触ったら、ぢりぢりと焼け失せて灰になりましょう。そのことを誰でも男たちに知らせたいです。だのにその人は、もとの儘、しずかに楽器を奏でています。ただ今度の私は、大仏の中に入った見物人のように、その人を内側から眺めるだけです。楽器の音が初めて高く聞えます。それは水の瀬々らぎのような楽しい音です。私はそこからまた再びもとの自分に戻るのには、また一苦労です。海山の寂しさを越えねばなりません。
 しかし私にとってこういう奇蹟的な存在の人が、世間では私の母の廉い仕立もののお得意さまであって、現在、製菓会社の下級社員で、毎日ビスケツトを市中に届けて歩き、月給金○○円の方であるとは、どうにも合点がゆきませんです。