まぼろしアビちゃん
アレシア・モード
ふと夜中に目覚めた時、枕元に人が立っていたら普通驚く。それが自分の父親であってもだ。なお父親は十年ほど前に他界している。
しかもここは生家でも自宅でもなく、豊浜の旅館の一室なのだ。知ってますか豊浜。豊浜は広島県呉市から二十キロほど離れたところの瀬戸内海に浮かぶ漁業とミカンの島、豊島にある町だ。田舎だけど離島ではない。島が多いこの辺りは、海に島が浮かぶというより島の間を海が流れるといった風情で、今や島は橋で結ばれここまで船に乗る必要さえなく、呉の市内からバスで一時間、広島でも二時間足らずで到着するという便利島となっている。さて私――アレシアは、今朝は新横浜のオフィスに居たアレシアさんは、なぜこの島に居るのでしょう。わかるまい。私自身、車中六時間かけても納得できなかった。果して夕食の時間、お膳を運んできた宿の婆ちゃんにも(こんな時期に)何しに来んしゃったと聞かれた。今日はすでに打ちひしがれていた私だが、アビを見に来たんでいッと元気に答えてやると婆ちゃんは何か可哀想な仔犬を見る目で曖昧に頷いたので、うんやっぱそうだねと実感した。アビ、そうだアビ。アビは鳥だ。アビ目アビ科アビ属アビ、冬に北から渡ってくる赤い目をした海鳥で、首は長めで鵜にも似ているかもしれない。そんなアビが広島の県鳥に指定されているのは、豊浜の伝統漁法であるアビ漁、これが広く全国に知られているためだ。って何それ。そんなの知らないよ、と口を尖らせたのは十六時間前の事だ。ええっアレシアさんアビ漁も知らないのっと半笑いで驚いて見せるボス。だったらぜひ見に行きなさいよきょう行きなさいいま行きなさい、現地で宿泊して朝から取材して記事書きなさい書いて昼までに送りなさい。厳守だよ。いや絶対面白いって。江戸時代からある鳥を使った漁なんだよ。違う、鵜飼いと全然違う。野生だよ。北から渡ってきたアビたちが豊浜を訪れる、その数なんと数万羽。目的は(釘煮で有名な)小魚のイカナゴ、これを求めて海に舞い降り円形に囲んで襲いかかる数万のアビ。深みへ逃れようとするイカナゴの群れ。そこを狙って殺到する、鯛やスズキの大型魚。俄に巻き起こる肉食の狂乱と戦慄、まさにアビ叫喚よね、とドヤ顔のボス。で、そこへ小舟でそおっと入って行って、うまく鯛やスズキを釣り上げてしまおうというのがアビ漁なのだと。鳥を使った漁法と言えるかどうか微妙だが、まあちょっと面白そうかも、とか思っていたのは十五時間前までだ。移動の間に背景でも書いとこうとパソコンを開き、まずはアビの事とかウィキペディア先生に教えてもらおうとか思ったら先生曰く『約300年続いたアビ漁も過去となった』え?『イカナゴが棲む生態系が破壊された事、高速船の運行でアビ類が脅かされた事が減少の原因と考えられる。昭和61年を最後にアビ漁は途絶え、今は瀬戸内海でアビ類をみる事さえまれである』あの?『古文書には万を数えるほどの記録のあるアビ類も、豊浜町では60羽ほどの飛来があるのみ』いや何がアビ叫喚だ。いったいどこの古文書で拾ったネタですかボス。とメッセージでツッコんでやると、ボスの答えて曰く神保町で買った大正十八年の本にあったんだけどねってアホですかあんたは。そんなので私を手ぶら同然で新幹線に飛び乗らせたのか。ちなみに大正時代は十五年までです。もういいです、取材は広島焼きの店に変更しますと伝えると、曰く広島焼きとか広島風とかいうのはよろしくないその呼び方は広島の人に嫌われるから、だからあなたはそのまま豊浜に行きなさいね、と。ボケとツッコミの必死の応酬を重ねた結果、分かりましたよアレシアさんもう広島「流」お好み焼きのレポート記事で良いから、その代わりあなたは豊浜に行きなさいねと来た。何が何の代わりだ。あんた豊浜から何か受け取ってんのかよ。大丈夫よアレシアさん豊浜だってお好み焼きくらいあるよ多分、知らんけど、と曖昧な脳内豊浜にあくまで拘るボス。絶対何かおかしい。さらに曰く、宿も予約済みだから必ず行きなさいなアビ居ないって旅館の人も言ってたけどって、知ってたのかよ。うん、そもそもアビ来るの真冬だしまだ無理って。だったらなぜ行かせると言っても空転するばかりなので黙る。こうして豊島に着いたのが十一時間前。良かろう、本当にお好み焼き屋あるんだろうな、とバスを降りて見れば右は役場、左は海ばかり、いや無理でしょこんな所。止むを得ない、おいそこの原住民、私にお好み焼きを食わせろ。さもなくば12センチプラズマクラスター砲を食わせてやる。期待してなかったが意外にも原住民の答えは「ああ、あびちゃん(店の名前)ね」と来た。店あるのかよ。そういう事かい。原住民によれば、その角を曲がって次の角を曲がって角を曲がって入った処だと言う。楽勝だね。よし、この角か。この道だね。うむ。って狭いぞこれ。本当にこの道なの? 生活感に満ちた路地の幅は一メートルばかり、車はもちろんバイクでも苦労しそうだ。舗装はセメント。足元にはタライにビールケース、謎の台車、ブロック塀の上にトラップのように並ぶ植木鉢、水入りペットボトル、猫でもないのに凄いプレッシャーを感じる。しかし負けてはいられない、なんだ路地こんな路地、てゆーか曲がり角どこ、いつまで続くの、どっか見落としたのだろうか、いや、そうこうするうちに二坪ばかりの開けた場所に出た。いよいよアビちゃんと思いきや、そこは真ん中に躓きそうな低い井戸があるばかりで店などない。まるでダンジョンの奥で辿り着いたハズレの行き止まりだ。おいここからどこへ行けばいいんだ、と思いつつ隣の電柱をふと見上げるとそこには「登ったらいけん」と啓示がある。うん。だがアレシアさんはその隣にさらに小さな路地を発見した。一見さんの私にはすぐ気が付かないほど狭く、雰囲気的にはもう入れないレベルだが他に選択はない。潜り込むように路地へ入っていく。そろそろ陽も傾いて薄暗い。右も左もブロック塀、肘を張れば左右とも当たる有様だ。なのに自転車とかあって何なんだここの住民は。と、前からやたら小さなコロコロ丸いお婆ちゃんが来た。ああホビットの村か。っていやこれ絶対通れないでしょと思ったら僅かな感触を残してズルリとすれ違うお婆ちゃん。マジか。あ、アビちゃんの場所聞こう、と振り返ったらもう居ない。すげえ怖い。アビちゃんどこ。と求める私の目にふと留まる小さな看板『あびちゃん 入る↑』おおアビちゃん見つけた! ってこれ道じゃねえ。もうどう見てもブロック塀の隙間だ。体を横にカニ歩きで滑り込むしかない。苔臭い。油断すると顔を塀に擦ってしまうカニ人間アレシア。と、そこへ前方から魚をぶら下げた現地のカニ人間が……
疲れた。とにかくここには父親の霊とか縁もゆかりも無いはずだ。
父親は静かに私を見下ろす。微笑んではいるが、まるで可哀想な仔犬を見るような眼差しだ。お仕事なんで、と私が呟くと、父親はすっと消えていった。むしろ何か言えよ、と思う。生活とか将来とかさ。私はもう何も考えまいと決め、布団をかぶり、そのまま闇の中に沈んだ。翌朝、ボスからメールが来た。曰く、オバケ出たかと。何よそれ。曰く、実はそこオバケ出るって評判でねあなた霊能力あるんでしょ先入観なしで泊まってもらったけど、書けそう? アビと島とオバケとで三時間で。