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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第26回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 9月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
小川未明
2154

結果発表

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ディープ・ダンジョン
サヌキマオ

 軽く済ませるつもりの掃除にずいぶんかかってしまった。鯨出幸からのLINEで気づいたが、もう出かけないと間に合わない。
 部屋を出る。管理者の趣味なのか、団地のすべてのドアが鮮明な紫一色に塗られていて、生まれたときから住んでいるのにたまにぎょっとすることがある。三年前に「築五十周年記念」とかで建物全体が塗り替えられたというのもあるだろう。この時の式典(のようなもの)はよく覚えている。時を同じくして小粋が産まれているからだ。
 部屋の前の非常階段をぐるぐると下ると駐輪場に出る。団地の敷地の外で道路は大きなカーブを描きつつ勾配を生んでおり、ひぐらしの声の降る中、駅までの坂を電動自転車で登っていく。高校に入学したときに買ってもらったもので、もう自転車がなかったときの不便など思い出せない。
 幸はキャミソールにスパッツというちょっとおしゃれな小学生のような格好で改札から出てきた。小学生にしか見えないような体格と身長だが、これでも同じ高三の部活のメンバーだ。飲み差しのミネラルウォーターを振り回しながら「いやぁ、楢ヶ瀬は遠いねえ」と開口一番に云ってのけた。
「だったら帰ればいいじゃない」
「いやいやいや、ちゃんと罰ゲームは履行しましょう、なんてったって罰ゲームなのだから」
 そういって人から自転車のハンドルを奪うと、一生懸命サドルにまたがろうとする。莫迦め、足の長さが違うわい。
「どうせここからは下り道だから、自転車なんか押してってもいいのよ」
「え? 下り坂なら乗ってったほうが楽しいじゃん?」
 そう云うと幸は私に自転車に乗るように促してくる。
「?」
 私が憮然としてサドルにまたがると「動くな動くな……」と幸は私の背後から両肩に手を置いた。
「ちょっ」
 行けー! と幸が前に体重をかけてくる。重心の移動した自転車は車道に転がり出る。咄嗟にバランスをとる隙を突いて幸が後輪に飛び乗ってくる。私の悲鳴に気づいたまばらな人の視線を浴びながら、ジェットコースターが始まった。勢いがついているので急ブレーキをかけるとどうなるかわからない。指先の力に意識を集中させて――握ったのがうっかり前輪のブレーキで、自転車は私達を乗せたまま尻を天空高く持ち上げ、つんのめることなくまた後輪が路上に戻ってきた。
 今度こそ後輪のブレーキをゆるく掛けながらなだらかなカーブを滑走する。背後から風に混じって幸の楽しくってたまらないような笑い声がする。
「殺す気か!」
「めっそうもない」
 汗が目に入る。吹き抜ける谷風がどんな冷や汗をかいたかを知らせてくれる。車の通らないのが幸いだった。団地の駐輪場でようやく自転車を停めると、幸は飛び降りて拍手をしてくれる。いやぁ、流石にサスガだね。パーフェキション安東だ。
「また懐かしい名前を」
「そうだよねー。私たちが入ってすぐくらいにつけられたあだ名だもんねぇ」
 当時、傍目には優秀に見えたらしい私は幸に「パーフェキション」と呼ばれ、当時先輩だらけの演劇部において妙なあだ名としてしばらく定着したのだった。厳密には「パーフェクション」なのだが、あだ名なんてそんなものだ。
「ともあれ――あっ」
「なによ?」
「おみやげが、ない」
「どういうこと?」
「多分アレだ、さっきの坂で落とした」
「えー?」
「ね、知恵穂。一緒に取りに行こうよ。がんばってチーズケーキ買ってきたのにもったいないじゃん。ね?」
 罰ゲーム。
 とんだ罰ゲームである。

 コンクリートの壁と同じ扉に窓の続く工業団地である。壁の反対側にはほぼ同じ寸法の団地が建っていて、同じコンクリートの壁とオレンジのドアが並んでいる。建築基準法がどうのということで各館ともエレベーターが増築されてはいるのだが、わざわざエレベーターに乗ると無駄に遠回りになる。とすれば目の前にある非常階段をえっちらおっちらぐるぐる登るに決まっている。
「いやーすごいね。まるでダンジョンだ。こういうところで私はモンスターと戦ってみたい」
「勝手に人の家を魔物の巣窟にせんでもらえるかな」
「いやぁでも実に重厚なおすまいです。きっとこうした伝統の佇まいが天才・安東を育んだんでしょうなぁ」
 何のモノマネかは分からないが無視して部屋の鍵を開ける。クーラーはつけっぱなしで出てきた。土間からすぐに台所になっていて、ドアがふたつ、ふすまがひとつ。幸からもらったひしゃげたおみやげをとりあえずキッチンテーブルに置くと、自分の部屋に幸を促した。
「いい眺めだねぇ」
 幸はカーテンを開ける。赤い西日が容赦なく差し込んでくる。幸を部屋に残して冷蔵庫からペットボトルの紅茶を出していると「おや、このエロ本はなんですか」と聞かれる。ねぇよ! と答える。
「で、満足した?」
「え、あぁ」
 本来の目的をすっかり忘れていたのであろう幸が、ケーキのスプーンをくわえながら返事をする。
「満足した。いい罰ゲームだった。知恵穂もたまには受けたほうがいいんだよ、罪とか罰とか」
「また今度行くからね、ビリヤード」
「そうだね、今度は曲っちとかも誘っていこう」
「そうするとどうするの? また罰ゲームでひとの家にお邪魔するの?」
「それはどうかなぁ。今回はほら、パーフェキション安東の生まれ育った場所が見たかっただけだから」
「そういう意味では俵村家、見てみたいけどね」
 ケーキは八等分した。ひしゃげたところを中心に二人で半分食べて、残りの四切れは家族で分けることにした。
「それにしても、すごいよね」
「まぁ見ようによっては、すごいのかも」
「お父さんお母さんが結婚した当初の家でそのまま二十年いるんでしょ? お父さん何屋さんだっけ」
「父はレンズを磨く技師。お母さんは看護師」
「それだけ稼いでるんなら、もっと良いお家に引っ越すことも出来るだろうにね」
「たまに話は出るんだけどね」保育園に小粋を迎えにくまでには三十分ある。「私、高校卒業したら家を出るから」
「お、出るの? 何するの、大学?」
「え、誰にも言ってないけど、言っていい?」
「受験戦争をくぐり抜けた幸おねーさんにどーんと言ってらっしゃい」
「え、終えた、って」私ははっとして幸に向き直った。「アンタ、本当にこのまま芸能界とやらに進むつもりなの?」
「え」不意を突かれたように幸も向き直った。「つもりもなにも、もうムサビ、受かったから」
「はぁ?」ムサビ。むささび藝術大学。
「アンタなんで何も云わないのよ!」
「まぁとにかく、アタシのことはいいから――で、どこに行くの?、ちぇほちゃんはッ!」
 幸は膝立ちになった私を両手で収め、肩に手を置き、幸はこちらの目を覗き込んでくる。
「**」
「**! なんでそんなど田舎に!?」
 このリアクションはマジだろう。少しでも幸のことを出し抜けて嬉しい。
まるいち、あんまり頑張らなくても国立に入れる。まるに、地元にそこそこ大きなテレビ局がある」
「というと?」
「結論、そっちでテレビ局に入って、全国区のテレビ局に乗り換えてくる」
「じゃ、アレだ、私がアカデミー賞とか取ったら知恵穂が報道してくれるわけだ?」
「いや? ゲス不倫かもしれないじゃない?」
 お前も野球選手とサッカー選手で二股かけちゃえ、などと云っているうちに時間になったので保育園に小粋を迎えに行き、その足で幸は帰っていった。
「なんかがんばって遠くまで来たかいがあった」と云っていたから、私の中でも良かったことにしようと思う。
ディープ・ダンジョン サヌキマオ

ヴァカンス
蛮人S

 地球。
 その名前を想っただけで、テイラは胸の高鳴りを隠しきれない。彼は、年に四度は地球を訪れていた。大きな仕事の一つも片付ければ、もう船のチケットを購入してしまっている自分に気付く。パスポートは地球航路の記録で埋まっていた。
「頑張った自分に、またご褒美ってわけだな」
 同僚たちも半ば呆れ顔だ。でも好きなものは仕方ない、とテイラは思う。それに自分が仕事を人一倍にこなせるのも、この楽しみあっての事と、彼は確信していたし、その点は周囲も同意するところだった。
「OK。楽しんでこいや」
 休暇届にさっと目を通して、テイラの上司が微笑んだ。
「……お土産、たのむぜ」
「いいですよ」
 テイラはそっと笑みを返した。


 シート前の表示器に浮かぶ紫色のゲージが、一目盛り右へと進む。客室アナウンスは、地球到着時刻が近づいた事を告げている。
 テイラは、シートの背に身を深く預けたまま、アナウンスの背景に流れる地球の音楽を鼻歌でなぞっていた。
 地球への航路は、かなり便利なものとなっていた。特に帯域が強化され「アロウフィールド・ハブ」から流速720で直結してからは、すっかり所要時間も短縮された。それを旅情が無いと嘆く声もあったが、テイラには喜ばしいばかりだった。
 船は緩慢な、緩慢な減速を続け、やがて大きく最後のターンへと入りながら、巨大な魚類にも似た船体の軸を静かにうねらせ、窓からの風景をぐるりと巡らせていった。乗客らは、ここで初めて地球の姿を目にする事ができる。
 シートに面する観望窓に、白銀のレースを纏った紺碧の珠玉が拡がると、テイラはもう、子供のように窓へと顔を押しつけて――緑の薫り、潮のざわめき、そして何より、これから出会うだろう興味深い生き物の蠱惑的な声が、はや真空も、厚いガラスも飛び越えて彼の官能へと触れたかのように――深い溜息を漏らすのだった。
『乗客の皆さま、長旅お疲れさまでした。ただいま本船は、地球を周回します亜空間衛星アウトリバー2への接舷を完了しました。当地での標準時間は流速0・02、どちら様もお忘れ物ございませぬよう……』

 船を下りて、時間ゲートを抜けた乗客達は、ホテル、カフェ、思い思いの場所へと散っていく。
 テイラは、展望テラスへと向かっていた。
 展望テラスは衛星の底部の側にあり、地球を一望に見おろすドームだ。そしてテイラにとっては、地球における作戦ルームとも言える場所だった。テイラはドリンクを注文するとソファに座り、程よく調整された時の流れを心地よく感じながら、足下に広がる地球を眺める。まず必要なのは、はやる心を適度に落ち着かせる事だった。
 さあ、どこへダイブしよう?
 半ば非物質として地球を周回するこの観光都市は、この星の生命にとっては別の次元に位置し、その存在は認知されない。しかしテイラは、そういう小難しい理論を超えた、何か霊感じみた確信を常に抱いていた。またそれを幾度も体験してきたつもりだった。
(互いに惹き合う地球生命との出会い……運命の出会い……)
 テイラはエクスプローラの端末を取り出すと、目を瞑って無造作に地球の方へと向ける――運命が、すぐにも飛び込んでくるかのように。
 そっと目を開くと、端末の表示部に映るのはただ密林の拡がる眺めだった。テイラは苦笑する。深い緑の帝国から、河に沿って静かに端末を滑らせて行く。
 彼が捜しているのは人間の姿だった。それも、最も新しく瑞々しい肉体と、純粋な心を持つ若い生命だった。慌てるな、とテイラは思う。ここから少しずつ都会に寄せていこう。
 細い河は密林の中で幾度も合流を繰り返し、やがて大きな流れとなって緩やかに下る。強大な緑の帝国の版図も、次第に農地が勝り、人の領分へと遷っていった。点在していた集落も町の姿を成して行く。この地の土をそのまま焼き固めたような赤い煉瓦の家々には、屋根に並んだ衛星放送のパラボラが揃って天を仰いでいた。
 テイラは、その中の一つの家に惹かれていた。彼の信じるところの感覚が、訴えかける何かを捉えたのだ。
 エクスプローラの焦点を集中していく。家の窓に一人の少女の姿を見た時、テイラの胸の拍動は恐ろしいまでに高鳴る。
 彼女の褐色の肌は月光に照らされて艶やかで、長い黒髪はノースリーブの肩口へとしなやかに流れる。やや憂いを帯びた顔つきだった。
 不意に少女はこちらを見上げ、テイラを見つめた。その瞳は濡れて輝いていた。
「……運命だ」
 テイラは心に決めた。


 マリア・ジュリア・オリヴェイラは、十七歳の高校生である。
 サンパウロ郊外の田舎町に家族と暮らし、地元の公立学校に通う。家は裕福とも言えないが、この国では中流以上の生活だった。
 その夜、マリア・ジュリアは、二階にある自分の部屋の窓際で、ボーイフレンドの事を思っていた。
 マリア・ジュリアは彼を深く愛しているつもりだったが、年上の彼が自分との関係をどこまで本気で考えているのか、どこまで自分を大事に思っているかについては、やや危うげに感じられるのが悩みだった。彼はいつでも刹那的で、二人の未来を語る事もなかった。彼とは肉体においても結ばれていたが、その際の避妊にしても、楽観的な彼女から見てさえも、いい加減なものに思われた。
 それを彼女が拒めないのは、そして彼女が今まさに、彼との時間の記憶をなぞっていたのは、その若さのせいだろうか。
 マリア・ジュリアが溜息とともに、カーテンを閉めようとした時だった。彼女は一瞬、自分が誰かに見つめられている気がした。
 それは近くではない、どこか遠く、遥か高みからの突き透すような視線だった。マリア・ジュリアは理不尽な胸騒ぎを抱いたまま、そっとカーテンを閉じた。
 ここに、時間の流れが止まった。
 突然に彼女を包んだ静寂の中で、茫然と立ち尽くすマリア・ジュリアの前に、一つの異形の影が沸き上がるように現れる。その忌まわしい姿に、マリア・ジュリアは恐怖と嫌悪に目を見開き、後ずさった。
「……誰?」
 彼女の歪んだ表情を愉しむように、異形の影はじっと暫く見下ろしていたが、やがて静かに腕を上げ、そして彼女に向かって素早く突き出した。
 鈍く光った鋏にも似た長い爪が、マリア・ジュリアの下腹を深々と貫き、引き裂く。濁った破裂音とともに鮮血が飛び散った。
 悲鳴があがった。末魔まつまを断ち切る痛みのまま、彼女は鋭い叫びをあげ続けるしかない。
 テイラは恍惚として、その歌声に酔いしれた。彼が待ちかねていた、恋焦がれていた、歓びの歌だった。


 翌朝、マリア・ジュリアが不穏な夢から目覚めると、自分が寝台の上で一糸も纏わぬ姿でいる事に気付いた。
 思わず寝具を身に引き寄せ、顔を赤らめながら確かめるように自らの身体に触れたが、何かが起きた風でもなかった。窓は閉じられ、カーテンの隙から朝日の射すばかりだった。なぜ、いつの間に自分がこんな姿で眠ってしまったか、どうにも昨晩の様子を思い出す事はできなかった。ただ、胸の鼓動が、何かの余韻のように高鳴っている。
 腑に落ちぬまま、マリア・ジュリアは早めの朝を過ごすほかなかった。
 昨晩のおぞましい記憶も、痛ましい痕跡も、すべて抜き取られたように消えていた。そして彼女の胎内に宿っていた、最も新しく瑞々しい、純粋なる生命もまた、持ち去られていた。
 ただそれは、もとより彼女のまだ知らなかった存在ではあったが。
ヴァカンス 蛮人S

橋の上
今月のゲスト:小川未明

 帰る途中であった。子供が泣いて止まなかった。母親の背中で狂った。しっかりと押えて歩いているのだけれど、子供は反り返って仰向きになった。空には微かに星が光っていた。露店の火や、街頭の燈火で空気は染まっている。そして、この街の賑かな中では、空の星の光りもはっきりとしなかったけれど、淋しい暗い処に来ると、鮮かに燦爛さんらんとして輝いている有様が、荒凉の気持をそそった。子供は人混みのする中を泣きつづけていた。
『お前が悪いのだ。乳を半分しか飲ませんでおぶったから悪いのだ、こんなに泣いてっともないじゃないか?』と、武吉ぶきちは彼女に言った。
『あまりおそくなると思いましたから、………こんなやかましい子供はありませんよ』と、彼女は怒っていた。そして、激しく背中の子供をさぶった。子供は火の付くように泣き出した。
「よくこう泣けたものだ。よくこう声がつづくものだ』と武吉は心に言った。そして、また一方を顧みて妻の態度がしやくに障った。他人が見ていなかったらなぐってやりたいのだと思った。
『まあ、待て帽子が落ちそうだよ』と、彼はわめいて、追うように彼女の後に行って、子供の被っている黄色な暖かそうな帽子の脱げかかっているのを直してやろうとした。
『いいですよ。構わんで置いて下さい』と、彼女は答えた。そして、彼の手から逃げるように急いで歩き出した。子供の帽子は益々ますます落ちかかった。僅かに止めてある紐によって、小さな頭の上に支えられていた。『見っともないじゃないか。通る人が皆な見て行くじゃないか。まるで夫婦喧嘩でもして、離ればなれに歩いて行くとしか思われない』と、彼は言った。
 この時、彼女は、もう気が気でなかったのだ。何でも癪に障ったものだ。しかも、気取った、また澄した風の若い夫婦が、通りすがりに冷やかに眺めて、子供の泣き声をさも不思議なものでも聞くように眉をひそめて行く姿を見る時は腹が立たずにはいられなかった。
 しかし、彼女はまた気をえた。そして、いくら子供が泣いたからとて、母親としてこんなに怒るのはくないと思った。そこで十五せん均一の店頭に立って、子供にいろいろなものを見せたり、また時計屋や、小間物屋の前や、そうした色彩と輝きに富んだ店頭に立ち止まって子供の心を奪おうとした。けれどそれは無駄であった。
『強情なだ』と、二人は互いに胸の中で思った。武吉はあまり子供が泣くので歯をぎりぎりとさした。街の切れ目に河が流れていた。そこだけはうす暗くて静かであった。もはや秋の夜のことで凉んでいる人影もなかった。橋の上は全く寂然ひつそりとしていた。そして下には水が黒く音を忍んで流れていた。処々ところどころ燈火ともしびの影が射して、水の上の波紋が怪しく、美しく光って見えた。
 その時、彼女の歩みは遅くなった、明るい処から、暗い処に来て安心したのであった。
『少し橋の上で休もうじゃないか。そして、乳を飲ましてやったらいいだろう』と武吉はがっかりとした体を欄干にもたせた。彼女はすなおにその通りにした。子供は母親の蹲踞うずくまった膝の上に、疲れと眠さと余憤よふんのために泣きじゃくりをしながら、やっと乳房にすがった。闇の中に彼女の胸のあたりがほんのりと白く見えた。
 しかし乳が思うように出なかった。子供はまた機嫌を損ねた。何かぶつぶつ分らぬことを言いながら、体を動かし始めた。『あ、痛い!』と、不意に彼女は言った。そして顔で胸を隠すようにして、噛まれた乳頚ちくびの痛みを堪えた。
うしたんだか、ちっとも乳が出ないんですもの』と、彼女は言った。この時、武吉はここまで歩いて来た路を思い出した。彼女が体と心の疲労を感じていることを悟った。
『抱いて河の水を見せてやらないか』と、彼は囁いた。彼は子供の時分に河水を見るのが好きであった。そして、どんな時でも河に抱いて行かれると、喜んだという。父親によくすべてが似ているといわれる子供は、やはり河水を見て喜ぶかも知れないと考え付いたからだ。妻は子供をしっかりと抱いて欄干越しに下の暗い、底の知れない水面を子供に覗かして見せようとした。
 子供はまた泣き立てた。この瞬間、武吉は子供と自分とは血をけながらやはり同じ体でないと思った。子供は河水を見ても、決して喜びもしなければ、笑いもしなかった。そこには霊魂の共通した何ものかを見出すことが出来なかった。孤独を感じた。次の刹那の間に、憎悪を感じた。
『やかましい奴だ。河の中へ落してしまえ』と、言った。自分ながら、その言葉が邪慳じやけんであったと感じた。妻は魂消たまげたように、子供をにわかにしっかりと胸に抱き付けた。
 この時、橋の端の処に立って、じつ此方こちらを見詰めていたものがあった。その者の眼は、ある疑いと、えぐるような鋭さとをもって武吉の顔の上に注がれていたことを、彼は間もなく感じた。彼は心にハッと思った。妻も、誰か立っていることに気が付いた。
『坊や、あんまりお前がやかましいから、お父さんがお怒りになって、坊やを河へ捨ててしまえとおっしゃったよ。あ、怖い、さあ、おとなしくおだまり……』と、笑って子供に向って言った。
 二人は、共にある怖しさを心に感じた。この愛の裏にこんな怖しい思想のあることを認めた。そして、同時にそれを他に見られたことを恥じ、そして悔い、言うべからざる不快を感じた。
 その時、橋の端に立っていた、黒い影は彼方に歩いて去った。