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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第17回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 1月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
邦枝完二
1999

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赤葡萄
サヌキマオ

 新宿駅から特急に乗る。立川を越えたあたりで雪になる。
 出張に出ていた店長から電話があって「今すぐに店を閉めて舞もこっちに来い」という。こっち、とは店長が出張している神吉田町のことで、私の母親の故郷である。ついでに従兄である乙坂眞、店長の故郷である。要するに田舎なのであるが、店で商う薬草の仕入れはこの村で育ったものであることが多い。
 どこだかのトンネルを過ぎると、細かい雪が横殴りに列車の窓を覆う。東京の街中を歩く格好で出てきてしまったことを内心悔いている。
「まーたそんな格好できて。寒くないのかい」
 駅前までバンで出迎えてくれた丁字原さんにそう言われても「じゃあ、そのへんのユヌクロでパーカー買ってきます」と迂闊にいえない田舎である。駅ビルのブティックモモカはあったか下着の品揃えばかりいい。「若いってのはすごいねぇ。オバチャン見てるだけで風邪引いちゃう」と己が身を抱えて震えてみせる丁字原さんを運転席に押し込んだ。自分だって店長と同い年なら二十六だろうが。車は枯れた田んぼを両脇にして神吉田へと向かう。
「あ、コルナゴ潰れちゃったんだ」
「もう随分になるよ、二年くらいかな」
 県道の十字路にぽつんと喫茶コルナゴが建っていたが、見るからに人気が失せている。
「そんなに帰ってなかったっけ? こっち」
「えーと多分、中二のときに帰ったから、二年くらいぶりかな」
「あ、じゃあ舞ちゃんが東京に行った直後だ、コルナゴが潰れたの。あそこのオバちゃん」
「死んだの?」
「死んでない。おかしくなった」
「おかしく?」
「息子さんが自動車の事故で亡くなってね、それからずっとふさぎ込んじゃって」
 頭上の高速道路もいつごろから建設中だったろうか。この仏壇屋の看板は見覚えがある。
「ずいぶん食べたよね、あそこのマロンパフェ」
「ああ、舞ちゃんはマロンパフェ派だったのか。あたしはいちごパフェ派だった」
「そうそう、で、東京のパフェって中にコーンフレーク詰まってるよね」
「インターチェンジのところに出来たファミレス、あれ、全国チェーンだっけ?」
「ああ、あそこはそうだよ。東京でもよくCM見る。たぶんコーンフレーク派だ」
「丙崎さんに遭ったら、あとで寄ろうか」
 車は県道から山道に入る。傾斜のきつい坂を登るとまもなく丙崎ぶどう園の看板が見えてくる。

 久々に見た祖父の顔はいくぶんか穏やかに見えた。重たい雪の積もったぶどう畑である。記憶の中では色黒でがっしりしていた祖父はすっかり白茶けて痩せこけて、背景に雪があると所々見えなくなる。穏やかに見えた、というのは元々が穏やかどころではなかったからで、祖父の無くなる直前、小学校の前半までは家族や近所中の人に誰かれ構わず怒鳴り散らしていた覚えがある。
「じいちゃん、ただいま。舞です。覚えてる?」
 祖父はふわーっと寄って私の顔をじっと見据える。人間というよりもドライアイスの煙に顔を撫でられているみたいな感じ。
「あー、ほー、ほぉ-、見違えたなぁ。君かぁ。祐亜の娘かぁ」
「そうだよ、舞だよ、元気にしてた?」
「舞ちゃん、おじいちゃんの声、聞こえてる?」
 私の背後には店長と丁字原さん、それに近所の辛島さんがいて、心配そうにこちらの様子を伺っている。
「大丈夫だよ、おじいちゃんも落ち着いてて。ちゃんと会話もできる」
「舞ちゃんよ、そこの辛島に云ってくれんか。これだけ積もっとるのにぶどうの雪下ろしもせんで、管理料泥棒が、って」
「――こんなこと云ってますけど、おじいちゃんが」
「そりゃあないよ丙崎さん、このぶどう園はあんたが亡くなったあとに私の家で買い取ったんじゃあないか」
「こんなこと云ってますけど、辛島さんが」
「あ? おれは知らん」
「――知らんそうです」
「弱っちゃったなぁ」
「――弱っちゃったそうです」
「だって考えてもみろ、おっ死んでから以降、おれぁこのぶどう畑で過ごしているのだ。おれの畑だろうが」
「――だそうです」
「とにかく」
 場所は変われどいつもの苛立った調子で店長が声をあげる。
「舞、じいさんに薬の調合を聞いてくれ」
「ほいほい」
 返り見するとじいちゃんの姿が、ない。
「あ」
「どうした?」
「見えなくなりました」
「何処かにいるだろう」
「雪に紛れてるとか」
「あ、いました」
 じいちゃんが店長の首に絡んで頭の上にのしかかっている。
「こいつはどこの馬の骨だ」
「眞ちゃんだよ、乙坂の家の」
「ぬぁにぃ、乙坂の次男坊かこいつは」
「だから、私だって眞ちゃんに呼ばれたから東京から来たんじゃないさ」
「ああ、そうか。なにをこの、お、お前、舞とデキとるな!?」
 ぶっ。
「あ、今ちょっと舞ちゃん、噴いたろ。口の中で納めようとしたけれどちょっと頬が膨らんだの、見たぞ……そうかそうか、そういうことだと思ったのだ。結構ではないか、えぇ?」
 結婚の報告だろ?
 げらげらげら。
 私の表情から何かを察したのか耐えきれず笑いだしその場にしゃがみ込む丁字原さん、「ああ、なるほど!」と手を打って店長に頭をはたかれる辛島さん。そして、
「そういうことじゃねぇっつってんだろ! クソババア!」
 と店長が怒鳴った先には真昼の月がある。真昼の月は、心なしか揺らめいているように見える。
「……最悪だ」
 死んだ目の店長が呟く視線の先に、ゆらゆらとおじいちゃんが近づいていく。
「おやぁ、乙坂の奥さん! 最近ご無沙汰だったねぇ――」

 故人は、その故人を記憶しているものがいる限り存在し続ける。
 しかしながら、時がすぎるに連れて記憶は薄れていく。記憶が薄れるに従って、意思の疎通も、その姿さえも見えなくなっていく。
 私の生まれ育った神吉田町では当たり前の風景だ。血のつながりが濃ければ濃いほど、死者たちはその記憶を五感に、脳裏に、息吹に留める。
 翌朝、貨物を運びに都心に向かうという丁字原さんのトラックに店長と二人乗せてもらう。最初三十分も峠道に揺られてしまえば、あとは中央道で一本だ。
「あ」
「?」
「ファミレス忘れてたね。パフェ食べるだけでも寄ってく?」
「いいよもう。東京で食べるよ」
 ようやく聞き出した薬の調合はノートにしてあった。「そんなもの覚えられるわけがないから、常々日記にしてある」の言葉通り、今は誰も住んでいない丙崎の家の押し入れにノートの束がブックスタンドごとしまってあった。ノートは全部で十五冊あり、縦書きの罫線を更に二つに割ってみっしりと書き込んである。
「まぁ探せば、どこかに書いてあるよ。大体一冊で三年分だから、四十年分もあるかの」
 畑から元の住処にまで付いてきたじいちゃんは蛍光灯に眩しそうに目を細め、「舞ちゃんもアレだ、暇な時でいいから、この家を整理しに来てくれよな。整理というか、仕方ねえから誰かと住んでもいい」ともごもご云った。
「しかし、ここから探せってんでしょ? レシピ」
 ノートの表紙には番号だけが振ってある。開くと綿密に日付は綴られているが、これが何年かがわからない。
「え? 8/16 アマチャヅル100、ノビル50、ゲンノショウコ35ってある」
「違うな、そりゃあずいぶん身体に良さそう過ぎる」
「でも、そんなんばっかだよこの中。ここから探すの? その調合レシピとやらを」
「そういうことになるわな、その間の店番はいるから、何ら問題ないけど」
「ちょっ」
 などと云いながら、これでしばらく店長が店に居るのだと思うと、そんなに悪い気はしない。
赤葡萄 サヌキマオ

まぼろしアビちゃん
アレシア・モード

 ふと夜中に目覚めた時、枕元に人が立っていたら普通驚く。それが自分の父親であってもだ。なお父親は十年ほど前に他界している。
 しかもここは生家でも自宅でもなく、豊浜の旅館の一室なのだ。知ってますか豊浜。豊浜は広島県呉市から二十キロほど離れたところの瀬戸内海に浮かぶ漁業とミカンの島、豊島にある町だ。田舎だけど離島ではない。島が多いこの辺りは、海に島が浮かぶというより島の間を海が流れるといった風情で、今や島は橋で結ばれここまで船に乗る必要さえなく、呉の市内からバスで一時間、広島でも二時間足らずで到着するという便利島となっている。さて私――アレシアは、今朝は新横浜のオフィスに居たアレシアさんは、なぜこの島に居るのでしょう。わかるまい。私自身、車中六時間かけても納得できなかった。果して夕食の時間、お膳を運んできた宿の婆ちゃんにも(こんな時期に)何しに来んしゃったと聞かれた。今日はすでに打ちひしがれていた私だが、アビを見に来たんでいッと元気に答えてやると婆ちゃんは何か可哀想な仔犬を見る目で曖昧に頷いたので、うんやっぱそうだねと実感した。アビ、そうだアビ。アビは鳥だ。アビ目アビ科アビ属アビ、冬に北から渡ってくる赤い目をした海鳥で、首は長めで鵜にも似ているかもしれない。そんなアビが広島の県鳥に指定されているのは、豊浜の伝統漁法であるアビ漁、これが広く全国に知られているためだ。って何それ。そんなの知らないよ、と口を尖らせたのは十六時間前の事だ。ええっアレシアさんアビ漁も知らないのっと半笑いで驚いて見せるボス。だったらぜひ見に行きなさいよきょう行きなさいいま行きなさい、現地で宿泊して朝から取材して記事書きなさい書いて昼までに送りなさい。厳守だよ。いや絶対面白いって。江戸時代からある鳥を使った漁なんだよ。違う、鵜飼いと全然違う。野生だよ。北から渡ってきたアビたちが豊浜を訪れる、その数なんと数万羽。目的は(釘煮で有名な)小魚のイカナゴ、これを求めて海に舞い降り円形に囲んで襲いかかる数万のアビ。深みへ逃れようとするイカナゴの群れ。そこを狙って殺到する、鯛やスズキの大型魚。俄に巻き起こる肉食の狂乱と戦慄、まさにアビ叫喚よね、とドヤ顔のボス。で、そこへ小舟でそおっと入って行って、うまく鯛やスズキを釣り上げてしまおうというのがアビ漁なのだと。鳥を使った漁法と言えるかどうか微妙だが、まあちょっと面白そうかも、とか思っていたのは十五時間前までだ。移動の間に背景でも書いとこうとパソコンを開き、まずはアビの事とかウィキペディア先生に教えてもらおうとか思ったら先生曰く『約300年続いたアビ漁も過去となった』え?『イカナゴが棲む生態系が破壊された事、高速船の運行でアビ類が脅かされた事が減少の原因と考えられる。昭和61年を最後にアビ漁は途絶え、今は瀬戸内海でアビ類をみる事さえまれである』あの?『古文書には万を数えるほどの記録のあるアビ類も、豊浜町では60羽ほどの飛来があるのみ』いや何がアビ叫喚だ。いったいどこの古文書で拾ったネタですかボス。とメッセージでツッコんでやると、ボスの答えて曰く神保町で買った大正十八年の本にあったんだけどねってアホですかあんたは。そんなので私を手ぶら同然で新幹線に飛び乗らせたのか。ちなみに大正時代は十五年までです。もういいです、取材は広島焼きの店に変更しますと伝えると、曰く広島焼きとか広島風とかいうのはよろしくないその呼び方は広島の人に嫌われるから、だからあなたはそのまま豊浜に行きなさいね、と。ボケとツッコミの必死の応酬を重ねた結果、分かりましたよアレシアさんもう広島「流」お好み焼きのレポート記事で良いから、その代わりあなたは豊浜に行きなさいねと来た。何が何の代わりだ。あんた豊浜から何か受け取ってんのかよ。大丈夫よアレシアさん豊浜だってお好み焼きくらいあるよ多分、知らんけど、と曖昧な脳内豊浜にあくまで拘るボス。絶対何かおかしい。さらに曰く、宿も予約済みだから必ず行きなさいなアビ居ないって旅館の人も言ってたけどって、知ってたのかよ。うん、そもそもアビ来るの真冬だしまだ無理って。だったらなぜ行かせると言っても空転するばかりなので黙る。こうして豊島に着いたのが十一時間前。良かろう、本当にお好み焼き屋あるんだろうな、とバスを降りて見れば右は役場、左は海ばかり、いや無理でしょこんな所。止むを得ない、おいそこの原住民、私にお好み焼きを食わせろ。さもなくば12センチプラズマクラスター砲を食わせてやる。期待してなかったが意外にも原住民の答えは「ああ、あびちゃん(店の名前)ね」と来た。店あるのかよ。そういう事かい。原住民によれば、その角を曲がって次の角を曲がって角を曲がって入った処だと言う。楽勝だね。よし、この角か。この道だね。うむ。って狭いぞこれ。本当にこの道なの? 生活感に満ちた路地の幅は一メートルばかり、車はもちろんバイクでも苦労しそうだ。舗装はセメント。足元にはタライにビールケース、謎の台車、ブロック塀の上にトラップのように並ぶ植木鉢、水入りペットボトル、猫でもないのに凄いプレッシャーを感じる。しかし負けてはいられない、なんだ路地こんな路地、てゆーか曲がり角どこ、いつまで続くの、どっか見落としたのだろうか、いや、そうこうするうちに二坪ばかりの開けた場所に出た。いよいよアビちゃんと思いきや、そこは真ん中に躓きそうな低い井戸があるばかりで店などない。まるでダンジョンの奥で辿り着いたハズレの行き止まりだ。おいここからどこへ行けばいいんだ、と思いつつ隣の電柱をふと見上げるとそこには「登ったらいけん」と啓示がある。うん。だがアレシアさんはその隣にさらに小さな路地を発見した。一見さんの私にはすぐ気が付かないほど狭く、雰囲気的にはもう入れないレベルだが他に選択はない。潜り込むように路地へ入っていく。そろそろ陽も傾いて薄暗い。右も左もブロック塀、肘を張れば左右とも当たる有様だ。なのに自転車とかあって何なんだここの住民は。と、前からやたら小さなコロコロ丸いお婆ちゃんが来た。ああホビットの村か。っていやこれ絶対通れないでしょと思ったら僅かな感触を残してズルリとすれ違うお婆ちゃん。マジか。あ、アビちゃんの場所聞こう、と振り返ったらもう居ない。すげえ怖い。アビちゃんどこ。と求める私の目にふと留まる小さな看板『あびちゃん 入る↑』おおアビちゃん見つけた! ってこれ道じゃねえ。もうどう見てもブロック塀の隙間だ。体を横にカニ歩きで滑り込むしかない。苔臭い。油断すると顔を塀に擦ってしまうカニ人間アレシア。と、そこへ前方から魚をぶら下げた現地のカニ人間が……

 疲れた。とにかくここには父親の霊とか縁もゆかりも無いはずだ。
 父親は静かに私を見下ろす。微笑んではいるが、まるで可哀想な仔犬を見るような眼差しだ。お仕事なんで、と私が呟くと、父親はすっと消えていった。むしろ何か言えよ、と思う。生活とか将来とかさ。私はもう何も考えまいと決め、布団をかぶり、そのまま闇の中に沈んだ。翌朝、ボスからメールが来た。曰く、オバケ出たかと。何よそれ。曰く、実はそこオバケ出るって評判でねあなた霊能力あるんでしょ先入観なしで泊まってもらったけど、書けそう? アビと島とオバケとで三時間で。
まぼろしアビちゃん アレシア・モード

師走空
今月のゲスト:邦枝完二

 矢次郎が苦樂座へ着いたのは、丁度三時半だった。彼は大部屋へ這入って、外套を脱ぐと、直ぐその足で二階にある師匠三八の部屋へ挨拶に行ったが、そこにはまだ男衆の茂吉と、この頃弟子入りをしたばかりの喜六とがいただけだった。
「お早う」
「お早う御座います」
れこ﹅﹅はまだですかい」と、矢次郎は親指を出して茂吉に訊ねた。
「まだですよ。今日は出掛けに虎の門へ廻って、琴平こんぴら様へおまいりしておいでなさるそうだから、多分見えるのは四時過ぎでしょう」と、茂吉は鏡台の周囲まわりを片附けながらいった。
「あ、なる程今日は十日と。――おまいりはおかみさんも一緒ですか」
「そうでしょうよ。行きに福本さんへ寄るんだといいなすって、二人で二時頃出掛けたんだから……」
「へへえ。じゃまた、あたしァ後で伺いましょう。寒いので、部屋着に着換えるのが億劫になりますね」
 矢次郎は、紋附の袖を前で合せて、階下したの大部屋へ降りて行った。そこにはいつの間に来たのか矢蔵と矢八とが、既に部屋着と着換えて、火鉢の前に坐っていた。
「お早う」
「お早う。お先へ御免なさい」
「これせえありやァ大願成就だ」と、矢次郎は、そのまま火鉢の前へ行って、乗掛るようにかまちにもたれた。
 まだ全部出来れない大道具の、窓框まどかまちや扉の掴玉つかみだまをつける音が、舞台から慌しく聞えるかと思えば、遊び半分に早くから集まる女優達の甲高い声が、せわしく二階から漏れて、なんとなく矢次郎の気を急き立てた。
「懲役人の役はうまく行くかい」と、矢蔵が聞いた。
「いや、どうも西洋物は仕勝手が悪くっていけねえよ。てんで見当がつかねえんだからねえ」と、矢次郎は自分でも判からない意味の微笑を洩した。
「でもあれだけ出来りゃ上等だ。おれの役の市街戦に出る兵隊などは、まるで縁日の改良剣舞だぜ。芝居になっちやァいねえんだから困る」と、矢八がいった。
「まあ仕方がねえから、出たとこ勝負でやるんだね。――旦那に叱られたら、あやまるだけだと、おれはもう観念してるんだ」
 矢次郎は投げるようにこういった。まったく、今度の役ばかりは、いくら苦労しても、すればするだけ、見当がつかなくなって、まるで砂を掴んでいるような、頼りない気持だった。
 そこへ衣装屋が各自の衣装を配って来た。と、すぐそのあとから市之助老人をはじめ、喜久矢、矢平、矢馬治やまじ、喜三郎などの相部屋連が、次々と、てんでに寒そうな顔をして這入って来た。皆は這入って来るとすぐ、火鉢の上に被さる様に手を出した。この部屋の連中には、誰の顔にも、今度の役で「あっ」と云わせてやろうなどという野心は、薬にしたくも見られなかった。誰にも、一様に「おれの畑じゃねえ」と云ったような「どうでもいい気分」が漂っていた。ただ一人、中学を三年まで修めたという喜久矢のみは、ふだん旧劇の舞台でいじめられているだけに、この翻訳劇ではひとつ、日頃の鬱憤を晴らしてやろうという気が、十分に胸にあった。それだけに、昨日の舞台稽古の時でも、彼だけは大車輪に働いたのだった。
「こう押詰まってから、西洋芝居などで開けるなァ、ねっからえねえね。そろそろ借金の言訳も考えなけりゃならねえし、餅の銭も算段しなけりゃならねえと云う矢先にどっから手をつけていいかわからねえような芝居で苦労をするなんざァ、気が利かな過ぎるじゃねえか」
 市之助老人は、誰にいうともなく、鉈豆なたまめの煙管にきざみを詰めながらこういった。
「そうだ、そりゃ市つぁんのいう通りだ。外に狂言がねえ訳じゃなし、大体うちの旦那が、物好き過ぎるからいけねえんだよ。昔からくれは忠臣蔵、正月は曽我と極ってるんだから、そういった手慣れた、やりいい物で開けてくれればいいんだな」と、矢馬治が相槌を打った。
「だが今度は、入りはありますぜ。――なんといっても出しものがいいから」と、喜久矢が口を挟んだ。
「黙っていろよ。お前なんかにわかりやァしねえから。……芝居道にゃ、芝居道の掟があるんだ」
「でも実際、レ・ミゼラブルは世界的の大傑作ですからねえ」
「はははは、こいつァいいや。活動の弁士のような事をいうなよ。芝居ばかりは、理窟じゃ行かねえんだからな」矢平がいった。
「役者にゃ、なまじっかの学問は大禁物だ」と、市之助がつぶやくようにいった。
 みんなは黙った。そして、体の温まった者から先へ、部屋着と着換えはじめた。
 矢次郎は自分の鏡台の前へ行って、眉潰まゆつぶしを練りながら、考えるともなしに、ぼんやりとうちのことを考えていた。――借金の言訳や何やや、続いてはかみさんの病気や子供の事。市之助の言葉から彼の胸にも、口には出せぬ色々の心配が、それからそれへと長い糸を引いているのだった。
 柱時計が鈍い音を立てて、四時を打った。