オバケの修羅場(Sさんの話)
アレシア・モード
少し前の話です。
つきあってた女がいたんですけど、ちょっとやらかしてしまって。その時の話をします。
彼女が新しいマンションに引っ越したんです。ええ、一人暮らしで。ところが何日かした頃から、何か変な感じがするって言いだして。部屋に何か気配があるとかって。まあ私は、ポーズとしては真剣に聞いてましたが、気のせいだろうと思ってました。
でも彼女がだんだん本気で怯えるようになって、で、物が動くとか言うんです。留守の間にソファの位置がずれているとか。そんなの覚えてるんですかね。あと何か匂いが残ってるとか。
その時も私は精神的な問題と思ってました。何だこいつ危ないぞって。そのうち、ついに見たとか言って。夜中にクローゼットの扉が少し開いて、中から誰か覗いてたと。後は布団をかぶってしまったから知らないと。本当に誰かいたらどうするのって言ったら、人が入るスペースとかないからって。朝見たら、扉は閉まっていたそうです。
一度、部屋に泊まって様子を見て欲しいと言われました。ええ、彼女とはいつも外で会う事にしていて、部屋で一緒に過ごした事はありませんでした。え、私の部屋。ダメですよ。住所も教えません。面倒の元です。
その夜、仕方なく彼女の部屋に行ったんですが、今にすると私は不思議なほど苛立ってましたね。彼女に対しても、部屋に着く前から少しきつく当たってました。私は女性には優しいつもりですが、予感があったのでしょうか。
部屋に入った時には、もう嫌な空気に満ちていた。私は霊感なんかありません。でも自分に対する誰かの悪意とか敵意とかは敏感に分かる。直感です。そういう相手が居るならやっつけるだけです。とりあえずクローゼットとか開けましたが何もいません。でも分かる、この部屋は敵が居るって!
すみません、いま興奮しても仕方ないですね。で、明かりを暗くして、酒を飲みながら待ちました。彼女は黙って傍らにいましたが、こんな息苦しい二人の時間は初めて、もう最低です。もういい寝るぞって思った時、出たんですよ。
クローゼットの扉が、すっと開きました。で、中から出たのが、おかっぱ髪の小さな女の子なんです。ええ意外でしたよ。でも、もっと意外なのは隣の彼女の反応でした。
『あ、かわいい』
何言ってんだ、こいつ。驚きました。姿は子どもでも、悪い霊だと一目で判りますよ。何しろ顔とか、目が吊り上がって、口なんか、この、こめかみくらいまで、そう、そんな感じです。しかも敵意むき出しの。それでいきなり『かわいい』ですか。見て何も感じないんですか。そこまでアホとは思いませんでしたよ!
私は黙って立ち上がりました。
『どうするの』
私は右手を構えました。笑わないでくださいね、早九字を切ろうと思ったんです。ええ、そう、早九字は悪霊を祓う力を持つ呪法で、簡単な割には強力なんだそうです。抜き身の刀みたいなもので、みだりに使ってはいけないとか、ハハ、漫画か何かで読んで何となく覚えてたんですがね、まさか実際試す時が来るなんて思いませんでしたがね。ハハ……
女の子は気味悪い笑みで私を見つめています。猫が獲物を狙うような目つきです。もう絶対ぶち殺すと決めました。みんな彼女のためですよ。
私は腕を振り上げました。
『ねえ、どうするの』
私はすがりつく彼女を払いのけ、手刀を振って叫びました。
『臨!』
いったん声を出すと、後は夢中でした。
『兵、闘、者……』
横で彼女が何か叫んでいます。私は構わず呪文を唱え続けました。
『……在、前!』
最後の一文字を叫び、手刀を横に振りぬきました。
鋭い悲鳴が上がりました。女の子の顔の、おかっぱの前髪から下が、ざくりと裂けたのです。血がほとばしり、女の子は火のついたように泣き出した。
『おおっ』
思わず声が出ましたね。すごい効果です。
『ひどいよ!』
と叫んだのは横の彼女です。ひどいのはお前だろうと。確かに私は逆上していたかもしれない。でもあの場で他にどうします。違いますか?
幽霊が泣く、彼女がわめく。やめてやめてと泣きわめく。こんなわけの分からない修羅場はご勘弁です。うるさい、と幽霊を蹴り飛ばしました。怒りも頂点に達すると、こんな攻撃も効果をあげるんですね。
幽霊は壁に向かって飛んでいき、ぶつかるかと見えて、ふっと消えてしまいました。
その後ですか? 彼女とはすぐに別れました。て言うか、会ってもらえませんでした。
『帰って、帰ってよ!』
夜も明けぬうちに私は追い出されました。彼女に呼ばれて頑張ったのにこの態度。私が悪いんですか。世の中、力でしか解決できない事だってある。相手は人間じゃないんですよ。
翌朝、彼女に電話しました。謝る気はありませんでした。ただ急に追い出されてスマホを置いて来たんです。
『取りに来てよね』
彼女は吐くように言いました。
『でも、すぐ帰ってね!』
部屋のドアがわずかに開きました。私はドアを開け放とうとしましたがチェーンに阻まれました。大きな音だけ廊下に響きました。
『ほら』私のスマホを押しやるように手渡す彼女、その声は別人のようだった、そしてその顔の形、眼や口の角度も、明らかに歪んで見えました。
そしてドアが閉じられる直前、彼女の肩越しに、睨む顔が覗いたんです。あのおかっぱの女の子。
つき合ってられませんよ。こっちから願い下げです。彼女は私よりオバケが大事なんです。女は彼女一人ってわけでもないし。だいいち私は、本来、現実主義者なんですからね……
「いやあ、まさに修羅場でしたねえ。参考にさせていただきます」
私――アレシアは笑って言った。取材の謝礼は薄いけどね。この店のコーヒー代として何杯分くらいだろ。
「こんな話、信じるんですか」
「そりゃもう。そう思われたから詳しい話をお願いしたわけで」
「プロの勘、ですね」
まあな。実は見たまんまの判断だけど。
男は爽やかに笑って席を立ち、私は改めて彼の背中を見る事になる。私以外には見えまい、その有様ときたら。
(ああ……)
業の積もったその肩から背には厄介な影がびっしり、層となって蠢いていた。
何体かの人影は、おおむね若い女と思われた。顔も定かでないのに、その表情は明白な憎悪を放っている。絡んだ髪の毛と混じってべったり重なり合って貼り付いている。赤子の影が繋がれたように後を漂う。何やら小学生くらいの女の子まで膨れた顔でくっついている。頭のない猫っぽい影が七つ八つほど纏わり付く。色んなモノを引き連れて去って行く、その姿はさながら百鬼夜行で、会ったのが日の高い時刻で本当に良かったと思う。
(あいつ、いったい今日まで何をやらかしてきたんだ)
オバケより彼の方がよほど怪しいと思わざるを得ない。おかっぱの子も、そこを感じとっていたんじゃないの?
私は溜息をつき、冷めたコーヒーを飲むと、メモしたばかりの取材ノートを読み返す。
彼の話は、フェイクはかけてるだろうけど、大筋は実話だろう。いずれにせよ、聞いた話をそのまま載せるわけにはいかない。そして私が見たモノについても、だ。
(気になる所は山ほどあるけど)
これ以上の詮索は無用だ。自分は三流ホラーコミック誌のクソライターであって、現代の闇と向き合う社会派ルポライターとかじゃないのだ。ましてや心霊探偵ごっこなど始める気は微塵もない。私は本来、現実主義者なのだから……
ダメ、絶対。