≪表紙へ

3000字小説バトル

≪3000字小説バトル表紙へ

3000字小説バトルstage3
第23回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 6月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
大橋房
2295

結果発表

投票結果の発表中です。

※投票の受付は終了しました。

  • QBOOKSでは原則的に作品に校正を加えません。明らかな誤字などが見つかりましても、そのまま掲載しています。ご了承ください。
  • 修正、公開停止依頼など

    QBOOKSインフォデスクのページよりご連絡ください。

ぼくの好きな先生
サヌキマオ

 乾田紫苑さんは中学に入ってからはじめてできた友達で、出席番号が後ろだったのですぐに喋れました。私は小学校の時にソフトボール部にいましたが、中学にはソフトボール部がないのと、乾田さんが演劇部に入りたがっていたのと、担任の伊武先生が演劇部の顧問の先生だったので、私も演劇部に入ることにしました。
 伊武先生は男なのに女の人の格好をしています。なんで先生は女の人の格好をしているんですか、と聞く男子もいましたが「私にとってそういう格好が美しいからよ」と先生は言いました。とても優しい先生で、男子がふざけると困った顔をして注意するのですが、男子はあまり言うことを聞いてくれません――

「ちょっと智ちゃん」
 紫苑ちゃんは原稿用紙から顔をあげると不服そうな顔をしていた。私は髪の毛が多すぎるので思い切って短くしているのに、紫苑ちゃんは長く伸ばした髪をお団子にして、お豆さんのような頭の上で左右にまとめている。顔立ちはあんまりそうでもないけど、小学校の頃から演劇部で部長をしていたとかで、身のこなしはいかにも芸能人っぽい。
「これ、私のことを書く課題なんですけど」
「えっ、書いてるじゃん。中学ではじめてできた友達、って」
「違うし。ずっと伊武先生の事ばっかりじゃん」
「でも、それを云ったらさ」私は待っていましたと言わんばかりに、見せてもらっていた紫苑ちゃんの原稿用紙を裏返して見せつける。
「紫苑ちゃんだって私のことを書かなきゃいけないのに、自分のことしか書いてないじゃん。『小学校から演劇部の部長だったので、中学でも演劇部を続けたくて萬歳中学に入学しました』って。全部自分のことじゃん!」
「そんなことないよ。智美ちゃんは私と一緒に演劇部に入ってくれたいい友達ですー、って。ちゃんと書いてあるし」
 たしかに「夏瀬さんと一緒に演劇部で頑張っていきたいと思います」という一文で終わっている。友達の紹介文を書け、という宿題にしては十分過ぎる〆だと思う。
「まぁ、でも待って」紫苑ちゃんは手で私を制してきた。「もう、やめない? 宿題なんかでお互い悩むの、無駄じゃない? とりあえず明日の授業までに提出しちゃえばいいんだから」
 たしかにそれはそうだ。
「でも、これでちゃんと課題としてはクリアしてるのかな?」
「してないかもしれないけど、このままお互いに批判しあっていると、提出に間に合わないと思う――間に合わないほうが、罪が重くない?」
「そう――かも?」
 お互いのためだし、と両の手のひらで頬を挟まれる。しっとりとした手が気持ちいい。――まぁそうか。そうだよね。

「オラ、黙れ。喧せえ。クソして寝ろ!」
 演劇部に入って一番驚いたのは、覚えなければならない音響の操作よりも、伊武先生の豹変ぶりだった。
「発声だからって別に大声張り上げる必要はない。普通の声でいいから口に両手を当ててアで伸ばせ。稽古に来たら始まるまでずっとやってろ――台本が出来て自分にセリフが与えられたら延々と喋れ。無駄にくっちゃべっている暇があったら、身に沁みるまで自分のセリフで発声。いいな」
 別人なのだ。一年生に国語を教えている、なんだかふんわりした頼りなげな女の――男の先生だった人が、演劇部内では完全に女を棄てている。「てめぇ曲ぅ、ホールでは走んなっつってんだろうが!」というセリフを中一のみんなにも聞かせてみたい。あ、マガルというのは高校二年生の俵村先輩だ。高校部の副部長。
 私と紫苑ちゃんとであまりのことにぼーっとしていると、伊武先生がしまった、という顔をしている。
「あ、いけね。中一ふたりに云っとくんだった。わたし、中一では『なんだか頼りないけど守ってあげたくなる先生』的なキャラで一年通す縛りなんで、よろしくね?」
「絶対何処かからバレると思うんですけど」
 通す縛りって、と失笑する高校生の先輩にも得意げな顔を見せる。
「バレたらバレたでいいんだよ、どうせそういう『遊び』だし――と、あ、そこの二人、これも内緒ね……よろしくね?」
 最後の「よろしくね」だけ中学一年生の担任の顔をして、ふわっと笑ってみせる。
「よしお前ら、もうセリフは入ってんだろうな!?」
 ある意味、二重生活だ。教室で「ほら、ここは大事だからちゃんと聞いてぇ」と言っている人と「オラ、クソテンポで劇をクソにすんじゃねーぞクソが」という人が同一人物なのである。同じクラスの中でははじめは反抗的だった男子もだんだんなついてきて、お昼ごはんのときには先生にくっついてご飯を食べようとする。部活では高校部の部長をはじめとして何人かがあきらかに語尾にハートマークをつけて伊武先生の演出に返事をしたりしている。
「バラしちゃおうか」
 不意に言われて何のことかわからずに、ぼくは箸をくわえたまま紫苑ちゃんを見た。
「ふぁに?」
「え? クラスと演劇部とでは先生は別人ですよー、って」
 昼休みにはもっとたくさんの友達でお弁当を食べたりするのだが、今日はたまたま紫苑ちゃんと僕の二人だけだった。で、そういう話になった。
「どうするの? ばらして」
「だって、変だと思わない? 女装した先生が担任して国語の授業してて、しかもこっちがわは演技だ、って」
「でも、それってさ」
 ぼくは一応、誰かが聞き耳を立てていないか見回した。
「そういう何もかもを普通にみんな受け入れてるじゃん?」
「それもおかしいと思うの」
「おかあさんは」
 と言い出して、ああ、この癖ももうやめなきゃな、と思う。
「おかあさんは何か言ってる? 紫苑ちゃんの」
「様子をみましょう、って」
 もし問題があるんならいまごろ学校の先生なんてやってないでしょ、って。
「じゃ、そういうことなんじゃない?」
「智ちゃんは、それでいいわけ?」
 少しイラッとした。
「どうだろう……紫苑ちゃんは、なにが不満なわけ? 逆に」
「私は――」
 紫苑ちゃんは思いのほか落胆した様子で紙パックのミックスジュースをすする。
「うまく言えないんだけど、なんだか気持ちが悪い――すっきりしたい」
「すっきり?」
「うん。うまく言えない何かを、すっきり」
 話はこれ以上進まなかった。五時間目に提出する作文の宿題の話になった。

 放課後、視聴覚教室への道すがら、男子トイレから出てくる伊武先生とはち合わせた。なんとなく一緒にいくことになる。
「演劇の経験は?――ない。ソフトボール? ああ、っぽいぽい」
 伊武先生の軽く撫ぜるような視線を感じて、ぼくは軽く身をかわす。
「男がいねえからなぁ。きっとゆくゆくはかっこいい男子役として活躍してもらうかもなぁ……あ、劇部的な需要としては、髪は伸ばすなよ? 伸ばしたかったらしょうがないけど。ただ、貴重な男要員だ――それとも」
 お姫様、やりたい? と聞かれて思わず首を横に振ってしまった。
「先生」
「はい?」
「中学生の相手って、つまらないですか?」
「……ああ、昨日のか。そう取られたなら申し訳ない。去年まで高校三年生の相手をしてたからね。別に君らに罪があるわけじゃないけれど、高三と比べりゃ君たちゃ宇宙人だ。何を云ってるかわからないし、追いかけ回すのに体力も使う。ということは、比較的体力のある教員が中一にまわされるわけだ」
 君も乾田君とも、きっと長い付き合いになるぞ。そう言われて、思わず私は深々と頭を下げてしまった。
 不束者ですが末永くよろしくお願いいたします。そんな気分になった。
ぼくの好きな先生 サヌキマオ

予備列車の夜
蛮人S

『予備列車』

 これが今日の訪問先の名称だという。名前からして商売の程度が知れる相手であり、馬鹿馬鹿しいと思う。こんなもんのために、こんな時刻に足を運ばねばならぬのか。私にはもっと大事な仕事があろうに、こんなもんに自ら足を運ばねばならぬのか。「課長、例の、そろそろ行きましょうか」と武田君が声をかけたのは、出発の十分前だった。まるで不意打ちだろ、と思う。私は君と違って幾つも予定を持ってて管理するのも大変なのだ。だからもっと早い時間から声をかけてもらわねばと、前にも言ったはずだが、仕事の段取りというものを今だに理解していない。しかも定時を一時間近くも過ぎてからだ。知らずに私が退社していたらどうする気だったのか?
 憮然として、ホワイトボードに予備列車直帰とだけ書いて会社を出た。
(この武田という奴は、)彼への批判は止めようにも止まらない。そういう奴だからだ。(五年目にもなって、どうにもこうにもズレている。報告、連絡然り、仕事の形も然り。感覚が違うのだ。そら、私の前をすたすた一人で歩いていく。私が子供のように後をついてくるものと思っているのだ)
 私は溜息を吐いたが、どうせ彼には聞こえまいし、聞こえても意味まで察するまい。
 私は再び溜息を吐いた。
 武田によれば『予備列車』はターミナル駅の巨大な駅舎の奥にあるらしい。上へ下へ、改装に改装を重ね、ビルとビルとを繋げ、すっかり肥大化した駅は小奇麗で珍妙な代物になっていた。一体、街というのは時が経つほどくだらないものに成り下がる。武田は嬉々として、あれこれ店の名前を挙げ、私はいちいち頷いてみせてやる。横文字の看板が並ぶ角を次々と曲がり、エスカレーターを上り、そして下り、コインロッカーを抜けるとまた名店街がある。武田はまるで自分の拵えた庭を案内するように、奥へ奥へと連れまわす。君はただ、ここに囚われているだけだろうが。私は溜息を吐くが、彼には聞こえまい。
 そのうち次第に周囲の人影は減り、華美な店もなくなって、コインロッカーと壁ばかりの通路となる。「あれ」と頓狂な声を出して武田は立ち止まり「どっちだっけ」と呟いてスマートフォンを取り出すのだった。
「ちッ、しっかりしろよ!」声を荒げてやると、彼は寂しげな目で一瞬こちらを見て、また画面に目を戻す。こいつは人を急かしておいて、禄に下調べもしていないのだ。やがて武田は「ああ、こっちです」と言うや、壁にあった鉄扉を開いた。
 そこは薄暗い非常階段の踊り場だった。扉を閉めると外の喧騒は全く届かず、二人の足音ばかりが響いた。「本当にこっちだろうな」と言いながら、階段の手すりからそっと上下を覗うと、どちらも薄暗くて何階まであるか知れぬ。階段をワンフロア降りると、また扉があり『予備列車ホーム通路』と書かれていた。
 扉の先は真っ直ぐな通路で、左右には各ホームに降りるらしい階段がいくつも並ぶ。窓はなく、ホームは見えない。新しい路線の乗り場だろうが勝手が分からないので武田を見ると、彼もキョロキョロしている。本当に使えない奴だ。行くぞ、と言って先に歩き出す。
 まず行動する、という事がこいつは出来ない。さらに言うと、見知らぬ雰囲気に呑まれているのだろう。経験のない事に出会うともう対応できない。結局、私が前に出るのだ。仕方がない、いつもの事だった。
 しかし歩くうち空気は更に変わっていった。気付くと目の前には星条旗が翻っていて、その先は外国関連だろうか、赤絨毯が敷いてあり、何か自分には場違いな感じにも思えてきた。これはそろそろ階段を下り、ホームへ降りろと言う事かもしれない。
「なあ、どうだろうね武田君」と振り返ると彼の姿は無い。「おいッ」
 困るじゃないか、肝心な時に消えやがって。無責任野郎が。私に仕事を丸投げしようと言うのか。馬鹿め。毒づきながら階段を降りる。と思ったらホームにいた。

『予備』

 予備。ここが予備ホームか。確かにホームだが、他よりも明らかに一段低く、縁には崩れた箇所もある。駅名の表記も何か字体が違うのだった。視界の右隅に人影が動いた気がした。そこには黒い車掌の服を着た女が立っていた。
「おい、君、ちょっと訊くが」
「ご乗車の方は……」
 そう言って、女は私の背後を指差した。振り返ると、目の前に列車が停まっていた。玩具のような外観だった。スケール感のない車体は安物の玩具そのもので、行先表示には『予備』とだけある。
「ご乗車の方は……」と女は繰り返す。
「ふん」
 先方に連絡しなければならない。電話帳に入ってただろうか、と携帯を開いたところ「早く乗れよ」と後ろから背中を蹴られた。車掌だった。私は無様な足音をたて車内へ転がり倒れた。膝を強く打ちつけ、携帯が飛んで床に回った。
「何するんだ。お前、何様のつもりだ!」
「車掌様だよ。切符はあるんだろう」車掌は座り込んだままの私に近づくと、上着のポケットに無遠慮に手を突っ込んで探った。
「切符なんか無い。おい、上の者を呼んでこい」
 だが彼女は私のポケットから折り畳まれた緑色の紙を得意げに引っ張り出すと、音を立てて開いた。「はァ、これがあんたの」薄笑いとともに目を通し、やがて投げ返して車両を降り、きゅっと振り返った。
「いやあ、あんた、こいつは大したもんだ。こいつはもう、ふふっ、本当の天上へさえ行ける切符だよな」
 そう言うや脳天が破れたような笑いを撒き散らした。笑いながら外から扉を閉めた。こいつ、狂ってる。
「予備列車、扉よし、進行」
「待てよ。開けろ。おまえ車掌だろ」
「はあ?」
 彼女は発車メロディのボタンを叩いた。手順がおかしい。窓の向こうで、ばりばりという音が弾け、やがて鈍重で陰鬱な雑音混じりの音楽が半端に鳴り終わるや、列車は緩慢に動き出す。動き出したが何の音も揺れも無い。まるで停まったままだった。いや停まっていた。じりじり動き始めているのは駅の方だった。駅だけではない、線路、周りのビル、ネオンも、夜空の月まで加速を始めている。全てが去ろうとしていた。
(置いていかれる……)
 私は窓を叩き、車掌を呼んだ。おい、止めろ、おい、あんた。
「何だよ」
 車掌の顔が、大きく窓いっぱいに、べしゃりと貼りついた。私はひうと息を吸い、へたり込む。車掌の目は笑っている。その隣の窓にも顔が貼りついている。見知らぬ目が怒っている。その隣の顔は哀れみの目。武田君に似ていた。その隣は白眼。その隣は目が真っ赤だ。妻と娘の目だった。その隣の涙目は、死んだ母親の目だった。あらゆる目が私を向いて、何かを訴える。車内放送が軋んで叫ぶ。
『次は……』
『次は……』
『次は……』
 突如、けたたましい嘲笑が響いた。
 私はもう、ただ耳を塞ぎ、身を丸めて泣きじゃくるしかなかった。知ってた。知ってたよ。今までもそうだし、これからも、本当は、知ってたんだ。世界は走って、飛ぶように走って、でも自分は泣いている。ただそれだけ、それだけの自分。知ってたんだ。みんなも本当は知ってたんだ。
 ごめんなさい。
 肩口にぼとりと何かが落ちる。目の前の床にも何かが落ちる。涙に滲む視界に降ってきたのは白い花と分かった。ぼとり、ぼとりと音をたて、次々、花が降ってくる。降り積もり、積もって私を埋めて、世界はいつしか流れ去り、私を納めた鉄の車両は白い花に埋められて、汽笛は長々と吼え、深い闇の彼方へ消えるのだ。
予備列車の夜 蛮人S

汝の針は何処に在りや
今月のゲスト:大橋房

 鳴れ、鳴れ、我が心をも鳴りゆるがせ!
 打て、打て、思う様私を打擲せよ!
 雷鳴、雷電、豪雨の中を、こごみがちな背をさえ真直に伸して、自分ながら打ちのめしてやり度い程平静に歩いて行くのが痛快でたまらない。申し訳ばかりに拡げたレース張りの白い小さなパラソルに、大きな斑点をヅブリヅブリと打ち込んでいた水滴が、忽ち傘全体に滲み込むと、透明な銀の簾が稍もすればはみ出そうとする私の四囲に垂れ初める。夜と死をシムボライズしたような強い黒地の単衣が、しぼらずにかけた乾物のようにベットリと重く身にまつわりついて薄気味悪い程つややかに光る。
『ぬれがらす!』
 私は何故ともなく小声でこう囁いてみた。
 其の日私は久しぶりでめぐり逢うた友と、静かに言葉少なに打ち語らいながら、物さびれた冷い不透明の気が何となく不吉な前兆のように立て罩めた町はずれの裏通りをゆっくり歩いていた。友と別れて車台に身を乗せて後も、磨ぎすました刃物のような稲光りのキラリと冷くさし入る時にさえ、此のおっとりしたムードは少しも破られなかった。それ故私は騒擾の極みを尽したような雷雨の真只中にしぼり出された時にも、平然と華奢なパラソルをかかげて、乗る前と同じのろさに落ついた歩みを進める事が出来た。
 交叉点の電柱に軽く背を持たせて、私はぢいっと目を睜った。私は人間の本性を容赦なく暴露したような街路の奇観を皮肉に瞰下する程のいたずら気もなかった。乗るべき車台が早く眼の前に来ればいいとも思わなかった。私はある甘い憂鬱の中に、只見えぬ何者かを夢見ていたのだ。まとまりのつかぬ追憶の破片に我を忘れて佇んでいたのだ。
 気のついた時私は、鋭いメスで背中を立ち割られるような感触に身ぶるいしていた。パチャつく大きな重い水滴は無数の泡沫となって、地表を覆う泥水をもその赤土色の烟りの中に溶し込んでいる。見れば私の低い駒下駄は殆んど濁水の中に吸い込まれ、足袋も着物の裾も一様に無数の細い泡沫の虜になっていた。
『ぢっとしていたってよごれるものは汚れるんだ! 能う限り汚せ! 汚すがいい!』
 私の頬は皮肉な薄笑いにふるえた。
 二度目に土を踏んだ時には、白ちゃけた濁水が小路の傾斜に添うて気狂いのように疾走していた。身のぬくもりにふやけたような湿気と、後から後から流れ入る冷水とが、着物の下で奇妙な衝突を始めていた。二重張りの傘のレースの間にたまった水が、ともすればすっきりした細長い白い柄をわなわなとふるわせる程重くなって、その度毎に支える私の手を危うげにゆるがした。うなだれた私の傘に隠した顔をさえ、紫色の稲妻は脅かすように覗いた。でも私はそんな事には無関心だった。いいえ、私は心私かに『此のままの死』をさえ願っていたのだ。……傘の金具を捕えた電力が柄を伝って手から心臓へ――私はかすかな痺れをさえ脇の下のあたりに感じていた――私の身をただらしてゆく時、私は何の不安も抵抗もなく静かに死ぬ事が出来るだろう。おっとりした穏かな心で、パラソルの美の中に吸い込まれてゆく死程純なものが何処にあるだろう。しかし純な死は屍を離れたものだ。いいえ、屍は美しき死の灰だ。醜き生の頑弄物に過ぎぬ。私はランデを想った。何となしに好きなランデの死を思いつめた。
 しずくとは云えぬ水の流れ落ちる薄物の単衣の裾は、意地悪く足に絡まりついて、器用な裾さばきをさえ遮げようとする。ヒイヤリと背から帯の下を抜け出る水の針に、私は時々我ともなくナーヴァスな身ぶるいをする。
 ふと大通りに出た私は思わずもアッと驚異の眼を見張った。広い平面を塗りつぶした泥水に重い水滴が突入する毎に、バチャバチャと大きく黒ずんだ輪を描くと、そのひとつひとつが今生れ出た鳥の頭のようにさっと開いた長い嘴を大空向けて伸ばすと思う間に、赤土色の泥水の中に首を引っ込めてしまう。ピヨピヨという騒々しい合唱に、死んだような土は俄かに生命の躍動にもれ上がって来るのではないかと思われた。大地は今力の限り慟哭して、宇宙の大気を呼吸せんが為に、大空に向って無数の嘴を開いているのではあるまいか――
『鳥! 鳥! 鳥!』
 と叫んだ時、私の心はもう晴れやかな幼児に帰っていた。数日来のいらいらしたムードも、ヒポコンドリアクな懊悩も、今は全く忘れ果てて、私は今太陽の光りの中に初めてパッチリと眼を見開いた自然児の透明な歓喜に酔うているのであった。私は無数の嘴の間に元気よく足を踏み入れた。
 孤独な私! ひとりぼっちで歩いてゆく私! 静かな小きざみの歩みをつづけてゆく私! 気狂いじみた歓喜とエクスタシーに元気づけられて、わけもなくおどり立ちながら、向う見ずに歩いてゆく私! ――私の歩みは知らず識らず家の方に向いては居るけれど、私は帰路についているんでもなんでもなかった。私の行く先にはホームもない、人もいない。私はただ歩いているんだ。ひとりぼっちで歩いているんだ。行く末知れぬ寂しい途をたった一人で歩いているんだ。急ぐのでもなく、たゆたうのでもなく、そうかと云って気が進まないのでもなく…………
 打て、打て、重い水滴よ、力の限り私を打擲せよ。打って打って打ち殺せ!
 鳴れ、鳴れ、轟き渡る雷よ、私の胸に汝の響音を伝えよ。汝の偉力によって此の朽つべき肉を焼きただらせよ。不可抗な自然の偉力の中にのみ、私は随喜の涙を流す。
 ドドッと恐ろしい音をたてて、路傍の小溝に溢れんばかりの濁水が、あせり狂って突き飛ばすように疾走して行く。ふとそれに目をとめた私は、感激のあまり思わずも
『ああ、嬉しい!』
 と叫んだ。

 ―― 一九一九、六、一二 ――