カオティーク
アレシア・モード
春月の満たないうちに死んだから十三日は月の命日♪
我ながらひどい歌です。自転車を押しながら、思わず含み笑いを漏らすアレシアさん。これでは夫も浮かばれません。死んで十何年経っていますが。
前カゴのエコバッグの中には、蝋燭と線香、ライター、数珠を入れた墓参りセット、お花はいつものようにみのりや(近所のスーパー)で買い求めました。ついでに買った厚揚げと、菜ばな。これは夕食にいただきます。
風は暖かく頬を撫でていきます。墓苑は裏の山のほう、田んぼと畑の続く道を少し登った先にあります。
午後の陽射しを浴びる山並み――山と言うには少し低いのですが――不思議な色合いで私の前にあります。山は季節ごと、時間ごと、お天気ごと、その趣を変えます。殊にこの山は――杉や松の針葉樹、竹笹、団栗やら梅やら桜やらの広葉樹、そしてそれらの季節の花、その複雑な色の組み合わせは糢糊としたパッチワークの壁掛けを思わせます。歩くほど、山は次第に目の前に近づき、近づくほどにまた美しいのです。まるで息も荒げるほど、美しすぎて苦しいほど。
なぜこんなに息苦しく、足さえ重いのでしょう。と気付いて道を振り返れば、いつの間にか家々を見降ろす高みまで登ってきていて、ふうっと転げ落ちそうになる。一体いつから山だったのか。こうした感じは海とは勝手が違います。海に入れば誰でもそれと分かりますが、山はどこから山だったか分からないまま、いつしか私は道を登っているのです。
ああ怖い怖い。このアレシアさん、放っておけば山頂までも登ってしまいます。馬鹿なアレシアさん。でもなるほど山というのは上手く出来ているもので、眺めるばかりでなく登ればそこにも御利益はあるのです。例えば山の上には少し知られた厄除けの大きなお寺がありまして。いつも私は山門の前で疲れた足を休め、まずは額の汗をひと拭い、山門をくぐった横には湧き水があって、それを掬って喉を潤す、これがとても美味しいのです。石段を上がって進むと、護摩の香ただよう本堂からは鉦や太鼓の響きに合せ、僧たちの揃って詠唱する有難い真言の和声が聞こえてきます。ああこれが女人禁制の昔なら、私のような者が立ち入れば追い出されるような処なのかも知れません。率直に申せば、僧たちの中には、なかなかお美しい方もいらっしゃいます。名も存じ上げぬまま、その姿ばかりを覚えている幾名かの僧たちは、閉じられたお堂の中で今も声を上げておられるのでしょうか。
ああ怖い怖い。このアレシアさん、また山に登ってしまうところでした。今日はお寺まで行くわけではありません。いま押して歩いている、この次第に重くなる自転車を思い出しましょう。その前カゴのバッグには、みのりや(近所のスーパー)で買い求めた仏花が、墓参りセットが入っているではありませんか。そう、私は墓参りに行くのです。そして厚揚げや菜ばなも入ったままなのですから、上まで登っていてはなりません。
山の途中から、小さな集落を抜け、墓苑へと向かいます。道は山裾の上をくねくねと上ったり下ったり。上りにかかれば自転車を押して歩き、下りに入ればまた自転車に乗ってチェーンを鳴らしながら下るのです。楽ですが、でもいくら勢いよく下っても、そのまま次の坂までも登りきる事はできません。重力とはそういうものらしいです。
マルポーも来たらいいのに、と思います。ただ自転車に乗るだけで、色々感じられる事もあるのにね。
マルポーは息子の呼び名です。私は息子を幼い時分からそう呼んでおりますが、当人はそれが嫌いなようです。私は呼び方を改める気はありません。その事も嫌いなようです。
ああまったく、息が切れます。墓苑はすぐそこです。最後の坂を押し登って、自転車を停めます。バッグを肩に家のお墓に向かいます。と、その前にバケツに水を汲みましょう。墓苑の名前がマジックで書かれた青いバケツを水場の足元に置き、水栓を開くと水はちろちろ流れ落ちます。
厚揚げと菜ばなの煮浸しは――私の好物で普段は小松菜で拵えますが、これが菜ばなになれば春なのです。一人で食べるのも惜しい気がしてマルポーにも作ってやったりするわけですが――そもそも彼は私と一緒に食事をしません。いつも居る二階の自分の部屋で食べます。私は食事をお盆に乗せて部屋に運ぶだけです。それも食べてくれるとは限りません。彼は好きなものばかり食べて、他は残してしまうのです。
実のところマルポーは、こんな年寄りじみた惣菜なんて口にしないのです。箸もつけずに下げられた煮浸しは、翌日のお昼にでも私が有難く頂戴するのでしょうが、まあ、まるで二階に仏様がもう一人居るかのようです。
バケツの水が入りました。私は備え付けの柄杓をバケツに入れ、お墓へ向かいます。お墓の脇にバケツとバッグを下ろし、供台から湯呑みを下げ、左右の花立てから古い花を下ろします。ステンレスの花筒から花を抜いて傍らに置き、両手に湯呑みと花筒を持って水場に戻り、これを洗って新しい水を満たし、またこぼさないようお墓に戻る。一人だとこうなります。最初の頃は何度も行ったり来たりしたものですが。さて墓石を洗いましょう。
バケツから水を掬い、まだ艶やかに光る白御影の墓石に水を少しづつ掛けながら、手で撫でこすります。アルミの柄杓は石に触れるたび軽い音を響かせます。流した水を掌で広げるように撫で洗っていくと、滑らかな石の肌からは春の陽の温かみが感じられます。左の奥を洗う時は指輪の当たるのが気になります、石が傷まないと良いですが。
一通り洗ったのでお花を供えます。花筒を花立ての丸い穴にすぽんすぽんと収め、買ってきた花のセロハンを外して左右に飾ります。白と黄色の小菊、紫のストック、カーネーションはピンクの斑入り。地元の農家で作ったのでしょう。水鉢にきれいな水を注ぎ入れ、墓参りセットから蝋燭を、蝋燭立ての中に収めて火を点します。線香の束をそっと炎の先にかざして火を移します。手元で円を描くように振って線香の炎を消すと、香りが辺りに漂います。よしよし。これを線香立てに供えますが、灰を落とさぬようにと思うと妙に緊張します。ああ、蝋燭立てに風防をかけないと。
墓碑には代々の名前が刻まれておりますが、存じ上げているのは夫とそのお母様ぐらい、あとは話に聞いただけの、正直よく知らない皆様です。それでも私はこの墓に入りたいとは思っています。山の眺めも好きですし。でもね。
私が死んだら、マルポーはここへ参ってくれるでしょうか。そしてマルポー自身は。夫も、そのお父様にも兄弟はありません。いまこの墓にまつわる人は、私とマルポーしかいないのです。
帰りは概ね下りになるので、自転車で楽に戻れます。本当に楽、圧倒的な力に引かれ、自転車は私を乗せてぐうんと加速するのです。ブレーキを絞り続けてスピードを抑えますが、きゅるきゅる、きゅると鳴るその音のまあ無様なことよ。まさにゴムも擦り切れんばかりです。あるいはワイヤーでもばつんと切れれば、私は自身を止められないまま田んぼ道を飛び出して、刹那の青空を瞼に焼きつつ、涸れた水路に頭から落ちるのでしょうか。私は冷たいコンクリートの水路の底で意識を散らし、その傍らには今晩食べるはずだった、厚揚げと菜ばなが外に飛び出し、土に汚れて転がっているのでしょうか。
ああ怖い怖い。