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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第25回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 8月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
前田夕暮
3116

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半魚人殺し
サヌキマオ

 明日のことがあるから早番のつもりだったのに、帰ると夜も十一時を回っている。とんでもなく遅くなってしまった。部屋の電気を点けてトイレに入ろうとすると玄関の戸をノックする音がする。腹立ちを覚えながら戸を開けるとクロシェがいる。なんでもミミミが帰るまで前の公園で待っていたのだという。五十箇所は蚊に刺されたという。ああ健気健気、と内心莫迦にしていると、クロシェのいわばゴージャスな肉体にずっと張り付いていたのであろう、相当量の蚊がやおら部屋の中を遊弋し始めた。あながち誇張でもないらしい。
 クロシェに蚊退治を命じてトイレに入り直す。そのまま続けて汗を流したいところだが人がいるしなぁ、と逡巡したが、きゃつは勝手に冷蔵庫を開けて中身を物色している。悩んだだけ無駄だった。ミミミは勢い良く汗で湿ったタンクトップを脱ぎ捨てる。外からぷしっ、と缶ビールを開ける音がする。金を払え。蚊を倒せ。シャワーを浴びたらそう云ってやろうと決心する。
 二人で市庁舎まで歩いていって、待っていた二十人くらいの人々とともにマイクロバスに乗り込む。零時過ぎにバスが出る。クロシェは「どうせバスの中で寝るから」と夜通し起きていたらしく、思いっきり座席を倒した上でものの三十秒で寝息を立て始めた。ミミミもしばらく窓の外の二十四時間営業の牛丼屋のネオンなどをながめていたが、すぐに眠りについた。隣からビール臭い吐息が流れ込んでくる。バスは高速道に乗って西へ向かう。
 車内灯がつくまでぐっすり眠りこんでいた。車内正面の時計は四時と表示してある。雲が厚いのか、八月の夜明けにしてはずいぶん暗い。バスの出入り口まで来ると濃い潮の香がする。立ち並ぶ倉庫には潮風の痕である赤錆が縦横についていて、風の吹く方を見れば防波堤の先に水平線がくっきりと見える。ミミミの肩口にのさりと生暖かいものが覆いかぶさってきて、振りほどくと頭髪の爆発したクロシェである。目が開いていない。
 二十人ほどの運ばれてきた一行は、唯一シャッターが開いている倉庫にぞろぞろと向かっていった。倉庫の中にはデコトラが二台ほど停まっていて、ああ、街なかで見かけるデコトラたちの終着地点はこういうところなんだなぁ、と妙に納得する。物珍しさにすっかり目を覚ましたクロシェはデコトラの脇まで駆け出していった。目標はデコトラではなく、脇に堆く積まれたトマトとりんごの山である。
「今年もよろしくお願いします。温暖化の影響で向こうさんの数も増えているという予報が立っています。独りで十人に当たるつもり、いや一騎当千でがんばってください」
 団長のおっさんの挨拶からラジオ体操を経て浜に出る。手分けして籠で運ばれた果実はどれもまだ青い。毎年そうだが、育たなかったり途中で実が落ちてしまったものをそこそこの値段で買い取ってくるのだ。
 ようようりんごとトマトが運び終えると静かになった。風が強すぎて何か喋っても聞こえないというのもある。ミミミはぼんやりと赤く焼けた東の空を見ながら煙草を吸おうと思ったが、風でライターの火がつかない。肩を叩かれるとクロシェが既に火の付いたわかばを咥えているのでもらい火する。二人並んで打ち寄せる波を眺めていると、遠く鈍色のテトラポット群あたりの水面に、丸い影がいくつも見えた。影はまとまったままなめらかな動きで水面を移動し、いよいよ浜に近づくと急に動きがゆっくりになった。
「半魚人が来たぞぉー」
 風に紛れて背後からトラメガで拡大された声が聞こえる。私はクロシェと頷きあうと、積まれたトマトから手頃な大きさのものを拾い上げる。波の間から浜辺へ、全身を鱗に覆われた半魚人の一団がゆっくりとこちらに向かって歩みを進めてくるのが見える。水面の影は後から後から増えてくる。

 半魚人の泣き所がビタミンCとは誰が言うた。真鶴の住人、駒津鳴人博士の研究によれば遡るところ昭和五十三年、みかん畑に這い上がってきた半魚人に対し地元の農家が温州みかんを投擲せしところ、緑の鱗を真っ赤にして坂道を転がってそのまま海へどかんぼこん。やあれ、それからというもの半魚人にはビタミンCとて、日のもとじゅうのお定まり。
 ミミミの投げつけたトマトは風に煽られながらずいぶんと右へ左へカーブして、目立って背の高い半魚人の頭を直撃した。頭から跳ねたトマトが他の半魚人に当たるたびにみんな律儀にバタバタと倒れていく。なにしろ、どこに投げても半魚人に当たる。戦闘態勢についてから三十分もしないうちに浜は鱗人間の集団で埋め尽くされた。倒れ伏した死骸の山に割れたり砕けたりしたトマトとりんごが散らばり、なかなかに阿鼻叫喚である。クロシェは思った以上にコントロールが良くて、下手投げから繰り出される速球は随分と半魚人の腹や腿を撃ち抜いた。紫色の体液がこれでもかと飛び散った。あれだけ硬そうな鱗が生えているのにこんなに体がもろいことでいいのだろうか。そう思っていた時期もあった。しかし現実は現実だ。少々くたびれてきたところでコントロールを誤ったりんごがこぞってやってきた先頭の半魚人に直撃すると、後ろの半魚人を巻き込んでドミノ式に倒れていった。みんなバタバタ死んでいく。ミミミたちは果実を投げつける。
 長かった雲の帯もとうとうこの風に流されて八月の陽が射した。はるか沖を台風が通過しているのである。皮膚に押し当てられるような熱い日差しだ。こうなると半魚人はたまらない。皆一様に生命の危険を感じたのか、ぞろぞろと海へ帰っていく。鱗が乾いてしまうからだ。
 残ったのはトマトとりんごの破片にまみれた半魚人の死骸の山である。死骸は熱で傷む前にトラックに積む。トラックに積んで冷凍庫に運ぶ。ミミミもここまでの工程は知っているのだが、その後のことはよく知らない。朝ごはんに全員にコンビニ弁当と飲みきれないほどのビールやつまみが配られて、楽しく食べたあとは帰りのバスだ。クロシェはほうぼうからかき集めてきたビールでぱんぱんのコンビニ袋を手にバスに乗り込んできた。バスの中でバイト代の配給がある。いろいろな銀行の袋をかき集めて給料袋を作っているようだ。
「いやー楽しかった。ミミミもありがとね、こんなに楽しいバイトを紹介してくれて」
「バイトといっても年に一度あるかないかだからねぇ。これで生活費になるかというとそれは別問題だし」
「あ」クロシェが窓の外を見やる。「さっき倉庫に停まっていたデコトラだ」
 デコトラにはいやにおっぱいの大きな弁天様の絵が書いてある。おっぱいがおおきいというだけでこれだけ有り難みがなくなるのだろうか。
「そういえば、あれだったんだね。半魚人ってこうやって獲ってんだね」
 何本目かのビールに口をつけたおっぱいの大きな女が嬉しそうに云った。
「へ? そんな、半魚人って何かに使われてる?」
「え、よく見るよ、化粧品の原材料に『スネイル』って書いてある」
「『スネイル』は半魚人じゃないでしょ、あれはナメクジじゃない?」
「え、スネイルってナメクジなの?」
 ほんと? とクロシェは後ろの席の江夏さんに声をかける。江夏さんは元プロ野球の選手で、半魚人殺しの常連のおじいさんだ。
 知らんがな、という声を受けて、クロシェはうつろな目でビールに口をつけた。時折「信じない。アタシは絶対に信じない」とつぶやき、しばらくするとまた眠りに落ちた。
半魚人殺し サヌキマオ

帰省
蛮人S

 車窓を叩く雨音は、弱まる気配を見せなかった。
 列車は長らく停まったままだ。重い雨粒が、窓の眺めを陰鬱に閉ざす。
 優花は、窓の外を見ている。
「こりゃ当分無理かな」と、父親が呟いた。
「幸太がかわいそうね」と、母親。
 幸太が隣の席であくびをした。まだ五歳、優花とは十歳近く離れた弟だった。
 優花は無言で、窓の外を見る。眼下の光景が気になって止まなかった。
(みんなには、あれが見えてないのだろうか)
 間際まで山が迫る海岸を縫うように走るこの路線は、トンネルと水平線とが交互に車窓に現れ、夏休みに乗る機会の多い優花は、爽やかな緑と深い紺色の印象ばかりを強く抱いていた。だが今日は、海も空も、ただ混然として灰色に沈む。
 しかし今の彼女の気掛かりは、そんな事ではなかった。
「ご乗車の皆様に申し上げます」
 車掌が運転再開の目処が立たない旨を告げた。雨は予想を上回る規模だった。混んだ車内のあちこちから溜息が漏れる。
「お母さん」優花はそっと声をかけた。
「なあに」
 優花は眼下に視線を向けたまま言った。
「ほらあれ……凄いよね」
 線路は海に面する斜面の中ほどにあり、窓の下には道路が並行して伸びていた。荒れた波が路面にまで幾度も飛沫を散らしている。
 そこに先刻から、何十、何百という人影が動くのを優花は見ていた。人影は横に並び、皆こちらの方を向いていた。
「え? ああ、本当、あんな海の近くに道があるのね」
「あそこに居たら危ないね」
 優花はそう言うと、確かめるように母親の顔を見た。母親は言い放った。
「こんな時に誰も居ないわよ」
 やはり、見えていないのだ。
「そうよね……」
 人が居るなんて言わなくて良かったと、優花は思う。幼い頃には居る筈のない人の存在を口走っては周囲を騒がせる事も時々あったが、最近の優花はその辺りは心得ていた。両親も、今はすべて幼少にありがちな恐慌だったと思っている。彼女もそういう事にしている。
 優花は窓に顔を戻したが、もう人影を真っすぐ見つめる事は避けた。
 彼女は最初から見ていたのだ。彼らが一斉に、海から這い上がってきたところから。

 雨風は続いている。列車は動かない。
 彼ら、は今や眼下の道路を渡り、横に広がったまま雨の中を一歩づつ、こちらへと登って来ていた。一足踏み出してはべたり、と下ろし、しばらく左右に身を揺らしては、また思い出したように一足を踏み出す。その歩みは生きた者の動きとは思えなかった。
(あいつらが、何かをするとは限らないし)
 そう自分に言い聞かせつつ、優花は俯いたまま横目で外を覗った。これほど多くの、しかも迫って来る亡者を目にするのは、優花も初めてだった。
(早く、発車してよ……)
 ずぶ濡れの亡者らは、すでに一体一体の様子が判るばかりの近くにあった。性別、年格好までも見てとれたものの、いずれも打ち捨てられ腐った案山子を引き起こしたような様相だった。彼らは行く場所を決めているかのように、列車のそれぞれの窓に真っ直ぐ進んでいた。その理由に気付いた時、優花の背に冷たいものが走った。
 近づく亡者らは、乗客の一人一人に対応していた。男性の座る窓の下には男性の死体が、若い女性のグループには、女性の死体らが群れようとしていた。
 優花は、自分達の前にも死者がやって来ている事を、目を合わさぬように確かめた。向かいの父母には、同じ年格好の二つの死体。その隣には、男の子の死体が車内を覗っていた。死体は、窓際に置いたままの弟の玩具が気になるようだった。
 きっとその後ろには、十四、五の少女の死体が立っているのだろう。それを確かめる勇気は優花に無かった。
(落着いて、落着いて……)
 逃げるなら山側だと優花は思った。亡者らは海側に集まっていたが、列車の反対側には回っていない。車窓の下までは来たが、そこで歩みを止めていた。優花には、彼らはまだ何か確証を得ていない、そんな風にも思えた。
(でも私たちが中に居る事を確信したら、襲って来るのかも……)
「ご乗車の皆様に、申し上げます」
 突然の声に優花は驚いて顔を上げる。車両の入り口に車掌が立っていた。
「この先で土砂崩れ発生との連絡が入りました。申し訳ありませんが列車はここで運転を中止します」
 客の間にどよめきが起きた。優花も少なからず動揺したが、これはまだ想定内だった。だが、続く車掌の言葉は優花を総毛立たせた。
「一帯の地盤が緩んでいると思われ、列車を動かすのは危険との判断により、ここで皆様方にはお降りいただき、下の県道を歩いて避難くださいますようお願いを……」
 あの亡者の中に降りろと言うのだ。優花は震えた。(そんなの無理、絶対無理……)
「絶対イヤよ!」
 強い声がついて出た。多分に非難を含んだ視線が集中し、優花は迂闊を呪った。
「仕方ないわよ。降りましょう、優花」母親が宥めた。

 開かれたのは海側の扉だった。雨が車内に吹き込む。
「さ、行くわよ」傘を手に母親が声をかけた。
「だめ……亡者がいるの」
「優花、お前何を言ってるんだ」父親が咎めた。もう説得できるとは思えなかった。
 優花は弟の手を引っ張り、そっと反対側の扉へ近寄った。
 梯子を降ろそうと扉の前に屈んだ車掌が、突然異様な声をあげる。その手首が死者の手に掴まれているのを、優花は見た。車掌は叫びながら車外へ引き落とされていった。続いて沢山の腕が突き出た。
 亡者らの手が車両にかかり、床がぐらりと揺れて傾く。悲鳴が一斉にあがった。
(逃げなきゃ……)
 優花は非常用のドアコックを引いた。山側の扉を引き開け、荷物を捨て弟を抱き上げた。
「こっちよ!」叫ぶや、そのまま車外に飛び降りた。
 背後で声がする。父だろうか、と優花は思う。振り返る余裕は無かった。追いかけて、来てくれたら、とだけ心に祈った。
 幸太は落した玩具の名前を叫ぶ。
 優花は弟を片腕に抱き、斜面をよじ登った。
 その背後で地を震わす音が響き、幾つもの唸り声が一斉に沸き上がった。地盤が、無数の爪に引き掻かれるように崩落した。枕木が跳ね、線路が軋みをあげ曲がっていく。岩と金属の打ち合う音の中に、乗客らの悲鳴はすべて掻き消された。
 四両編成の列車は、くの字に折れて、土石とともに海へと向かってずるずると崩れ落ち、跳ね上がる波飛沫の中へと没して行く。蠢く亡者の群れと混じり合い、灰色の海の底へと。
 優花は、滑り落ちていく泥の斜面を、手足でよじ登り続けていた。泣き叫ぶ弟を小脇に抱きしめ、幾度も足を滑らせ転びながら、手足を動かし続けていた。恐慌に吊り上がった目にはもう何も見えず、登っているか落ちているかも分からない。ただ上へ上へと、死の手から抗い続けた。
 どれほど上り続けたか、気がつくと優花は、斜面に茂る樹木の根本に倒れ込んでいた。
 振り返って、初めて背後の光景を目にする。
 そこにはもう、誰も、何もなかった。列車も線路も道路も、すべて海に崩れ落ち、沈黙しているばかりだった。
 風雨の中で、優花は泣いた。弟を抱いたまま二人で泣き続けた。


 それから後、何年が過ぎても、優花はあの海岸を走る鉄道には二度と乗る事が出来なかった。
 あのような事件はもう起きないのかもしれない。それでも優花は、あの海からの亡者らの姿に再び遭うかと思うと、とても列車には乗れなかった。ましてや、次は亡者らの中に、変わり果てた父母の姿が待っているのかもしれないと思えば。
帰省 蛮人S

同郷人
今月のゲスト:前田夕暮

 土用明けの日がじりじりと庭土に照りつける午過ぎ頃、突然私を訪ねてきた躯幹矮小の、眼だけぎらりと光っている職工体の男があった。
「私は島田守太郎です」と悪びれずに言放って、私の眼をじっと見据えるようにした。
 島田守太郎! 私はどきりと感じた。とうとうやって来たと思った。が、どうせやって来たからは玄関先きで帰る男ではあり得ないと、
「どんな用事か知らないが、まあ上りたまえ」
 と言って玄関側の応接間に通した。夏冬据えどおしにしてある、青い斑らの瀬戸の大火鉢を中にして対坐した。そして、この男が○○爆弾事件の懸疑者であったのかと、じっと視返してやった。彼の額には、確かに刀痕と思われる疵あとが太い左の眉の上に喰入っていた。
 彼が初対面の簡単な挨拶をして顔をあげた時、私が彼の眼をぐっと視詰めたので、少しく出端でばなくじかれたような、そしていまいましいというような表情をちらりと見せた。
「いや突然驚かして恐縮です。既に私の名前は例の事件以来御承知の事と思いますし、ことによるととんだ御迷惑をかけているかも知れぬと思われたので、今日実は偶然御門の前を通ってつい御訪ねする気になったんです。とんだ闖入者となったわけですが、同郷者の交詛よしみとして許していただきたいのです」
 見た処二十四五歳にしては、きっぱりした物の言い方である。
 「いや迷惑という程のこともないが、あの当時二三度刑事が訪ねて来て、君の居所を知っていたら教えて呉れと、可成りに執念深く訊問的に要求されたが、実のところ私は君の名さえそれまで知らなかったのでね。一体郷里には君と同姓の家が十数軒あるが、島田守太郎なる人の存在を私は刑事に向って此方から訊問した位でしたよ。刑事も有繋さすがにけろんとして帰って行きましたがね、一体君は、」
 と言って、私はまたじっとその額の疵を視て、
「君は、一体あの事件とどういう関係があるのです。そして君が今迄の踏んで来た道は……」
 と私は畳みかけるようにして質問した。するとその男は、鳥渡ちようど頭を掻く真似をして、ぷつりぷつりと〇〇爆弾事件の懸疑者となった顛末――それは彼の印刷職工であった当時、彼と同じ下宿に真正の犯人が止宿していて、かれと交詛のあった為めであるという事実を簡単に語って、
「巻添え喰ってはたまりませんから、満州へ高飛びして二年ばかり放浪して来ました。で、その支那土産はこの額の疵とこれです」
 と粗い筋の喰入っている、だだ広い右の掌を押開いて、私の眼のさきに突きつける。
 よごれた荒地のような掌には、かっきりと十字の形が肉に刻まれていた。
「支那北方官憲の十字形という奴がこれです。私は、額をぶち割られた上に、監獄に三ヶ月も打ち込まれて、漸っとの事で一ヶ月前に追放されるとき、刑余の人としての目印に貰ったのがこの烙印です」
 と言放って高らかに笑った。
「で、君は一体どの島田家の人です」
 と私の少し咎める様にした質問に対して、彼は冷然として、
「いやつまらん奴の忰です。貴君は田中の島田先太郎という男を御存じですか。あの大きな欅のある家です。私は先太郎の忰です。いやこれは人の噂ですがね、私の母は蛇に取り憑かれて私を産むと直ぐに死んだそうですよ」
 男は眼をきらりと光らせた。その光がほんの瞬間的ではあったが、私の額を痛い程刺した。
 私は今明かにこの男の母なるおみとを思い出していた。蛇に取つかれた若い女の運命を、荒蕪した郷土を、不思議なる幻想を、明るく照りつける庭の日光のなかにまざまざと見るような気がした。

   ・

 蓬々ほうほうと風に吹かれている枯草の塚が一つ。村はずれの野中にある。塚には一本の標札が立っている。標札には一面に蛇の絵が黒々と書かれて、端の方に◯◯村字田中、島田みと二十三歳とある。裏には蛇を封じた祈祷者の名と赤い大きな四角な判が捺してある。
 私の少年の日の記憶はこの塚から展開せられる。
 おみとという女を私は今もおぼえて居る。隣村から嫁に来たときから、あの女には蛇が憑いているという噂があったことも、家の下婢からきかされた。色がほってりと白く、農婦としては稀れな若々しい女で、髪の毛などもいつも持ち扱うている程長く、立つと地に藉く位であった。おみとの夫は平凡な農夫で、唯野良に出て働くより以外に小唄一つ唄えなかった。
 六月の日盛り、麦はあかるみ野は一帯に夏霞がして、地は焼けつく程熱している。麦を刈りいそぐ農夫の姿がいたるところに点々として見られる。おみとも夫につれられ、雇女と一緒に、昼までに一反歩も刈り終えた。余りに疲れたので夫とふたりして昼飯後を畦の赤楊の下蔭に行って、涼みながらついうとうと午睡をした。
 おみとは村祭の里神楽でみた何々の尊を夢にみた。青くきらきらした衣装をきて、烏帽子をいただいた、光る程美しいその尊は、手に剣をぬいて、寝ているおみとの腹にさしつけた。おみとは尊を怖いという心持は少しも起らずに、ただ眩しく羞かしくて口が利けないのだ。尊はちらちらと光る涼しい眼で女の顔をじっと視詰めながら、「胎の兒をくれたら汝の願いをかなえてやる」と優しくいたわるように言いかける。女はただ気をわくわくさせて返辞さえ出来ない。するといきなり尊は女の下胎に剣を深くつき剌した。きゃっと叫んで女が眼を開いた時、五六尺もある青い蛇が女の腹をしめつけていた。そばに寝ていた夫は驚いて起き上るや否や、いきなり麦刈り鎌で蛇を三つに打切った。
 女はぐったりと青白く疲れて立つことが出来なかった。夫に負われて家に帰って床についたまま、絶えず熱にうかされて囈言うわごとばかり口走らせっていた。
「蛇、蛇! そらそこにいる。わたしの腹にまきついている、足にまきついている。乳房にかみつこうとしている」と叫ぶかと思うと、
「尊さま、妾の好きな尊さま、妾は何もいえませんの、どうにでもよろしいように……どうぞ尊さま……」とうっとりとして眼を細くあいて夫の顔をみている。

   ・

「私は腹をかしているんですがね、実は今日まだ何にもたべていないのです。何か御馳走をして貰いたいものです」
 という男の声に私の幻想はふと現実に転換せられた。男は煙草をすぱすぱとって私の方へ煙を吐いていた。そこで、盛蕎麦を取りよせて二人で食べた。
「ビールが欲しいですな。いや鉄管ビールで結構です」
 というので、青い土瓶に一杯、コップを添えて差し出すと、勝手にとくとくついでは飲み、注いでは飲みして殆んど小一舛も飲んで、腹を前に突き出してよれよれになったバンドを緩めた。
「僕、今夜の夜行で神戸に出発します。いや実は一昨日東京から着いたばかりですが、東京は五月蝿くて到底落着いて居られませんや。また支那行です、支那は僕を刑余の人として十字型の焼印まで土産にくれましたが、面白くて仕方がない。何と言っても活動出来るのは支那に限る」
 と言ってまたコップの水をがぶりと飲んだ。そして、私が紙に包んで出した僅かの煙草銭をポケットにねじ込んで、
「それでは失礼します。実はこの近所に支那浪人の首領がいるので訪ねた処、その男は昨夜神戸に出発したのです。それで少し失望したので、野へでも行って一寝入りして行こうと思ってここを通り掛ると貴君の名札が出ていたので突然同郷のよしみで訪問したわけです」
 と言って泥護謨靴をじかに穿いてから、ハンチングをばらばらと乱れそそけた蓬髪の頭にのせ、よれよれになった黒のアルパカの後姿を見せて、ふらりと帰って行った。
 私は送り出してから部屋に戻ってみると、彼の飲み残しの水が盆の上のコップに半分ほど澱んでいた。其コップを手にとると生温く指に感じた。
 私はその飲み余しの水をさっと庭の草にかけた。