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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第24回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 7月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
高浜虚子
2883

結果発表

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悪魔を憐れむ歌
サヌキマオ

悪魔ーっ
ちょお可哀想ー
足も臭いしぃ―

 今日もパパのピアノと歌で目を覚ました。実に不愉快だ。
 ピアノは職人に頼んでそうとう変てこな調律にしてあって、来る職人は全て途中で仕事を拒否してくるか、気を病んで音沙汰がなくなっていく。ママだって三年前、私が八歳のときに「療養」と称して故郷のドブロジャに戻ったきり帰ってこない。
 パジャマのままパパの部屋の方に向かおうすると話し声がする。早朝だというのに人が来ているようなので、慌てて部屋に戻って着替える。
「おはようございます、お父様」
「やあおはよう」
 私はパパとのおはようのキスを済ませると、部屋にいた燕尾服の紳士に深々と一礼する。
「娘のヘンリエッタです……こちらは帝国銀行副頭取のマクマディンさんだ……お父さんはもうちょっと仕事をせねばならないから、お前は先に朝食を済ませてしまいなさい」
 食堂の扉を閉めるとピアノの音がしなくなる。ふっ、と静寂が訪れて、窓の外に並ぶ幾何学模様の庭園がいっそう朝の光に輝いて見える。
 メイドのパーシモンに促されて席に着く。食堂にはメイド二人と執事の他には誰もいない。食卓の反対側に父が座ると、いつもの光景となる。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようガンギエイ」
「本日の予定をお知らせいたします。本日は九時半よりピアノのレッスン、休憩を挟んで十時半より家庭教師がまいります。正午より昼食ですが、グレタ様がお見えになりますので、ご一緒に」
「グレタってどのグレタ?」
「サイモン家のグレタ様です。ヘンリエッタ様のお祖母様の従兄の玄孫の嫁ぎ先で出来たお嬢様」
「つまり、私の従妹ね。ひいお婆様でもアナ叔母様の旦那さんの妹でもグレタ=ガルボでもなく」
「左様でございます」
「それはジョン叔父様とお祖母様の従兄の玄孫との間に出来た娘こと従妹、とどっちが説明として簡潔か、という話よね」
「おそれいります」

――そりゃあザンギエフののほうがいいわ。
 急に時間が飛んだ気がする。目の前のグレタは相変わらず全身ころころとして悩みもなさそうだ。ジャムを挟んだビスケットを三つ四つ口に放り込むと、べたべたと食べにくそうにしている。
「ガンギエイね。ザンギエフじゃなくて」
「それにしても」グレタは話に飽きたように食堂の外に耳を澄ませる。
「あなたのお父様は天才ね。伯父様のレコードのお陰で屋根裏に鳩が卵を産まなくなったわ」
「そりゃああなたね、必要なときだけレコードの針を落とせばいいのなら気楽なものよ。こっちったら、何もしなくても聞こえてくる」
「そんなこと言わないであなた。今度の曲もすばらしいらしいと父様から聞いたわ。なんでも海軍が海賊どもに蓄音機で聴かせるんですって」
「そうすると、どうなるの?」なんだか変てこな曲を作るだけの父にうんざりしていたが、作られた曲がなぜそれほどまでに珍重されているのかというのは、ついぞ考えたことがなかった。
「私もよくは聞かなかったんだけど」さほど興味がなさそうにクレタは続ける。「なにしろ悪さをしなくなるらしいわ。きっと改心するのよ」
「あの曲で!?」
「もしくは、嵐を呼ぶとか」
「あの曲で!?」
「じゃあ、何もかもイヤになってみんなして海に飛び込むのかも」
「あ、それならわかる。海軍の人々も含めて」
 しばらく二人でクスクスと笑う。食堂にガンギエイが入ってくる数秒の間「ドケツに塩を揉み込んでぇ」という一節が流れ込んできて、二人して黙り込む。
「でもいいなぁ、お国のために役に立つ仕事だもの。私もここの家に生まれればよかった」
「それは違うわ。ジョン叔父様だって素晴らしいお仕事をなさっているじゃない」
「私は嫌よ――そんなのわかりきったことじゃない! 知ってて言うんだから、ヘンリエッタ姉様の意地悪!」
 グレタは手に持っていたジャムのビスケットを無理に口に押し込むと、食卓に突っ伏した。
「いえ、きっと素晴らしい仕事だわ。叔父様のお陰で、橋の掛からない崖でも荷物が運べて」
「だからといってね、だからといってちょっと考えてよヘンリエッタ姉様。自分の父親がオナラで空を飛び回るとか、耐えられないわ!」
「ほらほら、興奮しないで」
 仕事を切り上げたらしいパパが食堂に入ってきた。
「グレタ御機嫌よう。ジョンは元気にしてるかね」
「ええ、おかげさまで鼻風邪一つなく」
「そいつは重畳――で、何をそんなに盛り上がっていたのかね、ふたりとも」
「その、ジョン叔父様の仕事のことで」
「おお、神様からいただいた才能を存分に使えているのだ。こんな幸福なことは他にないだろう」
「そうかもしれませんが、私には納得いきません」
 グレタが金切り声になりかけるのを、パパは柔らかな笑みを浮かべて見ている。
「だがねグレタ、我々もこうして今はそこそこ裕福な暮らしを送れているが、あの屁っこき虫のジョンがいなければ、きっと我々兄弟は一生貧乏な豆屋のままだったろう。おそらく君もヘンリエッタも生まれていなかった。それに比べれば洗濯物が少々増えるくらい、瑣末なことだと思わんか。――そうだろう?」
「それでも、それでも私は――」
「いや、ちょっと待った」パパはグレタの声を制して動きを止めた。「来た。『洗濯物が少々増えるくらい瑣末なことだ――』来たぞ、きたきた! きた!」

 泣きながら
 ちぎった邪神王にー
 まあまあと
 洗わぬ洗濯物をかぶせちゃうー

 後に「洗濯物で縛る。夜を」と名付けられたこの曲は家政婦協会が二十七万で買っていった。なんでも、アイロンの熱量をうまく制御できるようになるそうだ。
 夕方からはパパと町に食事をしに出かけた。家から馬車で泥炭の野を走らせると、毎日夕方になると立ち込める霧の合間から、ぼつぼつと街の明かりが見え始める。私はこの風景が好きだった。合間の光は段々とひとつひとつが輪郭を持ってきて、町境の橋を渡る頃にはすっかり人々の賑わいが見渡せる。馬車は大通りを駅に向かって緩やかに走ると、一軒の大きな建物の前に停まる。まだ新しく清潔にしてあってガス照明の下で「猫と棍棒亭」の看板がぶら下がっているのが見える。
「おや、これは私の『ぶいやべーす甚句』だ」
 店内には蓄音機からのものらしき落ち着いた管弦楽が流れているが、その奥で、たしかにごく小さい音量で男の唸る声が耳の底に届く。厨房からだろうか。
 店のオーナーは丁重にもてなしてくれる。旦那さんのお陰で牡蠣が長持ちする、と礼を言われる。
「水揚げから実に五日経つけど誰も牡蠣に中らんのです。あの曲は実に神様の贈り物です実に」
 生牡蠣にキャビアとレモンを添えたものが運ばれてくる。きっと体には大丈夫なものなのだろうが、未だに私にはどうしても美味しいと思えない。
「たしかに私の作った曲のなんらかの力で腐ってはいないようだが、とてもこの牡蠣は新鮮だとは思えない」
 シャンパンはよく冷えていてとても美味しい。加えてアンチョビのパスタはいつでも美味しい。なぜならアンチョビだからだ。ここからクレームブリュレまでの流れを私はいつも楽しみにしている。
「ヘンリエッタ、お父さんの人生は当人のあずかり知らぬところで人の役に立ってしまう人生なのだが、決して真似をしてはいけない。本人のわからぬもの、きっと何処かで間違いを起こしているからだ」
 その夜からしばらくパパは鬱々と過ごしていたが、結局私の息子、パパにとっての孫を見るまで曲を作り続けている。
悪魔を憐れむ歌 サヌキマオ

レッツゴー履中天皇
蛮人S

 仲冬の寒空の下、馬は難波宮から大和へ向けて、ぽくぽく歩む。
 阿知使主あちのおみは静かに焦っていた。
(そろそろ起きてくれないかな、陛下)
 馬上に据えた輿で、天皇・伊邪本和気いざほわけは爆睡していた。追手の事を思えば、もう少し急ぎたい。
(仕方ないな)
 馬の歩みを早めてやると、輿は大きく揺らぎ始める。
「あう……あう?」
「おお? 御目覚めでいらっしゃいますか、陛下」
 天皇は朦朧とした目で、阿知を見た。
「阿知やんけ」
「はい」
 阿知は技術団の長として大陸から来た。才芸に富み、天皇からの信も厚い。
「寒いのう。ここ、どこ?」
多遲比野たじひの羽生坂はにうざか近くに御座います。近鉄電車だとアベノから20分ですが、今は古墳時代なので最新の馬です」
「ワイ、難波宮におったやろ? なんで?」

 阿知は三行で手短に説明した。即ち、
・即位して初の新嘗祭の日、陛下が宴席で大酒飲んで寝入る
・陛下の弟で皇太子の墨江中王すみのえのなかつおうが天皇抹殺を目論み放火w
・決死の救出劇&逃走中 ←今ここ

「まさか弟が……そんな」
「お察し申し上げます」
「……馬を止めよ」
「はい」
「一首詠む」
「は?」
 天皇は詠んだ。

 野っ原で寝てると知ってりゃ風除けの
 テントくらいは持ってきたのに

 酔っ払いの寝起きにしても酷い歌だ。阿知は呆れたが、最悪の事態なればの正常性バイアス、と思った。
「陛下……この苦難を越え、次は天幕持って訪れましょう」
「おー」
 天皇は気のない返事をして、瓢箪の水をがぶ飲みした。その間、阿知は来た道を振り返っていた。夜空の彼方が赤々と揺らぐ。難波宮が炎上しているのだった。
「阿知、もう一首」
「……はい」

 羽生坂ふり返ったら陽炎は
 燃える家々 あれぁ嫁の家

 こんな歌でも御后様を案ずる御心は滲んでいる、と阿知は思った。天皇は遠い目のまま尋ねた。
黒媛くろひめはどうした。灰になってしもうたのか……」
「御安心を。御后様は難を逃れた模様です」正確には天皇を連れ出そうと奮闘する阿知らを尻目に、黒媛は一番に后宮から逃げていた。
「あ、そう」
 天皇は気のない返事をして、水を呷った。
 とにかく道を急がねばならぬが、先の様子も気になる。墨江中王に同調する者が潜んでいるかも知れぬ。大和へ抜ける大坂峠に近づく頃、一人の女が音もなく現れ、輿の前に畏まる。阿知が偵察に出した忍びだった。
「かがり、様子は」
「不審な兵が集結しています。ここは当麻路たいまじへ迂回を」
「分かった」
 当麻路は古くからの街道で、遠回りとなるが進むには易い。
「申し奉ります。この先に敵の伏せております故、当麻の方へ回ります」
「阿知よ」
「はい」
「今の女、だれ? 何で網タイツ履いとるの」
「……流行じゃないっすか? さあ一旦引き返してから大和へ」
「待て」
「……歌で御座いますか」
 阿知は漏らしかけた嘆息を抑える。天皇は詠んだ。

 大坂で出会ったギャルに道訊けば
 当麻まわりして帰りと言われた

「おー陛下! 地名の当麻たいまと、遠回りを掛けるとは! 流石! 日本一」
「ほう、ほう、分かるか。上手いこと出けとるやろ!」
 得意げに頷きながら、天皇は輿に転がり、布を被った。
「のう、阿知」
「はい」
「……堪忍したれや、阿知」
 転がったままの背に阿知は答えた。
「我が君こそ我が命……私が何をぞ厭い得ましょう」
 これは偽らぬ本心である。とりわけ天皇の深く酔わぬうちならば、阿知も自身に素直で居られるのだったが。


「のう、阿知の?」
 天皇の目が充血している。昨日も泥酔して難に遭ったのに、ようやく辿り着いたこの神宮で、天皇はまたも飲んでいた。なぜ神社には酒倉がある。仏教寺ならあり得ん、と百済出身の阿知は心で毒づいた。
「黒媛のことやけどな」
 天皇は酔うと延々絡むのが常だった。
「……はい」
「黒媛は、ホンマはワイの弟とデキとるんやろ」
 阿知は命じられて口に運んで見せていた杯から酒を吹いた。
「へ、陛下、さような事は……」
 天皇は完全に出来上がっていた。
「じゃかましい! ワレこの期に及んでナニ綺麗事ぬかしとんじゃ! 墨江のガキぁ何ぞ黒媛にそそのかされての犯行じゃ。ホンマけったくそ悪いでワレ。弟とか全員、前もって皆殺しにしといたら良かったわ!」
「社殿で無茶を語らないで下さい……」
「せや、水歯別みずはわけ、水歯別のガキ!」
 水歯別王は墨江中王の弟、兄弟の三番目である。
「あれァ年下の癖に一番デカい顔しよるからな! しかもイケメンときとる、絶対グルやで。いやアイツこそ真犯人ちゃうんけ。ああッ分かったッあんガキも黒媛と……」
「お控え下さい。余りにも……」と諫めつつも、水歯別王の怪獣じみた肉体と、不釣り合いに端麗な容貌、侮れぬ知性を思い浮かべれば、阿知の脳裏にも不穏な妄想が広がるのだった。阿知は身を震わせた。
(いかんいかん)
 心を静め、身を落ち着けようとしても、阿知の震えは、地から伝わるかのように止まらない。いや確かに地が震えている。ずうん、ずうんという響きが次第に近づくのだった。
(地震? いや……これは足音)
 表で声が上がった。
「申し上げます。蝮部たじひべの水歯別王殿下がお見えです」
「何いぃ」
 阿知が戸を開くと、そこには雲衝くばかりの大巨人が立っていた。見紛う事なき水歯別王である。太い声が頭上から降ってきた。
『兄上ェェ……この度は、とォォんだ御災難でェェ』
 身長は三メートル超、山の崩れる勢いで身を折り、地響きとともにひざまずくや、美形の巨大な笑顔が眼前に広がる。にいっと開いた唇の間には、生まれた時から生えていたという白い歯が並び、光る犬歯は常人の親指ほどあった。
 天皇が飛び出してくる。
「水歯別ェ! ワレぁ墨江と結託してワイを討ちに来よったんけ!」
『ノン、ノン、滅相も御座いません……ミーは兄上の危機を知って参じたまでェェ』
「ほな、身の潔白を見したらんかいワレ! ホンマに謀反の心無しっちゅうのんなら……墨江の首、ここへ持って来さらせ!」
『オー、兄上……』
(結構えげつないです、陛下)
 命令を拒めば水歯別王もまた逆賊。しかし自らの実兄たる墨江中王を討てば、それもまた悪逆、さらに……。
「どないじゃ、水歯別」
『ウィ……御意のままに』
 天皇はのけぞった。
「あーっ、やっぱりそうじゃ! ホラ、阿知、今の聞きました? このガキぁ自分の兄貴でも平気で刃を向けよる、そーゆー人間なんじゃ!」
(いまそれ言うの?)
『ノン、ノーン! そんな恐ろしい事はできませェェん』
 水歯別はかぶりを振ると、再び歯を覗かせた。
『……ミーの思うに謀反の大罪は……きっと墨江のお兄様が自ら償う事となりましょう……ここは何とぞ安心して、水歯別にお任せ下されェェ』
(策があるんだ)
 まさか本当に全部この人が仕組んだんじゃ。阿知はそう思ったが、口にはしなかった。
 天皇は歩み出ると、両手で水歯別の小指を握りしめた。
「分かった、手伝うてくれ、水歯別……ワレぁ出来た弟じゃ。ワイはホンマはハナから信じとったんやで。のう、阿知」
「……はい」
 水歯別王に陛下へ仇なす心は無かろう、と阿知は思った。墨江中王が悪心の芽を隠していたのは事実だし、これを合法的に除いて皇太子となり、自らを世に知らしむ事が望みだろうか。
(そして何より……)
 結果的に陛下さえ安泰なら、阿知はそれで良いのだった。
「堪忍したれや……水歯別」
 弟の指を赤子のように握りながら、どうやら本気で涙ぐみ始めたらしい陛下の姿を見つめながら、阿知もまた、何度も深く頷いていた。
レッツゴー履中天皇 蛮人S

高野の火
今月のゲスト:高浜虚子

 神谷の宿の花屋の裏座敷に大きな欠伸をして仰向にふんぞり返ったのは三輪才兵衛である。
「弱ったな。いつになったら晴れるのだろう」と暗い軒から空を見上げた。秘密の山と言われる高野山のしげりはすぐこの軒端のきばから際限も無く続いて、縁鼻えんばなの柱から二尺と離れていない処に突立っている一本の大きな杉の幹には枝から伝うた雨水の流れが小さい蛇のように黒くうねって居た。
「仕方が無い、今夜は此処に泊るとせねばなるまい」と観念してまた一しきり降り募って来た雨の梢を見詰めて其儘そのままうつらうつらとなった。
 この時不動坂の泥濘ぬかった路を馬を追い追い降りて来たのは馬方の平作爺であった。蓑の下におし包むように隠していたのは燈明堂の貧の一燈の灯を移した一たばの線香であった。これは花屋の女中衆に頼まれて、この大雨にも濡さぬようにと、坂路にすべる馬を叱りながら心はこの線香の火に取られていた。

 花屋のお留は昨日から頭が重いって言ってふさいでいた。

 お留の朋輩は平作の呉れた高野の火でお留の背中に細い煙を立てた。高野の火は白い皮膚を黒く焦した。
 才兵衛がある物音に眼を覚した時、お留は枕許の障子を明けて晩飯を運んで来た。お留の顔は生れ代ったように晴々としていた。
「今の音は何かね」
「トロッコですよ」
「トロッコ?」
「ええ、このお山の木を伐り出す為に毎日何十台となく卜ロッコが通ります。すぐその縁の先の処にレールが通って居ります」
「いつの間にか天気になったね」と才兵衛は縁端に立った。トロッコはまた続け様にすぐ目の前のレールの上を過ぎ去った。四五けんの大きな材木が何十本となくその上に積まれてあった。
「昨日からの雨で休んでいた為に、お天気になってから続け様に通りますこと」と晴々とした峰を見上げた。
「姉さんは東京らしいね」
「ええ」
「どこをどう流れてこの高野の山の、昔は近松の浄瑠璃に浮名の立ったこの神谷の宿に流れついたのか、その身の上話を聞かせて呉れないか」
「オホホ、大変ですね、調子に乗った文句かなんかで。此家ここへお泊りになる方はよくこんな事仰しゃいますの。やれ高野の坊様が毎晩下駄穿きでお通いになるの何のと。それは昔のお話でしょう。今は御覧の通り大概中食ちゆうじきのお客様ゆかりで、たまにお泊りになるのは土木のお役人様か、旦那のような物好なお方くらいのもの」と才兵衛が差した盃にお留はなみなみと受けてお山の底の夕焼が森を通して障子に映ったのを振り返った。
 翌日才兵衛が花折坂にかかった時、
「御免遊ばせ」となまめかしい声をかけて後ろから追いついた一ちよう山駕やまかごには昨日にも増して仇めかしくお留が躰をはすにして乗っていた。
「おやお前も登るのかい」
「はい一寸ちよつと」と会釈して「またお山でお目にかかりましょう」と美しい白い歯を見せたと思う間も無く駕はもう才兵衛を駆け抜けて前を走った。

 常住院の源蔵阿闍梨あじやりは今日も衣の袖をたくし上げて意馬心猿にしもとをうちつつ峰から峰へと駆けっていた。今このお山に阿闍梨と名のつく難行苦行の修行者は、十二年籠山の飛雲阿闍梨が蓮華谷の高野豆腐つくる家の娘に恋をして麓の里に追われてから、七十三の寂然阿闍梨と、今年三十一になる血気盛りの源蔵阿闍梨の二人ばかりとなった。

 高野山大塔の周囲に八つの峰があってそれが八葉の蓮華に似ている、といって昔から高野の坊さんは誇っていた。その八朶はちだの峰を一千べん雨の日も風の日も欠かす事なく廻るのを回峰行かいほうぎようとなえて阿闍梨の苦行の一つになっていた。源蔵阿闍梨は去年の春の、松に藤波の掛った頃から一年足らずの難行に肉落ち骨立ちて恐ろしい相形を十日に一度位高野の町に見せる事もあったが、この頃はそれもふっと絶えて、万年草、珠数売る家の町人等にはその安否さえ判らなかった。

 けれども阿闍梨は生きていた。そうして晴れた時は白雲、曇った時は雨雲と共に峰から峰へと駆けっていた。

 ある時お留がたけ弁天にお詣りをして、あの峰からのトロッコは下して来るというしげりに茂りそびえに聳えた高野の森から、吉野、大峯の峯々に眼を放って、疲れた眼を足許に休めると、お留の穿いている草履の前には熊笹交りに小さい躑躅つつじが咲いていた。そうして一つの色の薄い蝶々がその躑躅に止まっていた。お留の草履がその躑躅の傍にある石を一寸蹴ったら、蝶は躑躅を放れて空に飛び、石はころころと足下そつかに落ちた。その石の落ちた当りを高野の町と心当てにお留は眺めた。其処へ現れたのが峯の霞にしめった衣の袖をたくし上げて頬髯ほほひげの伸びた恐ろしい面をした源蔵阿闍梨であった。阿闍梨の心の狂い始めたのはこの時からであった。お留の心もまたこの時から不思議に動いた。
 その時以来源蔵阿闍梨の姿は高野の町には見えなくなった。馬方の平作爺が馬を追い追い花折坂を登る時、女人堂の後ろから兎の渡る細道伝いに駆けずり降りる阿闍梨の姿を見る事もあった。

 才兵衛が仏法僧の声を聞きに燈籠堂の裏側の縁に腰を掛けた時、一人の人影が闇の中から出て同じく縁に腰を掛けた。この人は高山植物を研究に、殊に高野苔と名のつく苔を研究の為にもう暫く山上に逗留しているのだと言った。この植物学者も今宵は仏法僧の声を聞きに来たのだと云った。やがて二人は朽木を引き裂くような殺気を帯びた䴎鼠のぶすまの声も聞いた。御廟の遥か後ろの森の中に黄金のかねらすような仏法僧の声も聞いた。それから二人は十八町の奥の院道の物凄い石塔の間を通って帰った。その途中の話の中にこんな一節があった。
「謡曲の高野物狂ものぐるいや、近松の万年草などの中に真暗な一頁を入れたなら今夜の挿絵になりますね」
「燈明堂だけ白く抜きますか」
「仏法僧の鳴声は変わっていますね」
「高山には何処にもいます」
「貴方にとっては高野苔の方が珍しいでしょう」
「左様」

 お留は松の根方に腰を掛けて、
「源蔵さん、情死しんじゆうしましょうか」
「情死とは?」
「じれったいのね」
「雲間から悪魔がおれをつかみに来る」
「つかみに来たっていいじゃありませんか」
「二十年の修行があだになる」
「源蔵さん。駆落かけおちと極めましょうか」
「駆落とは?」
「本当にじれったい人ね」
「あれは己をせめに来る法鼓の音か」
「どれ? あの音。あれはトロッコの音よ。そうだ、源蔵さんトロッコに乗りましょう」
「トロッコとは?」
「何でもいいのよ。トロッコが厭ならその法鼓とかでもいいわ。さあ二人であの峯まで行って乗りましょう」

 才兵衛と植物学者は高野を降りた時、トロッコが転覆して男女二人の死骸が山腹に横たわっていると聞いて見に行った。それは源蔵阿闍梨と花屋の留との死骸であった。二人は人の居ぬ間を見すましてトロッコに乗って高野を斜めに風の如く飛んだ。そうして瞬く間に死骸となって横たわった。
 平作の馬に二人の死骸は載せられた。馬の絆を取った平作は、南無なむ大師遍照金剛だいしへんじようこんごう高声こうせいとなえた。
 同じく南無大師遍照金剛と称えて所謂いわゆる高野のはり﹅﹅道を上り下る善男善女は多かった。一団の下向人げこうびとは手に手に線香の束を持って高野のお火を家土産づとにした。この中には九州、北海道から来た人もあった。中には一度大阪まで帰って折角の火が消えた為にまた遥々はるばると再び登山した人もあった。
(明治四十三年十月)