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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第13回バトル 作品

参加作品一覧

(2016年 8月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
坂口安吾
2700

結果発表

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Genet★たん危機一髪
サヌキマオ

(嗚呼てぇへんだてぇへんだ、っと)
 「大変だ」という言葉はそのまま素直に口に出すのはおろか、自分の部屋に独りきりで思ってしまうのも非常に気恥ずかしいものだった。一方でスマートフォンを握りしめた左手は恥も外聞もなく汗でよく濡れた。生配信中だった。目の前のラップトップにはパジャマ姿にヘッドセットに衛生マスクをした自分が映っていて、脇のコメント欄には視聴者からのメッセージがリアルタイムで流れこむ。
[ジュネたん日本萬歳高校でしょ? わかっちゃった]
 ここで「ハイそうです」と云えないところがネット配信道である。身バレ厳禁、個人情報の分かりそうなものはみんな排除。そんなのは基本の大基本。伊達に観る側で六年、美少女女子高生生放送主Genet★として三年のキャリアがあるわけじゃない。
[しかも演劇部っしょ? 女装をしてる演劇部の顧問なんてググっても萬歳高校しか出てこなかったし]
 こういう時は、えーと、こういう時は、過去の炎上案件ではどうしてましたっけ。
 レスポンスが遅ければ怪しまれる。速いに越したことはないが、あんまりムキになっているのを悟られてはならぬ。
[私、そんなこと言っってた?]
 と、とりあえず返信する。ソースを出してもらおう。とりあえず時間を稼ぐ。打ち間違えが痛い。
 稼げた時間はほんの四十秒だった。
[え、昨日の放送で「うちの顧問が結構おしゃれな服を着ててね、ああいうの、男の人でもセンスがあればちゃんと着こなせるんだな」って云ってたよ]
[録音うp]
 コメント欄に[録音うp]が並んだところで私はブラウザを閉じた。頭中から汗が吹き出ていた。鼓動が暴走して、呼吸に押し上げられた体中の神経がきしみをあげる。

「まーたジャン子の『てぇへんだ』が始まりやがった」
 パソコンを切ってからシャワーを浴びたけれどまだ動悸が収まらない。夜中の二時だけど緊急事態なので電話をかける。夜中の二時なのにあっちゃんこと姫若亜弓は「まだドラムを叩いてたから」という理由で通話に出てくれた。
「ドラムやってんの?」
「ストレス解消的な」
「いやむしろ、この時間にドラムの出来る家なの?」
「父親がね、どうしても音楽をやりたいっていうんで完全防音の音楽室を地下に作ったんだわ」
 中で人殺しがあっても誰も気づかないだろうね、と抑揚のない声で亜弓は続けた。こいつは演劇部なのに、徹底的に喜怒哀楽から会話に至るまで表情というものがない女だ。父親と母親が『ガラスの仮面』がきっかけで結婚に至ったという経歴があり、苗字が姫若ということもあって「亜弓」と名づけられ、親のたっての希望で演劇部に入部してきた逸材である。いや、こと演劇以外においては逸材なんですってば。
「で――ああ、そうかそうか、とうとうやりましたか久東雀さん。いや、美少女生主ジュネたん大炎上ですかビューリホー」
 はっはっは。
 電話の向こうの乾いた笑い声を聞きながら、それでも私はやや落ち着きを取り戻していた。
「まー、やっちまったものはしょうがないすからね。しかしまた、ジャン子はどーしてまた伊武先生の話なんか」
「いや、それなのよそれ。もう我々って、女装したおっさんが女子ばかりの演劇部の顧問を務めている、という状況に慣れてるじゃない」
「あー」
「で、昨日たまたま萩窪の駅で見かけた、女装したバーコードハゲのおっさんの話をしちゃったわけよ、しれっと」
「しちゃいましたか、しれっと」
「ひょっ、と出ちゃった」
「出ちゃいましたか、ひょっと」
「どうしたらいいいと思う?」
「どうしたら、って」
 ノイズが入ったのは亜弓の欠伸だろうか。
「失礼。どうしたら、って、それはジャン子のほうがよく知ってるんじゃないの」
「そりゃあそうなんだけど」
 火に油を注いで燃え盛る現場はいくらでも思い出せるのだが、うまく騒動を鎮火させたパターンというのは急には思い出せない。
「とにかく、急いで取り繕わねばならないのは確かなんよ」
「急ぐのね? じゃあアレです。いいのがある。女テクニックを使おう」
 女テクニック。そんなの亜弓自身は使ったことがあるのだろうか、と半信半疑ながら最後の藁だ。左手で亜弓の声を聞きながら、私は右手をキーボードの上で躍らせる。
[ご想像にお任せします(○´ω`○)]

(まさかね)
 ハエ叩きを斜め三十度に振り下ろす。ハエたたきは目標を謝らず、目の前のアブ女の頬を直撃する。
「痛っ!」
(やばっ!)
「あっ、ごめん、ごめんね」
 アブ女――後輩の中学生の頬にハエたたきの網の跡がくっきりと着く。信じられない、という顔で見られる。
「おい、ここまできて舞台の上で素で謝ってんじゃねえぞ! 気を抜くと目に入ったりして危ないんだから!」
 そう云いはするものの、客席から観ていた顧問が妙に嬉しそうなのがかえって申し訳ない。気持ちのいいくらいに会心の一撃だった。
(単に心あらずなだけ、なのにね)
 舞台から捌けて、アブ女の引酉さんにもう一度謝って、無表情に床に正座するカマキリ女の隣に座る。
「結局伊武先生には云ってないんだ?」
「云えるわけがない」
 本番当日を迎えてしまった。昼の十二時からリハーサルで一回通して、二時から本公演。
「『インターネットの生放送で身バレしちゃいましたからファンの人が押し寄せるかもしれません』って?」
 顔中緑色に塗った亜弓はニヤリともしなかった。
「字面にしてみるとものすごいよね、なんというか」
「自意識過剰、というか」
「有名人気取り、というか」
「別に有名人気取りをしたいわけじゃないよ? 放送を見てくれる人がコメントをくれて、それに答えて、寂しくないだけ」
 寂しくないだけ。
「チヤホヤされたいだけ?」
「うん、まぁ。みんな良くしてくれるから」
 檻の向こうから餌を投げてくれるから、楽しいだけ。
 だから、檻の柵を乗り越えてこられると、それで約束が壊れてしまう。こちらは画面の向こうで、面白可愛い様子をお見せするだけの存在だ。
(だから、まさかね。誰も来ないよね?)
 舞台の上ではリハーサルのクライマックスが近づいている。カーテンコールのためにまた舞台に出る。よいしょ、と立ち上がる。
 伊武先生がドンキのコスプレコーナーで買ってきたという、魔法少女の衣装の皺を手で伸ばす。
 こういう衣装は、あんまり練習に本番にと、何度も何度も洗濯して着るようなものではなかったのだ。
 大事なことは、本番直前になってわかる。

[魔法蝿少女乙]
[なんか久々に高校とか入っちゃったけど、若いエキスみたいなのを貰った気がする]
「あんたら本当に観に来ちゃったのか!」
 本番が終わって、晩。土曜日だ。夜の十一時から定期的にやっている生配信。私自身は平静を装えていた(つもりだ)が、コメント欄は勝手に暴走を続けている。
[ハエ女よりも、ハチ女のほうが可愛かった]
[どんな話だったか三行で頼む]
[組織を裏切ったハエ女が
ハエ叩きで
殺し尽くす]
[どんな高校演劇だ!]
「こっちが聞きたいわ!」
 思わず突っ込むとコメント欄が沸き返る。
 これだから、やめられない。
[魔法少女ジュネたん早よ]
[魔法蝿少女コスジュネたん早よ]
[ハチ女の子、紹介してよ]
 ちょっと、本当に来た人は手を上げて、と訊くと十数人の[ノ]サインがあがる。冗談を割り引いてもそこそこの人数だ。
 [ハチ女に踏まれたい]と、さっきからうるさいハチ女ファンをキックしてコメント欄から追い出し、あとは何を喋ったかよく覚えていない。
Genet★たん危機一髪 サヌキマオ

マキナ・セクスアリス
蛮人S

「CF-1775……」
 少年は彼女に告げる。その声は微かに震えた。
「さあ、後ろを向いて」
 背中を開くのだ。

 扇風機の風が、向かいの家から微かに漏れるラジオの歌声を運ぶ。
 一九八〇年の夏の夜は、そこを生きた僕にとって、後の二十一世紀よりよほど単純な、しかし異様な荒い熱を放っていた。燃える銑鉄を呑み炎を噴く鋳型のように人々は熱を孕み、その形取っていく姿は様々ながら、正にそれらは来るべき次世紀へと続く、拙くも力強い胎動に相違なかった――と、そんな麗句を無批判に言い放ってしまえるのは、僕も今では年寄りとなったからだ。その分は差し引いて欲しい。さらに当時の僕が纏った熱は、当時としてもなお若干は異様に見えたかも知れぬ。だが、それが僕だった。
 そして僕の言うまま、僕の目前でその身を回し、うつ伏せになって横たわった彼女もまた、癖のある個性の持ち主だった。
(ただ、それを知るのは僕だけだった)
 CF-1775。
 家族も僕の友達も、彼女の事は真面目だが面白味はないお勉強向けの機械だと、そんな認識にあった。みな何も解っていなかった。もっとも、それゆえ彼女は僕と暮らす事を許されたのだ。僕の両親からすれば、彼女にはそれなりの対価を払った上で僕の英語学習の友達として招いたのだし、僕自身そういう相手だと思っていた。優等生の服の下に隠れた、彼女の機能の本当の意味が解るまで。
 彼女は――CF-1775は、見た目は地味で平凡な――付き合い始めて、二年目の。
 僕の、初めてのラジカセでした。

 これから身に起きる事を知りながら、彼女は饒舌なままだった。
『いつでも、いいよ』
 彼女はそう言って、
『でも落ち着いてね。私を傷つけたくないなら』と付け足した。
(ネジを緩める時は押し7、回し3の力で……)
 聞き齧りの知識を反芻しながら、彼女の樹脂製のボディへ齧りつくようにプラスドライバーを突き立てる。ネジの頭に十字の歯をぴったり噛み込ませ、強めに押す、そしてそのまま軸がブレぬよう、静かに回転の力を加えた。ネジは動かない。ドライバーを押し続けながら、捻る力を強めていく。だがネジは動こうとしなかった。彼女はくすぐったそうな声で囁いた。
『慎重にトルクを強めなさいな』
 強める――どこまで? ネジを潰す事への怖れが、躊躇いとなっていた。
『タッピンよ。よろしくって?』
 潰さぬよう、ネジも、ボディも。息を詰めたまま、力を込める。何かが曲がっていくような錯覚。
(どこまで……)
 ぱきり、と手元に軽い響きが返り、ネジは僅かに旋回した。息を吐く。軸を傾けぬよう、力を抜いて緩やかに回し、ようやく外れた一本を、汗ばんだ指で摘んでプラケースの中に落とした。ネジは乾いた音を立て、ケースの中央でくるりと転がって止まる。これでやっと一本……。不安がよぎった時、彼女がそっと呟いた。
『今ならまだ、止められる……』
 いや、もう止められない。
『……わかったわ』

 思えば、なるほど彼女は教育的で、僕は多くの事を学んだのだった。ただ、そこに語学の要素は無かった。それは最初から決定づけられていた。
 LL機能は「教材テープの声を聞きながら自分の声を録音し、聴き比べたりできる語学の機能」だと取説にある。僕がそう言うと、彼女は笑ってすべて否定したのだ。
『そんな退屈のためにそんな面倒をする人はいないわ。君はそんな暇があったら多重録音でマッドテープでも作ればいいと思う。それからね、今後はLLじゃなくマルチトラック録音とお呼びなさいな』
 マッドとは一種の音のコラージュであり、アニメや特撮番組の音楽や台詞の声を繋いで編集し、内輪受けのギャグソングや物語を作って悦に入るという、後にオタクと呼ばれる根暗い者達の好む嗜みである。
「テープスピードコントロールは発音の聞き取りのため無段階に再生速度を変えられる機能」『ではありません』
 彼女はそこも否定した。『変な声のエフェクトと高速巻き戻しのためよ。低速側はまだしも高速再生のヒアリングは勉強に役立たないわ……面白いけど。あと私にはミキシング機能も備わっているのだけど、語学とは関係ないし、本当に、悪い設計よね……』
 本当に悪い、と僕は思った。勉強友達と見えた彼女は、実は悪い大人なのだった。しかも、少年の夢や人格さえも機械によって育み得るという事実を知ってしまった技術者が集まる、悪い会社の思惑によって遣わされた存在だった。
『さあ、遊びましょうか』
 その後の一年ほどで、彼女はすっかり僕の玩具となっていた。或いは僕が、玩具の主人へと調教されていったのだ。彼女に物足りない点があろうとは、思ってもいなかった。

 十五分後、彼女のネジはひとつを残してすっかり外されていた。その頃には彼女も無言になっていた。最後のネジにドライバーを当てた時、彼女の微かな抵抗を感じた。
 ぱきり、と最後のネジが緩む。
(超えなければいけない)
 事もあろうか、彼女に足りないのはラジオの素養だった。彼女は近隣の局を聴くには十分だったが、深夜の闇に紛れて、夢見がちな僕が遠方の地の放送に想いを馳せるためには、能力が不足していた。
 ある日、僕は一辺一メートルの枠に巻いた導線コイルにエアバリコンを繋ぎ、ループアンテナを自作した。雑誌の記事そのままだった。アンテナは触れる事なく彼女を誘導し、魔法のように彼女を振るわせて感度を高めていた。これは僕同様、彼女も驚きをみせた。だがこの先へ進むなら、アンテナを直に接続する必要があるのだ。
「君にアンテナ端子をつけたい」
 思い切ってそう言うと、彼女は戸惑い気味に『よく分からない』とだけ答えた。ラジオとしての彼女は純朴だった。それも大人の思惑だろうか。
(二人で超えなければ)
 僕だって何も分からない。けれど創造主も万能じゃない。

 ボディの背面を静かに開き、内部が露わになる。基板とメカニズムには埃もなく、意外なほど綺麗だった。半田と油脂の入り混じった匂いが漂う。
 ここで彼女の電源を入れた。彼女は低い音をたてる。選曲ダイヤルを回し、ノイズ混じりの小さな音を拾い上げると、そのままアンテナ回路の位置を当てずっぽうに探り、基板の裏面で鈍く光るハンダ付けの隆起へと、次々とアンテナの導線で触れて行った。無茶をするのね、と掠れた声がする。無茶をするほかなかった。線が触れるたび、彼女は何らか反応する時もあったし、何もない時もあった。構わず順に探っていく。やがて彼女はノイズの中心で強い反応を示した。
 いったん電源を切り、静寂が戻る。扇風機の音の中、彼女の傍らで半田ごてが静かに熱せられていた。
『戻れないんだね』と彼女が言った。

 裏蓋を閉め、元通りにネジを締めた彼女は、前と変わらぬ饒舌ぶりだったので、僕は内心で安堵していた。その側面には以前にはない穴が開き、新しい端子が備わっていた。
 さて、いま率直に言うと、この端子が僕等をどんな新しい世界に導いたか、よく憶えていない。その後、彼女にはテープの再生速度が少し速まるという障害が現れた。それが僕の行為の影響なのか、それも分からない。ただ僕はテープスピードのレバーを若干左に傾ける事で、多少不自由な彼女との日々をその後も楽しんだし、彼女も幸せだった、のだと思う。彼女は今はもういない。率直、その別れの場面さえも、悪い僕は憶えていない。それも彼女なりの思惑だったかもしれない。
マキナ・セクスアリス 蛮人S

傲慢な眼
今月のゲスト:坂口安吾

(一)
 ある辺鄙な県庁所在地へ、極めて都会的な精神的若さを持った県知事が赴任してきた。万事が派手であったので、町の人々を吃驚(びっくり)させたが、間もなく夏休みが来て、東京の学校へ置き残した美しい一人娘がこの町へ来ると、人々は初めて県知事の偉さを納得した。
 一夕、町に祭礼があって、令嬢は夜宮の賑いを見物に出掛けた。祭の灯に薄ら赤く照らされた雑踏の中で、自分に注がれた多くの眼が令嬢を満足させたが、最後に我慢の出来ない傲岸な眼を発見した。その眼は憧れや羨望やあるいはそれらを裏打した下手な冷笑を装うものでもなく、一途な傲岸さで焼きつくように彼女の顔を睨んでいた。令嬢は突嗟にその眼を睨み返したが、すると、彼女の激しい意気組を嘲けるように、傲岸な眼は無造作に反らされていた。その後、同じ眼に数回出会った。眼は思いがけない街の一角から、彼女の横顔を射すくめるように睨むのであった。
 ある日のこと、海から帰るさに、令嬢は道でない砂丘へ登った。一面に松とポプラの繁茂した林であったが、その木暗い片隅に三脚を据えで、画布に向っている傲岸な眼を発見した。傲岸な眼は六尺に近い大男であったのに、破れた小倉のズボンや、汚い学帽によって、まだ中学生の若さであることが分った。
 その日、令嬢は二人の女中に付添われていた。令嬢は一寸女中達のことも考えてみたが、振向いたりせずに、まっすぐ傲岸な眼の正面へ進んできて立ち止まった。
「貴方はなぜあたしを憎々しげに睨むのですか?……」
 令嬢ははっきりした声で言った。
 少年は幽かに吃驚した色を表わしたが、うつろな眼を画布に向けて、返答をせずに、顔を赭(あか)らめた。そして次第に俯向いてしまった。
「あたしが生息気だと仰有るのですか。それとも、県知事の娘は憎らしいのですか」
 しかし少年は大きな身体を不器用に丸めて、俯向いたまま、むっと口を噤んでいた。暫くしてから、困ったように、筆を玩びはじめた。
「では――」令嬢は少年の頭へきっぱりした言葉を残した。「二度と睨んだりしませんね!」
 そして鋭く振向いて戻りはじめた。しかし令嬢が振向く途中に、少年は突嗟に顔を挙げた。そして、傲岸な眼に光を湛えて、刺し抜くように彼女を睨んだ。もはや令嬢は振向いていたので、どうすることも出来なかった。
「あの子はきっとお嬢様を思っているのでございましょう」と女中は言った。それは愉快な言葉であったが、彼女を安心させなかった。自分はなぜ、あの時再び振向いて、叱責してやらなかったかと悔まれた。
 翌日の同じ時刻に、令嬢は一人で砂丘の林へ行った。傲岸な眼は果してその場所で画布に向っていたが、令嬢を認めると、明らかに狼狽を表して、やり場を失った視線を画布に落した。令嬢は画布越しに少年のもぢゃもぢゃした毛髪を視凝めていたが、次第に和やかな落付が湧いてきた。
「貴方はこの町の中学生ですか?」と令嬢は訊いた。
「そうです」と少年はぶっきら棒に答えた。
「貴方は画家に成るのですか?」
 少年はむっつりとして頷いた。そして慌てたように画筆を玩りはじめた。令嬢は胸の閊(つか)えがとれたような楽な気がした。そこで松の根本へ腰を下した。振仰ぐと葉越しに濃厚な夏空が輝いており、砂丘一面に蝉の鳴き澱む物憂い唸りが聞えた。少年はもぢもぢしていたが、やがて写生帳を取出して、俯向きがちに令嬢を描きはじめた。


(二)
 令嬢は暫く素知らない風をしていたが、やがて笑いながら、あたしを描いていますの? と訊くと、少年はむっとした面持でしかし小声に、動かないで下さいと呟いた。
 暫くしてから、少年には構わずに、令嬢は急に生々と立ち上って、それをお見せなさい、と命じた。少年は矢張りむっつりしたまま、二三筆手入れをしてのち、黙って写生帳を差出した。同じ姿が巧に数枚描かれていた。令嬢は考えながら一枚一枚眺めていたが、
「そうね、じゃ、あたしモデルになってあげるわ。明日のこの時間に新らしいカンヷスを用意して、ここでお待ちなさい」
 少年は驚いて令嬢を見上げたが、彼女は少年の返答を待たずに振向いて、木蔭へ走り去った。
 それからの一週間程というもの、二人は同じ砂丘で、毎日画布を差し挟んで対坐していたが、殆ど言葉を交さなかった。令嬢が微笑しながら話しかける度に少年は怒った顔をして、そうです、とか、いいえ、とか、ただそれだけの返答をした。そして、焼けつくような眼を、令嬢と画布へ交互に走らせていた。
 一日急用があって、令嬢は少年に断りなしに十日程の旅に出た。帰ると、生憎それからの数日は連日の雨であった。そして慌ただしく夏が終ろうとしていた。
 雨の霽(は)れた昼、令嬢はきらきらするポプラの杜へ登っていった。いつもの場所へ来てみると、少年は、そこへ据えつけられた彫刻のように、黙然と画布に向って動かずにいた。
「明日、あたしは東京へ帰るの……」
「もう、一人でも仕上げることが出来ます」
 少年はぶっきら棒に答えて、令嬢が姿勢につくことを促すように、もう画筆を執り上げていた。雨の間に、去り行く夏の慌ただしい凋落が、砂丘一面にも、そして蒼空にも現れていて、蝉の音が侘びしげに澱んでいた。画は令嬢の予期しなかった美しさに完成に近づいていた。別れる時、令嬢は再び言った。
「もう、お別れね。明日は東京へ帰るの……」
「もう一人でも仕上げることが出来ます」
 少年は怒ったような、きっぱりした声で、同じことを呟いた。そして、朴訥な手つきで汚い帽子を脱ぐと、大きい身体を丸めて、別れのために不器用な敬礼をした。
 翌日令嬢は旅立った。親しい人々の賑やかな見送りを受けて停車場を出ると、線路沿いの炎天の下に奇妙な人影を見出して吃驚した。絵具箱を抱えた大きな中学生が電柱に凭れて、むっとした顔をしながら、あの祭礼の日に見出した傲岸な眼を車の中へ射込んでいた。そして、車がすれ違ってしまうと、物憂げに振向いて、大きな肩をゆさぶりながら歩いて行った。
 次の冬休みに、令嬢は父の任地へ帰らなかった。無論、少年にこだわることは莫迦莫迦しく思われたし、事実少年に再会するとすれば、不気味千万なものに考えられた。
 しかし令嬢は、ある喋り疲れた黄昏に、一人の友達へ囁いた。
「あたし、別れた恋人があるの。六尺もある大男だけど、まだ中学生で、絵の天才よ……」
 天才という言葉を発音した時、令嬢は言いたいことを全部言い尽したような、思いがけない満足を覚えた。なぜなら、この思いがけない言葉によって、夏の日、砂丘の杜を洩れてきたみずみずしい蒼空を、静かな感傷の中へ玲瓏と思い泛べることが出来たから。