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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第19回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 2月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
太宰治
1884

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愛を継ぐもの
サヌキマオ

 職員室である。顔をあげると強い天然パーマの女子がこちらを覗き込むようにしている。
「あ、シンクロした」
「え」
「ちょうど都花女子の宇平先生からメールが来てね、お前さんのことを褒めてたんだ」
 終業式公演も終わった年の瀬である。別にこんな時にまで部活をしなくてもいいだろう、と思われるかもしれないが、冬の間に台本を読んでもらおう、あわよくば休み明けまでに覚えてきてもらおうと思うと変な欲が湧いてしまう。で、徹夜して台本を書いて刷って束ねて配って読み合わせた。誰も彼もクリスマスなのにご苦労なことである。
「あ、ホントですか。嬉しいなぁ」
 森さんもそう云ってニッ、と笑うところはとても可愛らしいが、親だってこの子が生まれて愛流なんて名前をつけたときには、こんな娘になるとは思わなかったに違いない。
「頑張った甲斐がありました――で、お話なんですが」
「ん。なんだ」
「戦車つくりましょうよ、戦車」
 こんな娘に、である。
 森愛流が俵村曲や墨家青子とともに演劇部に入ってきたときには「裏方がやりたくて入部しました」と決めてきていた。
 当演劇部の新入部員はもれなく最初の一年は舞台に上げず、照明や音響の裏方をさせている。役者にも裏方の苦労を体感してもらうためだが、森愛流は「自分の技術を有効利用したくて」演劇部がいいのだという。自宅には専用の作業ガレージがあるのだという。そらあ大層なこった。
「次回の『この世界の片隅でのシンの名は』って戦車のシーンあるじゃないですか。『撃てるものなら撃ってみろ!』って砲弾を白刃取りするシーン。あそこにリアルで戦車があったら面白くないですか?」
「不要ないよぉ、お前戦車なんてどうするんだよ」
「どうする、って、お任せくださいよ。案があります」
「そういうことでなくて」
「大人の事情ですか?」
「……別に大人の事情でもねえよ。予算だ。カネがないから用意できない。小学生でも判る」
「だったら私の自腹で――」
「だからさ。高校生なんだからわかってくれよ。学校から出てる金とさ、それにみんなから活動費と称していくらかもらってる。それが全財産だ。これ以上もらうわけに行かないし、それだって大変なご家庭だってあるかもしれない」
「調べたんです?」
「お前ね、調べてどうしようっての。どこどこのご家庭は金銭的に厳しいから、って、そんなことを判明させてどうする。それこそ大人の事情だよ」
「そういうもんですか」
「そういうもん。お前さんとご家族にだけご負担いただくにゃ及ばんのだよ。わかってくれるか」
「わかりました」
 いやにあっさり引き下がるなぁ、と思わないこともなかったが、その時には気にも留めなかった。
 翌日から冬休みだ。車で五時間かけてカミさんの実家に帰ったりした。渋滞の中で娘も息子もすっかり車嫌いとなり、インターチェンジに棲むとか云い出したのだがそんなことはどうでもいい。
 年が明けて始業の日。通勤すると駐車場に見慣れぬ車が停まっている。レッカー車? なんで教職員用の駐車場に停まってるんだ、などと不審に思いながら玄関に向かっていると、横光さんが向こうから走ってくる。
「やぁ、伊武先生、探しましたよ」
「いま来たばかりなんだけど」
「とにかく、森君ですよ」
 すっかり所在を忘れていた虫歯が疼き始めるかのようだ。ただでさえ寒いなと思っていた朝の風が更に凍てて感じられる。
 人だかりのする方にふらふらと吸い寄せられていくと、騒ぎの中心には廃材を組み合わせて作られた戦車のようなのものが停まっている。砲台の上のハッチ(おそらくマンホールの蓋だろう)が開くと、中からひょっこりと森さんが顔を出す。
「おッ前、莫迦なのか?」
「ちょっと家族で海に旅行に行ったですけど、浜に打ち上げられていた廃材で、なんか出来てしまいました!」
「どこの国の浜だそりゃ!」
「とにかくタダですよ、タダ!」
「やっぱり莫迦だ! こんだけ人が集まっちゃったらサプライズにも何にもならないじゃんよ」
「あ、なるほど。その発想はありませんでした!」
 森さんが舌をぺろりと出す背後に、極めて渋い顔の教頭が見える。

「――それが、あの戦車だったんですね!」
 そんなに戦車にはしゃがんでも。お年頃の女子が。
 聞いている方は面食らうかもしれないが、急に時間と空間が飛んで桜が咲いて散ったと思ってほしい。咲いて散って、葉桜の緑が目に眩しくなったと思ってほしい。
 陽光の中からひんやりとした建物の中、三階の視聴覚教室、演劇部の根城である。
「で、入部希望だって? 中学部か」
「はい、でもあの、条件があるんですけど」
「あ? なんだか面倒なのか、君ぁ」
「いや、面倒とかそういうことでは決してなくて――あ、ご紹介が遅れました。中学部二年四組の冨増です!」
「うん、冨増さん――冨増」
「鉄華です! それで」
「うん」
「大道具とかだけ作るので入部とか、アリですか?」
 へぇ。
 うまく出来てるな、と思う。
 必ず出てくるのだ、こいつは得難いタレントだなぁ、こいつが卒業したらどんな台本を書けばいいんだろう。そんなふうに思っていても、下級生のときに無個性だった面々から、蛹が殻を破るように新しいタレントが出てくる。普通の人間関係でもそうかもしれない。普段からよく話していた相手と疎遠になると、また同じポジションに別の人がハマってくる、みたいな。
「終業式公演も観たんですよ!『タンマウォッチ』でしたっけ」
「『時界タイマー』な。その辺、色々と微妙なんだよ。大人の事情が」
「時界タイマー、小道具ですよ、原作の青猫ロボシリーズは観たことがないんですけど、すっごく良く出来てると思いまして――でも、戦車です。私、戦車をつくりたいので、入部します!」
「……決してそういう部活ではないんだけどな。あ、で、なんかそういう経験あるの? モノ作ったりとかの」
「いえ、なんというかネイルデコ的なものはやったことはあるんですが……あの、ないです」
「何にも?」
「入部したら出来るようになると思いまして」
「なるかぁ?」
「なりませんか?」
「なるかもね。本人次第だ」
 ちょうどジャージに着替え終わった森さんを手招きする。
「なりますよ! これで私が卒業後に来なくても大丈夫ですね!」
 森さんはさも嬉しそうにそう云うと、冨増さんの両手を固く握りしめた。
「次回も戦車出しましょうよ先生!」
「どう考えても出ねえよ! 次回は夢と魔法のファンタジーだよ!」
「そこを工業社会vs大自然みたいな感じになりませんか!」
「大自然相手に戦車ひとつでどうしようってんだよ! 相手はドラゴンだぞ!」
「ドラゴン?」
 しまった、と思ったがもう遅い。森さんは目を輝かせて、さっそく冨増さんの肩を押してホールの外に連れ出そうとする。
「どうするつもりだ?」
「ドラゴンですよ! いまからどうやったらドラゴンが出来るか、作戦会議です!」
 あと剣と鎧と馬もー! と言い残して二人は去っていく。
 こうして六月公演「ドラゴンはわさび醤油で」の舞台上には高さ二メートル半のドラゴンがそびえ立った。アルミの骨組にナイロンの布が張ってあって、当然のように首が動く。布問屋に行く、という発想は森さんにはないものだったらしく、工作とプログラミング一辺倒だった大道具や小道具に女子力が追加された。こういうのを女子力というのかどうかはわからないが、少なくとも進化している。無駄に。
愛を継ぐもの サヌキマオ

転ばないで、クーシー
アレシア・モード

 山道は尾根伝いに山頂へと続く。木々の向こう、右手は急な谷の斜面、左は緩いけど麓まで転がりそうな長い斜面、時々熊笹の迫る細い道を、私――アレシアは落葉を踏んで登っていく。
「クーシー、遅れないでね?」
 ぴろん♪と音が返る。振り向くと、クーシーはひょっこ、ひょっこと脚を弾ませ後ろを歩いている。転ばない仕掛けで作られた、多関節の足どりが可愛い。
 クーシーは爺ちゃんに買ってもらったロボット犬だ。犬と言うにはだいぶ大きい。で、形で言うと何の動物にも似ていない。お盆に供えるキュウリの馬が一番似てる。ライムグリーンの胴から黒い脚が四本、首のある方が前、なぜなら首があるからで、他は前後対称、左右も対称というアホ犬だ。どこにでもついて来て、荷物だって運んでくれる♡
 やがて少し開けた場所に出た。頂上だ。そこは●●山頂 320mと書かれた古い立て札があるだけだった。クーシーは頭をくるくる廻して写真を撮っている。大昔はここにテレビの送信所とか展望台があったそうだけど、今はない。
(この辺、人いないしな)
 見降ろすと麓も空き地ばかりだけど、爺ちゃんが子供の頃はけっこうな町だったらしい。山の神様を祀るくらいには。そう、それ。私の密かな目的は……
(検証:果して今も神はいるのか!)
 拝む人が誰も無くても神様は生きられるのか。それとも消えてしまうのか。爺ちゃんに訊いたらバチ当たりだなって言われた。2050年にもなってバチとかあるのか。私は真相を求め山の神社へ突撃するのだ。
 神社は頂上から少し下った所にあるという。クーシーに案内させる。って、すぐ足元だった。尾根から少し降りた所にそれはあった。
「何これ……」
 枯れ木と落葉の中から、石の鳥居が生えている。下をくぐると崩れそうな気がして、私はそっと脇を抜けた。足元は石だらけで歩きにくい。クーシーの動作音も大きくなる。奥には家みたいなのが惨めに崩れ落ちていた。まるで潰れた犬小屋だった。
(駄目だわ)
 とても神とかいる雰囲気じゃない。ただの廃屋だ。クーシーが立ち止まりカメラを回す。辺りは静かになった。
 傍らに大きなお地蔵さんみたいな像がある。神社ってこんなのあったっけ。でもあるから仕方ない。苔だらけの崩れた顔は、意味不明の表情で私を見ていた。
「……クーシー、行こ」
 私たちは神社を離れた。

(神は死ぬんだ)
 尾根を下りながらそう思った。信じる人がいて神様は生まれたのに、可哀想に、誰も居ない所に神様は居ない。
 興味半分で来ただけなのに、すごく寂しい気持ちになった。
「クーシー、音楽」
 返事がない。
「えっ?」
 振り返るとクーシーが居ない。うそ。まさか落ちたの?
 大声で名前を呼ぶと、割と近くで音がした。道の脇、少し下で横倒しになっていたクーシーは変な手順で立ち上がり、小刻みに這い上がってきたけど音が怪しい。どこか壊れたんだろうか、道に戻るまで何分もかかった。
 診断表示では左後脚が『異常』になっていて、見たら足が曲がっていた。
(うそ……)
 クーシーが壊れるとか、考えた事もなかった。
 待ってて、とクーシーの腰のボックスを開く。スペアレッグが一本あるけど交換とかやった事ない。とりあえず整備マニュアルを読ませながら工具をクーシーに繋ぐ。
 何十分も頑張って、クーシーは動いてくれた。でもやっぱり音が変だ。レッグが怪しかったのか、私が間違えたのか。診断表示は『正常』じゃなく『注意』だった。
 もう日が傾き始めている。
「行くよ」
 不安がっても仕方ない。早くしないと日が暮れてしまう。私は足を早めた。クーシーも動きを早めたけど、その音はいつもより大きく、何か陰気な感じだった。リズムも違う。知らない他の動物がついて来るみたいだ。
「……クーシー、音楽」
 クーシーはお気に入りを演奏し始めたけどスピーカーの音が割れている。私はすっかり厭になって音楽を止めた。また妙な足音ばかりが山に響く。ああ、もうさっきから本当に厭すぎる。
 道は尾根から分かれ、少し急な下り道となる。
「さっさとおいで」
 私はクーシーを置き去りにするように、たん、たんと小駆けに道を下った。もちろん置いて行く気はない、ただ何となくそうして見せたくなっただけ……
 ずる、と足元が滑った。足首を掴まれ引かれたように左足が勢いよく前に滑り、残った腰がすとんと落ちて、杭を打つように叩きつけられた。頭の底、目の奥あたりでごっ、と鈍い音がして、白く、きな臭い気が弾けた。私はふうっと右に崩れ、手をつき、肘で身を支えた。目の前に落葉の一枚一枚があった。
 食いしばった歯から声が漏れ、後は息をするので精一杯だった。こんな所で葉っぱにまみれて。首が痺れて熱く、伸びた左足が動かない。酷い、酷い……。
 やっと追いついたクーシーが三つの目で私を見降ろす。
「……クーシー」
 クーシーは低く唸って頭を上げた。首を回して周りを見る。私はクーシーの胴に手をかけ、立とうとして失敗し、泣き顔で立ち上がるまで十分ほどかかった。日はもう山際に近く、辺りは薄暗くなりかけている。
「行くよ……」
 私はクーシーに身を預けながら、引き摺るように足を動かした。
(これじゃ、夜までに降りられない)
 どうしてこんな事ばかり続けて起こるの。こんな筈じゃなかったのに、と思う。ちょっと思いつきで裏の山に登っただけなのに。早く帰りたい。でも左足は上がらない。うっかり体重がかかるたびに神経に響いて、私はクーシーにしがみ付いて体を支えた。その間、クーシーは歩みを止めて、何を見るのか後ろばかりを向いていた。故障のせいか、それとも意味があるんだろうか。
 振り返ると、闇は背後から迫っている。その奥に、藪を分ける物音が聞えた。動物?
(行かなきゃ)
 そっと命じてクーシーを動かすと、憂鬱な多関節の音が再び始まる。胴に掴まると、さらに大きく響いて聞こえた。
 規則正しい機械音が、刷り込むように繰り返される。だんだんそれは頭の中で、誰かの声みたいに聞こえ始めた。いったん意識したら離れない。雑音の奥から埋もれていた声が滲み出て、私に呪文みたいに囁くのだ。
《かち、ごんらあえ、かちおるかろよ》
《かち、ごんらあえ、かちおるかろよお……》
「……やめてよね、この」
 と口走った途端、クーシーが止まってしまう。いや違うよって言おうとした時、クーシーは急に首を回し、道の脇へとカメラライトを向けた。お前、さっきから何を気にしてるの。その先を目で追うと、藪の奥から白い顔がじっと見ていた。
 思わず息が止まる。それは神社にあったのと同じような石像だった。静寂の中、ライトに浮かぶ崩れた顔を見ているうち、急にぞわっと悪寒が走った。
「行くよ、クーシー!」
 声が上ずっていた。藪の中の物音が近づいている、ような気がした。私に合せてクーシーが動き出す。遅い、でも早く歩けない。
「お願い」
 私は歯を食いしばり、クーシーの背に這い登った。クーシーの体は一瞬沈み、そしてそのまま歩み続ける。揺れる背にしがみついて私は声を絞り出す。
「クーシー、三速!」
 速度が高まり、機械音に足元の岩を叩く音が加わる。無理を、かなり無理をさせてる、でももう、ごめんクーシー、私は歩けない、歩きたくない。暗がりが、背後が気になる。背負ったリュックの感触が救いだった。
 周りの木々がいっせいにざわつく。
 頼むから、頼むから転ばないで、クーシー。
転ばないで、クーシー アレシア・モード

I can speak
今月のゲスト:太宰治

 くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。わかさ、かくて、日に虫食われゆき、仕合せも、陋巷(ろうこう)の内に、見つけし、となむ。
 わが歌、声を失い、しばらく東京で無為徒食して、そのうちに、何か、歌でなく、謂わば「生活のつぶやき」とでもいったようなものを、ぼそぼそ書きはじめて、自分の文学のすすむべき路すこしずつ、そのおのれの作品に依って知らされ、ま、こんなところかな? と多少、自信に似たものを得て、まえから腹案していた長い小説に取りかかった。
 昨年、九月、甲州の御坂峠頂上の天下茶屋という茶店の二階を借りて、そこで少しずつ、その仕事をすすめて、どうやら百枚ちかくなって、読みかえしてみても、そんなに悪い出来ではない。あたらしく力を得て、とにかくこれを完成させぬうちは、東京へ帰るまい、と御坂の木枯しつよい日に、勝手にひとりで約束した。
 ばかな約束をしたものである。九月、十月、十一月、御坂の寒気堪えがたくなった。あのころは、心細い夜がつづいた。どうしようかと、さんざ迷った。自分で勝手に、自分に約束して、いまさら、それを破れず、東京へ飛んで帰りたくても、何かそれは破戒のような気がして、峠のうえで、途方に暮れた。甲府へ降りようと思った。甲府なら、東京よりも温いほどで、この冬も大丈夫すごせると思った。
 甲府へ降りた。たすかった。変なせきが出なくなった。甲府のまちはずれの下宿屋、日当りのいい一部屋かりて、机にむかって坐ってみて、よかったと思った。また、少しずつ仕事をすすめた。
 おひるごろから、ひとりでぼそぼそ仕事をしていると、わかい女の合唱が聞えて来る。私はペンを休めて、耳傾ける。下宿と小路ひとつ隔て製糸工場が在るのだ。そこの女工さんたちが、作業しながら、唄うのだ。なかにひとつ、際立っていい声が在って、そいつがリイドして唄うのだ。鶏群の一鶴、そんな感じだ。いい声だな、と思う。お礼を言いたいとさえ思った。工場の塀をよじのぼって、その声の主を、ひとめ見たいとさえ思った。
 ここにひとり、わびしい男がいて、毎日毎日あなたの唄で、どんなに救われているかわからない、あなたは、それをご存じない、あなたは私を、私の仕事を、どんなに、けなげに、はげまして呉れたか、私は、しんからお礼を言いたい。そんなことを書き散らして、工場の窓から、投文しようかとも思った。
 けれども、そんなことして、あの女工さん、おどろき、おそれてふっと声を失ったら、これは困る。無心の唄を、私のお礼が、かえって濁らせるようなことがあっては、罪悪である。私は、ひとりでやきもきしていた。
 恋、かも知れなかった。二月、寒いしずかな夜である。工場の小路で、酔漢の荒い言葉が、突然起った。私は、耳をすました。
 ――ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無え。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。姉さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒で、こっそり夜学へかよっているんだ。偉くならなければ、いけないからな。姉さん、何がおかしいんだ。何を、そんなに笑うんだ。こう、姉さん。おらあな、いまに出征するんだ。そのときは、おどろくなよ。のんだくれの弟だって、人なみの働きはできるさ。嘘だよ、まだ出征とは、きまってねえのだ。だけども、さ、I can speak English. Can you speak English? Yes, I can. いいなあ、英語って奴は。姉さん、はっきり言って呉れ、おらあ、いい子だな、な、いい子だろう? おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ。……
 私は、障子を少しあけて、小路を見おろす。はじめ、白梅かと思った。ちがった。その弟の白いレンコオトだった。
 季節はずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場の塀にひたと脊中をくっつけて立っていて、その塀の上の、工場の窓から、ひとりの女工さんが、上半身乗り出し、酔った弟を、見つめている。
 月が出ていたけれど、その弟の顔も、女工さんの顔も、はっきりとは見えなかった。姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、まだ幼い感じであった。I can speak というその酔漢の英語が、くるしいくらい私を撃った。はじめに言葉ありき。よろずのもの、これに拠りて成る。ふっと私は、忘れた歌を思い出したような気がした。たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがたい。
 あの夜の女工さんは、あのいい声のひとであるか、どうかは、それは、知らない。ちがうだろうね。