鳴れ、鳴れ、我が心をも鳴りゆるがせ!
打て、打て、思う様私を打擲せよ!
雷鳴、雷電、豪雨の中を、こごみがちな背をさえ真直に伸して、自分ながら打ちのめしてやり度い程平静に歩いて行くのが痛快でたまらない。申し訳ばかりに拡げたレース張りの白い小さなパラソルに、大きな斑点をヅブリヅブリと打ち込んでいた水滴が、忽ち傘全体に滲み込むと、透明な銀の簾が稍もすればはみ出そうとする私の四囲に垂れ初める。夜と死をシムボライズしたような強い黒地の単衣が、しぼらずにかけた乾物のようにベットリと重く身にまつわりついて薄気味悪い程つややかに光る。
『ぬれがらす!』
私は何故ともなく小声でこう囁いてみた。
其の日私は久しぶりでめぐり逢うた友と、静かに言葉少なに打ち語らいながら、物さびれた冷い不透明の気が何となく不吉な前兆のように立て罩めた町はずれの裏通りをゆっくり歩いていた。友と別れて車台に身を乗せて後も、磨ぎすました刃物のような稲光りのキラリと冷くさし入る時にさえ、此のおっとりしたムードは少しも破られなかった。それ故私は騒擾の極みを尽したような雷雨の真只中にしぼり出された時にも、平然と華奢なパラソルをかかげて、乗る前と同じのろさに落ついた歩みを進める事が出来た。
交叉点の電柱に軽く背を持たせて、私はぢいっと目を睜った。私は人間の本性を容赦なく暴露したような街路の奇観を皮肉に瞰下する程のいたずら気もなかった。乗るべき車台が早く眼の前に来ればいいとも思わなかった。私はある甘い憂鬱の中に、只見えぬ何者かを夢見ていたのだ。まとまりのつかぬ追憶の破片に我を忘れて佇んでいたのだ。
気のついた時私は、鋭いメスで背中を立ち割られるような感触に身ぶるいしていた。パチャつく大きな重い水滴は無数の泡沫となって、地表を覆う泥水をもその赤土色の烟りの中に溶し込んでいる。見れば私の低い駒下駄は殆んど濁水の中に吸い込まれ、足袋も着物の裾も一様に無数の細い泡沫の虜になっていた。
『ぢっとしていたってよごれるものは汚れるんだ! 能う限り汚せ! 汚すがいい!』
私の頬は皮肉な薄笑いにふるえた。
二度目に土を踏んだ時には、白ちゃけた濁水が小路の傾斜に添うて気狂いのように疾走していた。身のぬくもりにふやけたような湿気と、後から後から流れ入る冷水とが、着物の下で奇妙な衝突を始めていた。二重張りの傘のレースの間にたまった水が、ともすればすっきりした細長い白い柄をわなわなとふるわせる程重くなって、その度毎に支える私の手を危うげにゆるがした。うなだれた私の傘に隠した顔をさえ、紫色の稲妻は脅かすように覗いた。でも私はそんな事には無関心だった。いいえ、私は心私かに『此のままの死』をさえ願っていたのだ。……傘の金具を捕えた電力が柄を伝って手から心臓へ――私はかすかな痺れをさえ脇の下のあたりに感じていた――私の身をただらしてゆく時、私は何の不安も抵抗もなく静かに死ぬ事が出来るだろう。おっとりした穏かな心で、パラソルの美の中に吸い込まれてゆく死程純なものが何処にあるだろう。しかし純な死は屍を離れたものだ。いいえ、屍は美しき死の灰だ。醜き生の頑弄物に過ぎぬ。私はランデを想った。何となしに好きなランデの死を思いつめた。
しずくとは云えぬ水の流れ落ちる薄物の単衣の裾は、意地悪く足に絡まりついて、器用な裾さばきをさえ遮げようとする。ヒイヤリと背から帯の下を抜け出る水の針に、私は時々我ともなくナーヴァスな身ぶるいをする。
ふと大通りに出た私は思わずもアッと驚異の眼を見張った。広い平面を塗りつぶした泥水に重い水滴が突入する毎に、バチャバチャと大きく黒ずんだ輪を描くと、そのひとつひとつが今生れ出た鳥の頭のようにさっと開いた長い嘴を大空向けて伸ばすと思う間に、赤土色の泥水の中に首を引っ込めてしまう。ピヨピヨという騒々しい合唱に、死んだような土は俄かに生命の躍動にもれ上がって来るのではないかと思われた。大地は今力の限り慟哭して、宇宙の大気を呼吸せんが為に、大空に向って無数の嘴を開いているのではあるまいか――
『鳥! 鳥! 鳥!』
と叫んだ時、私の心はもう晴れやかな幼児に帰っていた。数日来のいらいらしたムードも、ヒポコンドリアクな懊悩も、今は全く忘れ果てて、私は今太陽の光りの中に初めてパッチリと眼を見開いた自然児の透明な歓喜に酔うているのであった。私は無数の嘴の間に元気よく足を踏み入れた。
孤独な私! ひとりぼっちで歩いてゆく私! 静かな小きざみの歩みをつづけてゆく私! 気狂いじみた歓喜とエクスタシーに元気づけられて、わけもなくおどり立ちながら、向う見ずに歩いてゆく私! ――私の歩みは知らず識らず家の方に向いては居るけれど、私は帰路についているんでもなんでもなかった。私の行く先にはホームもない、人もいない。私はただ歩いているんだ。ひとりぼっちで歩いているんだ。行く末知れぬ寂しい途をたった一人で歩いているんだ。急ぐのでもなく、たゆたうのでもなく、そうかと云って気が進まないのでもなく…………
打て、打て、重い水滴よ、力の限り私を打擲せよ。打って打って打ち殺せ!
鳴れ、鳴れ、轟き渡る雷よ、私の胸に汝の響音を伝えよ。汝の偉力によって此の朽つべき肉を焼きただらせよ。不可抗な自然の偉力の中にのみ、私は随喜の涙を流す。
ドドッと恐ろしい音をたてて、路傍の小溝に溢れんばかりの濁水が、あせり狂って突き飛ばすように疾走して行く。ふとそれに目をとめた私は、感激のあまり思わずも
『ああ、嬉しい!』
と叫んだ。
―― 一九一九、六、一二 ――