サビタ沢教育所
今月のゲスト:河合裸石
(上)
秋も最う中旬過ぎ、山葡萄の葉が日々に凋落して行く頃、サビタ沢簡易教育所の先生がふいと居なくなった。
平常釣魚嗜きの先生の事だから、また例の毛布を肩に捲いて、谷また谿を越えて深くヤマベの沢へでも遠征を試みたのであろうと、初めの二三日は村の人も別段気にも止めなかった。
然し先生は五日経っても七日経っても帰校って来なかった、約三十名許りの生徒は却ってそれを喜んで、毎日学校に集まって来ては日の暮れるのも忘れて、大騒ぎを働いて帰って行った。
学校の前は直ぐヤマベ川の支流に臨んでいて、針一本落としても判るような清い水が、蜿蜒たる鬼の子山の裾を縫って流れている川の畔は起伏の多い新開地で焼け残った老樹の切株が所々に熊の子のように立っている、それを囲んで、蕎麦だの大豆だのが秩序もなく植え付けられていた、何処を眺めても、無趣味な谿間で、家らしい家は一軒も見当たらない、ただ学校の隣……隣と言っても約三町もある……の虎之丞さんの家だけは、屋根が柾で葺かれていた、虎之丞さんの家の前には旧式の郵便函がブラさげてある、三日に一遍宛この村から二里西のトコタン村の郵便局から、妙な中折帽を冠むった集配人がノソノソやって来ては、ポストを開いて去るのであった。
村田先生は、恁うした寂しい山家に赴任して来られてから、はや足掛け一年にもなるのだ、村田さんは何でも中学を卒業してから農科大学に入学ったが、ある事情の為に二年目の春廃して、それからはただブラブラしていたが、ふと小学校の先生に化けて見たいような気になり、恰度欠員のあったを幸い、此のサビタ沢に代用教員として舞い込んで来たのであった。それ以来、
『あんでもはあ、こん度来なはれた先生様はドエライ学問のある先生だちうにのう』
『永う居って下さればよいになも』
と、五十戸にも足らない山口県の移住団体の父兄は、寄るとさわると恁麼話をして、只管村田先生に望みを嘱していた。
(中)
先生は学校の教室の隅を仕切った六畳の一室に住居でいた、村の人は先生が若いのに唯一人なのを気の毒に思って、折々種々な御馳走を持って来る、秋の夜長の頃にはソット教室の窓を開け、牛の吼えるような声を出して、
『蕎麦が打てたけんにのう』などと言って置いて行くのであった。
殊に万事につけ親切にして呉れたのは、お隣の家であった、主人の虎之丞は最う五十に近く、頭の綺麗に禿げた温順しい人だ、その妻君は以前左褄を取ったとかいう噂のある能弁な婦人で、二人の中に二十歳になる下膨れの愛らしいお松ちゃんという娘があった、何時もオドケたような廂髪を結っていた。虎さんは村の草分けなので、山や畑を多く持っていて、その上がりを取っている幸福な身の上である、だから是れという仕事もないので、毎日豚や鶏の世話などに気を使っていた。松ちゃんは毎晩学校に遊びに来ては、村田さんから文字を教えて貰っていた。初めの程は若い男の処へ、若い女が来るのは良くないからと、村田先生は松ちゃんの父母にも注意をして見たが、成程言った時は二三日、足も停まったが、軈て五七日を経つとまたやって来る、何分衣服の洗濯や、食物の世話までも焼いて貰っているので、そうそう八釜しく注意もし兼ねるので、それからは、村田さんも黙許していた。
春と過ぎ、夏と暮れ行く儘に、物識りの先生、親切な先生、豪い先生との評判は、父兄や児童の間に喧伝された。虎さんの家では、痒い所へ手の届く程親切の限りを尽して呉れた、山家の人は、
『我が子でも、あんげえにゃ世話が出来ぬもんだにのう』と言い合っていた。
その頃から、お松ちゃんは時とすると朝早く学校の方から、自宅へ帰って来るようなことがあった、寝衣の上に紅い細紐を締めたダラシのない風姿をして――。
恁麼に親切にして貰っていた、果報者の村田さんが、ふいと居なくなったのだ。
今日も相変わらず生徒が集まって来て、朝から教室の中で大活劇を演じている、ボールドに楽書をする、角力をとる、ベビーオルガンを乱奏する、机を転覆かえす、喧嘩をする、泣く、わめく、喧々騒々として殆ど手の付けようもない。蒼ざめた顔に、例の廂を大きく結った、お松ちゃんは教室の内から外を眺めてキョトンとしている。
『見んさい、餓児共が豪う騒いでいるわい』と、馬鈴薯の俵を馬につけて来た、鼻の大きい男が校門に佇んで道連れの女を顧みた。
『まだ先生は帰らんのけえ』
『帰らんちゅう話や、あんでも與太の言うがにゃ、もう去いで了うた言うけん、来なはらんじゃろうよ』
『あんげえに、良い先生がのう、什麼して去んでつら?』
二人は恁うした話をしながら、白樺の沢へ去った。何か面白い事件が湧いたものと見えて、ワーという児童の声が、校舎を震わして聴こえた。
(下)
農家では最う収穫が済んで、楽しい冬のシーズンに入る準備がすっかり整頓した。葉を捥がれた冬木立に囀っているカケスは、折々吹き渡る木枯の音に耳を欹てるようになった。木の間隠れに銀色の背を見せていたヤマベ川の清流も、此頃はその流域の全部が見えて来て、平素は緩やかであった流れが、黄色になった虎杖の葉や熊の掌のようなタランポの葉などを乗せて、急しげに流れて行くようになった、畑には馬鈴薯を埋蔵して置く小さなピラミットが幾個も出来て、世は争われぬ初冬の色に満ちた、けれども村田先生は未だ帰って来なかった。
此頃は生徒も騒ぎ疲れたものと見えて、学校に来る足もメッキリ少なくなって、二日に一遍か、三日に一遍位、尋常六年生は級長がやって来て、下駄を穿いた儘、馬のような長い顔で、教室の中をソソクサと見廻って帰るのみであった。お隣のお松さんは、村田先生が去られてから、約一ヶ月許りは毎日学校の境内に見えていたが、その後は什麼したものか姿を見せぬようになった、何でも近所の人の話によると、自分の家にも居らぬと言うことだ。村の人も先生の噂をせぬようになったが只虎さんの妻君だけは、
『村田さんも不実な人だわねえ』と訪ねて来る人毎に、この村唯一の東京弁で噂していた。
斯くてその年も暮れて、新しい四十四年の春は、恁麼山家にも音づれて来た、村の人は炉辺を囲んで、屠蘇を汲み交わしながら、様々な浮世話に花を咲かせた。
『村田先生は何処へ去んでつら?」
『故郷へ去なれた言う話もあるがのう、己ら真実とは受け取れんがや』
『だけんど、先生の所有物は学校にゃ何も無い言うけん、真実やろう』
『去んでなら去んでも可いけんど、手紙の一本位は寄越してもよかろうにのう』
『手紙は虎さん所へ来た言う話や』
『そうけえ、什麼げえな事が書いであったつら?』
『年始状の端に、ちょっくら書いて来た言うけん、悉しゅうは判らんけんどのう、居られぬ理由があって、済まんけんど無言って村を出たちゅう』
『あれ見んさい! やはり此方で察する通り、お松坊のことだんべえや』
斯麼話をして、山家の人達は松の内を消していた。今日で最う村田さんが見えなくなってから四箇月も経った、先生は帰らぬのかしら?