同郷人
今月のゲスト:前田夕暮
土用明けの日がじりじりと庭土に照りつける午過ぎ頃、突然私を訪ねてきた躯幹矮小の、眼だけぎらりと光っている職工体の男があった。
「私は島田守太郎です」と悪びれずに言放って、私の眼をじっと見据えるようにした。
島田守太郎! 私はどきりと感じた。とうとうやって来たと思った。が、どうせやって来たからは玄関先きで帰る男ではあり得ないと、
「どんな用事か知らないが、まあ上りたまえ」
と言って玄関側の応接間に通した。夏冬据えどおしにしてある、青い斑らの瀬戸の大火鉢を中にして対坐した。そして、この男が○○爆弾事件の懸疑者であったのかと、じっと視返してやった。彼の額には、確かに刀痕と思われる疵あとが太い左の眉の上に喰入っていた。
彼が初対面の簡単な挨拶をして顔をあげた時、私が彼の眼をぐっと視詰めたので、少しく出端を摧かれたような、そしていまいましいというような表情をちらりと見せた。
「いや突然驚かして恐縮です。既に私の名前は例の事件以来御承知の事と思いますし、ことによるととんだ御迷惑をかけているかも知れぬと思われたので、今日実は偶然御門の前を通ってつい御訪ねする気になったんです。とんだ闖入者となったわけですが、同郷者の交詛として許していただきたいのです」
見た処二十四五歳にしては、きっぱりした物の言い方である。
「いや迷惑という程のこともないが、あの当時二三度刑事が訪ねて来て、君の居所を知っていたら教えて呉れと、可成りに執念深く訊問的に要求されたが、実のところ私は君の名さえそれまで知らなかったのでね。一体郷里には君と同姓の家が十数軒あるが、島田守太郎なる人の存在を私は刑事に向って此方から訊問した位でしたよ。刑事も有繋にけろんとして帰って行きましたがね、一体君は、」
と言って、私はまたじっとその額の疵を視て、
「君は、一体あの事件とどういう関係があるのです。そして君が今迄の踏んで来た道は……」
と私は畳みかけるようにして質問した。するとその男は、鳥渡頭を掻く真似をして、ぷつりぷつりと〇〇爆弾事件の懸疑者となった顛末――それは彼の印刷職工であった当時、彼と同じ下宿に真正の犯人が止宿していて、かれと交詛のあった為めであるという事実を簡単に語って、
「巻添え喰ってはたまりませんから、満州へ高飛びして二年ばかり放浪して来ました。で、その支那土産はこの額の疵とこれです」
と粗い筋の喰入っている、だだ広い右の掌を押開いて、私の眼のさきに突きつける。
よごれた荒地のような掌には、かっきりと十字の形が肉に刻まれていた。
「支那北方官憲の十字形という奴がこれです。私は、額をぶち割られた上に、監獄に三ヶ月も打ち込まれて、漸っとの事で一ヶ月前に追放されるとき、刑余の人としての目印に貰ったのがこの烙印です」
と言放って高らかに笑った。
「で、君は一体どの島田家の人です」
と私の少し咎める様にした質問に対して、彼は冷然として、
「いやつまらん奴の忰です。貴君は田中の島田先太郎という男を御存じですか。あの大きな欅のある家です。私は先太郎の忰です。いやこれは人の噂ですがね、私の母は蛇に取り憑かれて私を産むと直ぐに死んだそうですよ」
男は眼をきらりと光らせた。その光がほんの瞬間的ではあったが、私の額を痛い程刺した。
私は今明かにこの男の母なるおみとを思い出していた。蛇に取つかれた若い女の運命を、荒蕪した郷土を、不思議なる幻想を、明るく照りつける庭の日光のなかにまざまざと見るような気がした。
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蓬々と風に吹かれている枯草の塚が一つ。村はずれの野中にある。塚には一本の標札が立っている。標札には一面に蛇の絵が黒々と書かれて、端の方に◯◯村字田中、島田みと二十三歳とある。裏には蛇を封じた祈祷者の名と赤い大きな四角な判が捺してある。
私の少年の日の記憶はこの塚から展開せられる。
おみとという女を私は今もおぼえて居る。隣村から嫁に来たときから、あの女には蛇が憑いているという噂があったことも、家の下婢からきかされた。色がほってりと白く、農婦としては稀れな若々しい女で、髪の毛などもいつも持ち扱うている程長く、立つと地に藉く位であった。おみとの夫は平凡な農夫で、唯野良に出て働くより以外に小唄一つ唄えなかった。
六月の日盛り、麦は熟み野は一帯に夏霞がして、地は焼けつく程熱している。麦を刈りいそぐ農夫の姿がいたるところに点々として見られる。おみとも夫につれられ、雇女と一緒に、昼までに一反歩も刈り終えた。余りに疲れたので夫とふたりして昼飯後を畦の赤楊の下蔭に行って、涼みながらついうとうと午睡をした。
おみとは村祭の里神楽でみた何々の尊を夢にみた。青くきらきらした衣装をきて、烏帽子をいただいた、光る程美しいその尊は、手に剣をぬいて、寝ているおみとの腹にさしつけた。おみとは尊を怖いという心持は少しも起らずに、ただ眩しく羞かしくて口が利けないのだ。尊はちらちらと光る涼しい眼で女の顔をじっと視詰めながら、「胎の兒をくれたら汝の願いをかなえてやる」と優しくいたわるように言いかける。女はただ気をわくわくさせて返辞さえ出来ない。するといきなり尊は女の下胎に剣を深くつき剌した。きゃっと叫んで女が眼を開いた時、五六尺もある青い蛇が女の腹をしめつけていた。そばに寝ていた夫は驚いて起き上るや否や、いきなり麦刈り鎌で蛇を三つに打切った。
女はぐったりと青白く疲れて立つことが出来なかった。夫に負われて家に帰って床についたまま、絶えず熱にうかされて囈言ばかり口走らせっていた。
「蛇、蛇! そらそこにいる。わたしの腹にまきついている、足にまきついている。乳房にかみつこうとしている」と叫ぶかと思うと、
「尊さま、妾の好きな尊さま、妾は何もいえませんの、どうにでもよろしいように……どうぞ尊さま……」とうっとりとして眼を細くあいて夫の顔をみている。
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「私は腹を耗かしているんですがね、実は今日まだ何にもたべていないのです。何か御馳走をして貰いたいものです」
という男の声に私の幻想はふと現実に転換せられた。男は煙草をすぱすぱと喫って私の方へ煙を吐いていた。そこで、盛蕎麦を取りよせて二人で食べた。
「ビールが欲しいですな。いや鉄管ビールで結構です」
というので、青い土瓶に一杯、コップを添えて差し出すと、勝手にとくとくついでは飲み、注いでは飲みして殆んど小一舛も飲んで、腹を前に突き出してよれよれになったバンドを緩めた。
「僕、今夜の夜行で神戸に出発します。いや実は一昨日東京から着いたばかりですが、東京は五月蝿くて到底落着いて居られませんや。また支那行です、支那は僕を刑余の人として十字型の焼印まで土産にくれましたが、面白くて仕方がない。何と言っても活動出来るのは支那に限る」
と言ってまたコップの水をがぶりと飲んだ。そして、私が紙に包んで出した僅かの煙草銭をポケットにねじ込んで、
「それでは失礼します。実はこの近所に支那浪人の首領がいるので訪ねた処、その男は昨夜神戸に出発したのです。それで少し失望したので、野へでも行って一寝入りして行こうと思ってここを通り掛ると貴君の名札が出ていたので突然同郷のよしみで訪問したわけです」
と言って泥護謨靴をじかに穿いてから、ハンチングをばらばらと乱れそそけた蓬髪の頭にのせ、よれよれになった黒のアルパカの後姿を見せて、ふらりと帰って行った。
私は送り出してから部屋に戻ってみると、彼の飲み残しの水が盆の上のコップに半分ほど澱んでいた。其コップを手にとると生温く指に感じた。
私はその飲み余しの水をさっと庭の草にかけた。