俵村曲が二度来ちゃう
サヌキマオ
俵村曲はまた今日も着替えの入ったリュックを背負ってきた。昼間に「じゃあ、今日行くから」とメールがあって、夕方にはマンションの入口に立っている。父親は台湾に出張中だし、母親は「いいじゃない、あなたの数少ない友達なんだし」と一向に私の意を介さず曲を家に入れる。手土産に買ってくるのは曲の家のある駅前のパン屋のハニーラスクだ。母はこのラスクに目がない。父も曲の話を聞きたがる。着々と墨家家自体が曲に買収され籠絡されつつある。
「で、どうしよう、引酉さん」
曲はジーンズにタートルネックの出で立ちで豪快にあぐらをかき、母の出してきたタルトを食べている。タルトといってもカステラをに餡で巻いた、柚子の風味の愛媛の郷土料理である。
「どうしようったって、前も言ったけどさ、それって我々にはどうしようもないことじゃない?」
曲が口いっぱいにタルトを頬張るのでしばらく間が空く。放っておくと父の実家から送られてきたタルトはこいつに食いつくされてしまうかもしれない。
母を止めなければ。
「どうしようもないかもしれないけど、話を聞くくらいのことは出来たかもしれないじゃない」
「だから、いくらおんなじ演劇部だって言っても、よく知らない中学三年生のことなんか、わからないもん」
「そりゃあ解らないだろうさ。でも、えーと、なんだっけ」
話が今ひとつ噛み合っていないのに気づいたのか、曲は両手をにわかに開いてこちらに見せる。何かを思い出す素振りを見せて、
「えー」
と、口を開いた。
「えー、ふたりで頭をつき合わせて、首をあっちぇ遣ったりこっちェ遣ったりするのが『相談』てんだ」
「なによ、それ」
「今日、ヒメワカがやってたんだ」姫若というのはひとつ下の演劇部員だ。姫若亜弓、役者に向いているとは思わないが、とても器用なので藝人になるべきだと思っている。「なんか落語。そういう落語をする落語家がいて、その真似らしい。姫若ちゃんがやると、もっとリズミカルで小気味がいいんだけどな」
「で、それが、今の『話を聞く』に対する答えってわけ?」
「そうそうそうそう、だからさ、相手のことなんか知らなくていいんだよ。ただたんに話をしてくうちに、喋ってる内にそれぞれで納得したりするんだよ」
曲は喋り終わるとマグカップの紅茶に口をつけ、左手の人差指と親指で次のタルトをつまむと最短距離で口に運んだ。
「私を助けると思ってさ、引酉さんのことを助けてやれないかな」
私は返事する代わりに、タルトの最後のひとつを口に押し込んだ。
中高六年間の演劇部。傍から見るとみんな同じような付き合いに見えるのかもしれないが、内部では一学年ごとにそこそこの壁がある。いわんや高校二年と中学三年をや。最近ではネット繋がりでだけ交流のある人もいるらしいが、私には出来ない芸当だ。そこまで他人に興味を持つ必要性を感じていない。
引酉優子とは、それこそ舞台上だけでの付き合いがある。私は車に撥ねられたネコのとり憑いたOLで、彼女は戦時中の動物園で毒入りじゃがいもをうっかり噛んで死んじゃったゾウの霊のとり憑いた中学生の役だ。おっとりとした彼女を踏み台に舞台天井まで飛び上がるアクションがある。
その引酉優子のことを手土産にやってきたのが俵村曲だ。こいつが後輩でも先輩でもなくて本当に良かったと思わせる、数少ない面倒な女の一人だ。
「引酉さんがね、あやしいお店に入っていくんだよ」
昼休み、弁当を食べていると教室に曲がホイホイ入ってきて、私の机の上に顎を乗せて開口一番、こう切り出した。
「怪しいって?」
「最寄りの駅が一緒なんだけどね、ほら、駅前って色々な飲み屋さんが一緒くたになってるようなビル、あるじゃん。あれに入ってった」
「そこがお家なんじゃなくて?」
「あんな飲み屋ばっかりの建物に人が住むところなんてあるはずが無いよう。現物を見てもらえば一発だけど」
「だったらご実家の稼業がその飲み屋さんなんじゃない?」
「え、そんなこと、あるの?」
「あるに決まってるでしょ。引酉さんのお母さんだかお父さんだかがそこのお店で働いてて、娘が帰ってきて、もしくは仕事が終わった後、一緒に帰る」
「制服で?」
「うん」
「深夜に?」
「う」
随分旗色が悪くなってきた。曲は私の顔色をちらとみたが、表情を変えずに続ける。
「な、考えれば考えるほど腑に落ちないんだよ」
「そっか」
「で、なんだと思う?」
始業のチャイムが鳴る。ま、考えておいてよ、と曲が立ち上がる。
弁当は半分も食べられなかった。
話はまた現在に戻る。
「だからさ、なんか事情があるんだよ」
「ちょっと待ってあんたね、引酉さんがたまたま夜の店に入っていっただけで、彼女が現在進行形で危険な目にあっているに違いない、とでもいうわけ?」
「いうわけ」
曲は大きくうなずきやがった。
「莫迦ね、余計なお世話よ」
「そうかな」
「そうだよ。別に確たる証拠もないのに」
「じゃあ、確たる証拠があったら、引酉さんを助けるのに青子は力を貸してくれるんだ?」
頷いたのかもしれない。次の瞬間、曲は急に立ち上がると伸びをした。
「よし、じゃあ帰る」
「えっ」
壁に掛けてあったコートをさっさと着こむと、曲は戸を開けて出ていこうとする。
「今日、泊まるんじゃなかったの?」
「まぁ、そのつもりだったかもしれないけど、そうとは言ってないでしょ」
両手にスーパーの袋を持った母とすれ違いながら、曲はふい、と外に出て行ってしまった。今日は曲ちゃん、泊まっていかないんだ、と残念そうな母である。
それで、事実はどうだったのかというと、よくわからなかった。
真実はどうだったのかというと、なんでもなかったのだ。真実なんて、自分が真だと思ったものをそれと認めてしまえばいいだけの話だ。
「いやあ、手助けには及ばなかった」
そう云って週明け、始業前に曲はやってきた。手に持っていたペラ紙を顔に押し付けてくるのを奪い取る。
「電話帳?」
「あそこのビルに入ってるお店を調べてみたんだ。そしたらわかった」
コピー紙にはピンクと黄色のマーカーで幾つも線が引かれていて、どうしてもひとつだけ、二重丸が付いているところに目が行く。
「ボイストレーニング教室?」
「もともとカラオケスナックだったところを、居抜きっていうの? 元のお店のまんまで使ってるんだって兄ちゃんが言ってた」
「じゃあ、何でもなかったじゃない」
「うん、なんでもなかった」
「用がすんだなら帰れ」
「うん」曲は私が差し戻したコピー紙の扱いに一瞬戸惑ったようだったが、おとなしく手元で四つに折った。
「じゃあ、また放課後ね」
事実として判ったのは、あの建物にボイストレーニング教室があるということだけだ。が、俵村曲にとってはそれで満足だったらしく、ここ最近ではそこそこ陽気な感じで教室を出て行った。やれやれである。あいつを見ていると、人間、実際に起こっていることよりも、いかに自分が安心できるかのほうが大事だというのがよくわかる。
「――だからってわざわざ、月曜の夜に来なくてもいいと思うんだけど?」
「いやぁ、月に一回は青子のうちのごはんを食べないと寝付きが悪いんだよ」
「どうせまたすぐ来るわよ」という母の予言がここまで真に当たると思わなかった。週末に買ってあったすき焼き用の牛肉は無事冷凍庫から救出される。
「いやぁ、肉はいいねぇ」
そういってこの女はニコニコと卵を溶くのである。