Genet★たん危機一髪
サヌキマオ
(嗚呼てぇへんだてぇへんだ、っと)
「大変だ」という言葉はそのまま素直に口に出すのはおろか、自分の部屋に独りきりで思ってしまうのも非常に気恥ずかしいものだった。一方でスマートフォンを握りしめた左手は恥も外聞もなく汗でよく濡れた。生配信中だった。目の前のラップトップにはパジャマ姿にヘッドセットに衛生マスクをした自分が映っていて、脇のコメント欄には視聴者からのメッセージがリアルタイムで流れこむ。
[ジュネたん日本萬歳高校でしょ? わかっちゃった]
ここで「ハイそうです」と云えないところがネット配信道である。身バレ厳禁、個人情報の分かりそうなものはみんな排除。そんなのは基本の大基本。伊達に観る側で六年、美少女女子高生生放送主Genet★として三年のキャリアがあるわけじゃない。
[しかも演劇部っしょ? 女装をしてる演劇部の顧問なんてググっても萬歳高校しか出てこなかったし]
こういう時は、えーと、こういう時は、過去の炎上案件ではどうしてましたっけ。
レスポンスが遅ければ怪しまれる。速いに越したことはないが、あんまりムキになっているのを悟られてはならぬ。
[私、そんなこと言っってた?]
と、とりあえず返信する。ソースを出してもらおう。とりあえず時間を稼ぐ。打ち間違えが痛い。
稼げた時間はほんの四十秒だった。
[え、昨日の放送で「うちの顧問が結構おしゃれな服を着ててね、ああいうの、男の人でもセンスがあればちゃんと着こなせるんだな」って云ってたよ]
[録音うp]
コメント欄に[録音うp]が並んだところで私はブラウザを閉じた。頭中から汗が吹き出ていた。鼓動が暴走して、呼吸に押し上げられた体中の神経がきしみをあげる。
「まーたジャン子の『てぇへんだ』が始まりやがった」
パソコンを切ってからシャワーを浴びたけれどまだ動悸が収まらない。夜中の二時だけど緊急事態なので電話をかける。夜中の二時なのにあっちゃんこと姫若亜弓は「まだドラムを叩いてたから」という理由で通話に出てくれた。
「ドラムやってんの?」
「ストレス解消的な」
「いやむしろ、この時間にドラムの出来る家なの?」
「父親がね、どうしても音楽をやりたいっていうんで完全防音の音楽室を地下に作ったんだわ」
中で人殺しがあっても誰も気づかないだろうね、と抑揚のない声で亜弓は続けた。こいつは演劇部なのに、徹底的に喜怒哀楽から会話に至るまで表情というものがない女だ。父親と母親が『ガラスの仮面』がきっかけで結婚に至ったという経歴があり、苗字が姫若ということもあって「亜弓」と名づけられ、親のたっての希望で演劇部に入部してきた逸材である。いや、こと演劇以外においては逸材なんですってば。
「で――ああ、そうかそうか、とうとうやりましたか久東雀さん。いや、美少女生主ジュネたん大炎上ですかビューリホー」
はっはっは。
電話の向こうの乾いた笑い声を聞きながら、それでも私はやや落ち着きを取り戻していた。
「まー、やっちまったものはしょうがないすからね。しかしまた、ジャン子はどーしてまた伊武先生の話なんか」
「いや、それなのよそれ。もう我々って、女装したおっさんが女子ばかりの演劇部の顧問を務めている、という状況に慣れてるじゃない」
「あー」
「で、昨日たまたま萩窪の駅で見かけた、女装したバーコードハゲのおっさんの話をしちゃったわけよ、しれっと」
「しちゃいましたか、しれっと」
「ひょっ、と出ちゃった」
「出ちゃいましたか、ひょっと」
「どうしたらいいいと思う?」
「どうしたら、って」
ノイズが入ったのは亜弓の欠伸だろうか。
「失礼。どうしたら、って、それはジャン子のほうがよく知ってるんじゃないの」
「そりゃあそうなんだけど」
火に油を注いで燃え盛る現場はいくらでも思い出せるのだが、うまく騒動を鎮火させたパターンというのは急には思い出せない。
「とにかく、急いで取り繕わねばならないのは確かなんよ」
「急ぐのね? じゃあアレです。いいのがある。女テクニックを使おう」
女テクニック。そんなの亜弓自身は使ったことがあるのだろうか、と半信半疑ながら最後の藁だ。左手で亜弓の声を聞きながら、私は右手をキーボードの上で躍らせる。
[ご想像にお任せします(○´ω`○)]
(まさかね)
ハエ叩きを斜め三十度に振り下ろす。ハエたたきは目標を謝らず、目の前のアブ女の頬を直撃する。
「痛っ!」
(やばっ!)
「あっ、ごめん、ごめんね」
アブ女――後輩の中学生の頬にハエたたきの網の跡がくっきりと着く。信じられない、という顔で見られる。
「おい、ここまできて舞台の上で素で謝ってんじゃねえぞ! 気を抜くと目に入ったりして危ないんだから!」
そう云いはするものの、客席から観ていた顧問が妙に嬉しそうなのがかえって申し訳ない。気持ちのいいくらいに会心の一撃だった。
(単に心あらずなだけ、なのにね)
舞台から捌けて、アブ女の引酉さんにもう一度謝って、無表情に床に正座するカマキリ女の隣に座る。
「結局伊武先生には云ってないんだ?」
「云えるわけがない」
本番当日を迎えてしまった。昼の十二時からリハーサルで一回通して、二時から本公演。
「『インターネットの生放送で身バレしちゃいましたからファンの人が押し寄せるかもしれません』って?」
顔中緑色に塗った亜弓はニヤリともしなかった。
「字面にしてみるとものすごいよね、なんというか」
「自意識過剰、というか」
「有名人気取り、というか」
「別に有名人気取りをしたいわけじゃないよ? 放送を見てくれる人がコメントをくれて、それに答えて、寂しくないだけ」
寂しくないだけ。
「チヤホヤされたいだけ?」
「うん、まぁ。みんな良くしてくれるから」
檻の向こうから餌を投げてくれるから、楽しいだけ。
だから、檻の柵を乗り越えてこられると、それで約束が壊れてしまう。こちらは画面の向こうで、面白可愛い様子をお見せするだけの存在だ。
(だから、まさかね。誰も来ないよね?)
舞台の上ではリハーサルのクライマックスが近づいている。カーテンコールのためにまた舞台に出る。よいしょ、と立ち上がる。
伊武先生がドンキのコスプレコーナーで買ってきたという、魔法少女の衣装の皺を手で伸ばす。
こういう衣装は、あんまり練習に本番にと、何度も何度も洗濯して着るようなものではなかったのだ。
大事なことは、本番直前になってわかる。
[魔法蝿少女乙]
[なんか久々に高校とか入っちゃったけど、若いエキスみたいなのを貰った気がする]
「あんたら本当に観に来ちゃったのか!」
本番が終わって、晩。土曜日だ。夜の十一時から定期的にやっている生配信。私自身は平静を装えていた(つもりだ)が、コメント欄は勝手に暴走を続けている。
[ハエ女よりも、ハチ女のほうが可愛かった]
[どんな話だったか三行で頼む]
[組織を裏切ったハエ女が
ハエ叩きで
殺し尽くす]
[どんな高校演劇だ!]
「こっちが聞きたいわ!」
思わず突っ込むとコメント欄が沸き返る。
これだから、やめられない。
[魔法少女ジュネたん早よ]
[魔法蝿少女コスジュネたん早よ]
[ハチ女の子、紹介してよ]
ちょっと、本当に来た人は手を上げて、と訊くと十数人の[ノ]サインがあがる。冗談を割り引いてもそこそこの人数だ。
[ハチ女に踏まれたい]と、さっきからうるさいハチ女ファンをキックしてコメント欄から追い出し、あとは何を喋ったかよく覚えていない。