劉に知らしむべからず
蛮人S
清朝は乾隆帝の時代。
蒙陰県の劉某なる人物が、所用のあって従弟の家に泊まる事となりました。二人で色々話し込むうち、この家の書斎の辺りに現れるという化物に話が及びます。どこに潜んでいるのか判らず、暗闇で出遭えば人を嘲けて突き倒すのだと。その身の堅き事、鉄石の如しと。
この劉という人物、狩猟を好み、そのために鉄砲を常に持ち歩く程でありました。話を聞くと笑ってこう言います。
「結構。さような化物は、この鉄砲で私が討ち取ってやりましょう。お任せあれ」
劉の従弟と家人らは、化物退治などとんでもない、もし家中で貴方の身に恐ろしい事があっては面目立たぬと揃ってこれを止めたのですが、劉が「任せよと申すに分からぬか」などと次第に語気を荒らげると、断る事も叶いません。何しろ劉は狩猟を好み、常に鉄砲を持ち歩いているような人物でありましたので。
さてその夜。わざわざ件の書斎に泊まる事にした劉が、家人に案内され鉄砲を背負ってやって来ます。書斎は東西、三つの間に分かれており、劉は東の部屋に入りました。
部屋の床に座り込みますと、さっそく劉は持ち込んだ五丁の鳥銃を並べ、弾薬を装填します。さらに荷物から取り出した予備の薬莢、これは弾と火薬を一発ごと紙に包んで筒状にしたものですが、これを何十発と周囲に並べます。鉄砲は左右に二丁ずつ、手前に一丁を置きました。この手前の鉄砲、他と比べて異様に銃身が長く、口径も通常の三倍はあろう見るからに物騒な代物、劉自身が特別の細工を加えた火縄式です。専用の大きな弾を込めます。何か、ごとん、という音がしましたが大丈夫でしょうか。残りの四丁は火打ち石を使った、いわゆる燧発の鉄砲ですが、これまた劉による珍奇な工夫が凝らされているとの噂です。
さあ、いよいよ夜も更け、十日の月も山の際へと傾く時分、灯りの前で独り坐って待っています劉、いま、果たせるかな、西の間に、何者かの影の現われて立つのが見えました。劉は灯りを静かに背後へ回すと、西の間に向かって目を凝らします。
「……何だあ、あいつは」
劉も思わず声に洩らす、化物の、立ち上がったその姿、何か可笑しい。五体は人の如きですが、何だか顔が可笑しい。その珍妙さ、素っ頓狂な眼と垂れた眉の間が、二寸ばかりも離れていますが、鼻と口とはほぼ一つで、曲がって妙な向きに尖らせております。不思議とか怪奇と申すより、どうにも滑稽きわまりない、そんな顔としか申せません。
されど、何であれ化物であります。油断はなりません、劉。思い直したように鉄砲を取り、坐ったまま西の間に向けて構えております。しかし化物、室内へ退きました、そして扉の間から、あのふざけた顔を僅かに見せて、劉の方を窺うようです。
劉が鉄砲を下ろすと顔を出し、鉄砲を向けると再び隠れる化物。再び下ろすと、また顔を出す。ああ、劉の表情が次第に険しくなってきました。劉、苛立っているようです。ここで化物、再び顔を見せますが、ぺろりと舌を出しています。頭の上で手を振り始めました。これはいけません、化物。侮辱とも受け取られかねない行為、とうとう劉が怒りました。劉が怒った。遂に一発を射撃しました。大きな炸音、しかし弾は扉に当たって跳ねた。化物は扉の裏に隠れましたが、今度は足を見せ、劉に向かって蹴りつけるような仕草を見せています。重ね重ねの挑発行為に、劉が叫んでいます。
「おのれ、許さん」
劉の顔が赤い。劉、怒りの形相も露わに、次の鉄砲を構えます。そのまま二射目を放ちました。ああ、しかし、これも外れました。何という事でしょう、劉、先制攻撃も連続して外してしまいました。どうやら化物の挑発作戦に乗せられた形であります。無駄撃ちをさせて、弾を込めた手元の鉄砲、これを撃ち尽くした隙に襲いかかろうという目論見でしょう。
さあ劉、三射目を構えて、撃ちました。撃った、扉の縁が砕けて割れる、劉、三射目も外してしまった。化物、隠れたまま一歩も動かず。射撃王の劉、今夜は不調のようです。ああ、ここで母屋から、いま劉の従弟が出て来ました。ここまでと判断されたのでしょうか。強張った表情で家人らを安全そうな方へ移しています、そしてこの騒ぎに駆けつけた近隣の方々ですか、従弟が何か伝えている模様です、さて何と言ってますか。
「――戦争じゃねえ――いや、マジ大丈夫だから来ないで」
どうやら続行です。近隣の方々が書斎に近づかないよう押し止めています。勝負は劉に託されました。しかしすでに追い込まれている劉、第四射、構えます。勝負をかけるか劉。劉、撃ちました――外した! 劉、痛恨のミスショット、これで手元の鉄砲すべてを外してしまった! 真っ赤な顔、坐ったまま足をじたばた動かす劉、さすがに焦っている。残されたのはあの大きな鉄砲ですが、弾は入っているものの火縄の準備ができていません。絶体絶命の劉、危うし劉!
ああ、劉が鉄砲を構えた! しかしそれは一射目に用いた鉄砲です。弾は入ってないぞ、どうしたのか劉、いま大きな叫び声を上げ、撃った! なんと撃ちました劉、まさかまさかの五発目の射撃、信じられない事が起きました。劉、いつの間に弾を装填したのか。いや、そんな素振りはありません。ここで劉、さらに隣の鉄砲を構えます。撃った、六射目! これは奇蹟でしょうか。いや違います、あれは――足だ、足です、劉、足で薬莢を掴んでいる。鉄砲で化物を狙っている間に、足の指で器用に薬莢を掴んでいる。いま、七射目、そして同時に足で包みを破り、そのまま次の鉄砲へ装填しています。何という特技、恐るべし劉、人間技とも思えないぞ、しかもだんだん早くなる、いま劉の四本の手足、四丁の銃が、複雑に同期して射撃する! まるで生きた機械のようだ! さらに、銃火の隙を埋めるように、劉の口から飛び出すのは、化物への罵詈雑言、これは厳しい攻撃だ! 化物を心身ともに追い詰める、化物ピンチ、化物大誤算、扉の裏に隠れたままです、その扉も壁も、銃弾の当たるたび削られ砕かれていく、化物、隠れる場所がなくなってきたぞ、チャンスだ劉、劉がんばれ、劉がんばれ、ついに残すは太い柱と周囲の壁、さあここで切り札、あの巨大なる鉄砲の投入です。伝家の宝刀、三十七ミリ榴弾砲が、満を持しての登場であります。いま燭台から、火縄へと徐ろに火を移し、引き金に指をかけました劉、慎重に、化物の方へと狙いをつける、劉の勝利か! 吹き飛ぶのか化物! 緊張の一瞬、さあカウントダウン、五、四、三、二、一、発射………
化物の倒れる時、家根瓦の落ちて砕けるような響きを発したといいます。近寄ってみますと、それは割れた壷の破片でした。この家にある古い壷で、それが妙な顔をしていたのは、子供がいたずら書きをしたのです。落書きとは言え、人の顔を具えたために怪を成したのだ、と劉は悟りました。
翌朝、劉は揚々として従弟の家を発ちました。
「久しき物、憑り所を得て妖を成すと云うが――これにて一件落着、また何かあれば呼ぶが良い」
劉の姿が見えなくなると、従弟は力なく膝をつき、そのまま暫く動く事はありませんでした。
さてその日から、家中の怪事もすっかりと鳴りを顰め、と思いきや、劉の従弟は相変わらず書斎のあった辺りで何者かに突っ転がされていたのですが、劉にだけは知られてはならぬと固く家人に命じたとの事です。