ディープ・ダンジョン
サヌキマオ
軽く済ませるつもりの掃除にずいぶんかかってしまった。鯨出幸からのLINEで気づいたが、もう出かけないと間に合わない。
部屋を出る。管理者の趣味なのか、団地のすべてのドアが鮮明な紫一色に塗られていて、生まれたときから住んでいるのにたまにぎょっとすることがある。三年前に「築五十周年記念」とかで建物全体が塗り替えられたというのもあるだろう。この時の式典(のようなもの)はよく覚えている。時を同じくして小粋が産まれているからだ。
部屋の前の非常階段をぐるぐると下ると駐輪場に出る。団地の敷地の外で道路は大きなカーブを描きつつ勾配を生んでおり、ひぐらしの声の降る中、駅までの坂を電動自転車で登っていく。高校に入学したときに買ってもらったもので、もう自転車がなかったときの不便など思い出せない。
幸はキャミソールにスパッツというちょっとおしゃれな小学生のような格好で改札から出てきた。小学生にしか見えないような体格と身長だが、これでも同じ高三の部活のメンバーだ。飲み差しのミネラルウォーターを振り回しながら「いやぁ、楢ヶ瀬は遠いねえ」と開口一番に云ってのけた。
「だったら帰ればいいじゃない」
「いやいやいや、ちゃんと罰ゲームは履行しましょう、なんてったって罰ゲームなのだから」
そういって人から自転車のハンドルを奪うと、一生懸命サドルにまたがろうとする。莫迦め、足の長さが違うわい。
「どうせここからは下り道だから、自転車なんか押してってもいいのよ」
「え? 下り坂なら乗ってったほうが楽しいじゃん?」
そう云うと幸は私に自転車に乗るように促してくる。
「?」
私が憮然としてサドルにまたがると「動くな動くな……」と幸は私の背後から両肩に手を置いた。
「ちょっ」
行けー! と幸が前に体重をかけてくる。重心の移動した自転車は車道に転がり出る。咄嗟にバランスをとる隙を突いて幸が後輪に飛び乗ってくる。私の悲鳴に気づいたまばらな人の視線を浴びながら、ジェットコースターが始まった。勢いがついているので急ブレーキをかけるとどうなるかわからない。指先の力に意識を集中させて――握ったのがうっかり前輪のブレーキで、自転車は私達を乗せたまま尻を天空高く持ち上げ、つんのめることなくまた後輪が路上に戻ってきた。
今度こそ後輪のブレーキをゆるく掛けながらなだらかなカーブを滑走する。背後から風に混じって幸の楽しくってたまらないような笑い声がする。
「殺す気か!」
「めっそうもない」
汗が目に入る。吹き抜ける谷風がどんな冷や汗をかいたかを知らせてくれる。車の通らないのが幸いだった。団地の駐輪場でようやく自転車を停めると、幸は飛び降りて拍手をしてくれる。いやぁ、流石にサスガだね。パーフェキション安東だ。
「また懐かしい名前を」
「そうだよねー。私たちが入ってすぐくらいにつけられたあだ名だもんねぇ」
当時、傍目には優秀に見えたらしい私は幸に「パーフェキション」と呼ばれ、当時先輩だらけの演劇部において妙なあだ名としてしばらく定着したのだった。厳密には「パーフェクション」なのだが、あだ名なんてそんなものだ。
「ともあれ――あっ」
「なによ?」
「おみやげが、ない」
「どういうこと?」
「多分アレだ、さっきの坂で落とした」
「えー?」
「ね、知恵穂。一緒に取りに行こうよ。がんばってチーズケーキ買ってきたのにもったいないじゃん。ね?」
罰ゲーム。
とんだ罰ゲームである。
コンクリートの壁と同じ扉に窓の続く工業団地である。壁の反対側にはほぼ同じ寸法の団地が建っていて、同じコンクリートの壁とオレンジのドアが並んでいる。建築基準法がどうのということで各館ともエレベーターが増築されてはいるのだが、わざわざエレベーターに乗ると無駄に遠回りになる。とすれば目の前にある非常階段をえっちらおっちらぐるぐる登るに決まっている。
「いやーすごいね。まるでダンジョンだ。こういうところで私はモンスターと戦ってみたい」
「勝手に人の家を魔物の巣窟にせんでもらえるかな」
「いやぁでも実に重厚なおすまいです。きっとこうした伝統の佇まいが天才・安東を育んだんでしょうなぁ」
何のモノマネかは分からないが無視して部屋の鍵を開ける。クーラーはつけっぱなしで出てきた。土間からすぐに台所になっていて、ドアがふたつ、ふすまがひとつ。幸からもらったひしゃげたおみやげをとりあえずキッチンテーブルに置くと、自分の部屋に幸を促した。
「いい眺めだねぇ」
幸はカーテンを開ける。赤い西日が容赦なく差し込んでくる。幸を部屋に残して冷蔵庫からペットボトルの紅茶を出していると「おや、このエロ本はなんですか」と聞かれる。ねぇよ! と答える。
「で、満足した?」
「え、あぁ」
本来の目的をすっかり忘れていたのであろう幸が、ケーキのスプーンをくわえながら返事をする。
「満足した。いい罰ゲームだった。知恵穂もたまには受けたほうがいいんだよ、罪とか罰とか」
「また今度行くからね、ビリヤード」
「そうだね、今度は曲っちとかも誘っていこう」
「そうするとどうするの? また罰ゲームでひとの家にお邪魔するの?」
「それはどうかなぁ。今回はほら、パーフェキション安東の生まれ育った場所が見たかっただけだから」
「そういう意味では俵村家、見てみたいけどね」
ケーキは八等分した。ひしゃげたところを中心に二人で半分食べて、残りの四切れは家族で分けることにした。
「それにしても、すごいよね」
「まぁ見ようによっては、すごいのかも」
「お父さんお母さんが結婚した当初の家でそのまま二十年いるんでしょ? お父さん何屋さんだっけ」
「父はレンズを磨く技師。お母さんは看護師」
「それだけ稼いでるんなら、もっと良いお家に引っ越すことも出来るだろうにね」
「たまに話は出るんだけどね」保育園に小粋を迎えにくまでには三十分ある。「私、高校卒業したら家を出るから」
「お、出るの? 何するの、大学?」
「え、誰にも言ってないけど、言っていい?」
「受験戦争をくぐり抜けた幸おねーさんにどーんと言ってらっしゃい」
「え、終えた、って」私ははっとして幸に向き直った。「アンタ、本当にこのまま芸能界とやらに進むつもりなの?」
「え」不意を突かれたように幸も向き直った。「つもりもなにも、もうムサビ、受かったから」
「はぁ?」ムサビ。むささび藝術大学。
「アンタなんで何も云わないのよ!」
「まぁとにかく、アタシのことはいいから――で、どこに行くの?、ちぇほちゃんはッ!」
幸は膝立ちになった私を両手で収め、肩に手を置き、幸はこちらの目を覗き込んでくる。
「**」
「**! なんでそんなど田舎に!?」
このリアクションはマジだろう。少しでも幸のことを出し抜けて嬉しい。
「①、あんまり頑張らなくても国立に入れる。②、地元にそこそこ大きなテレビ局がある」
「というと?」
「結論、そっちでテレビ局に入って、全国区のテレビ局に乗り換えてくる」
「じゃ、アレだ、私がアカデミー賞とか取ったら知恵穂が報道してくれるわけだ?」
「いや? ゲス不倫かもしれないじゃない?」
お前も野球選手とサッカー選手で二股かけちゃえ、などと云っているうちに時間になったので保育園に小粋を迎えに行き、その足で幸は帰っていった。
「なんかがんばって遠くまで来たかいがあった」と云っていたから、私の中でも良かったことにしようと思う。