(全国俳句行脚の旅に出た俳人河東碧梧桐は、北関東から東北、北海道を巡り、いま新潟から佐渡へ向かおうとしている)
十一月八日。曇。少雨。
佐渡に渡る用意をしたのに、船が水戸口のわるいので出ぬという。何処の川口も船の出入りに思わしいのはないが、信濃川のは殊に甚しい。浅い処と深い処が少しも定まらぬ。殆ど日に日にかわる。一日の中にも、朝と昼と晩とで違う。風もなし、凪もよいと思うても、水戸口の良否は其の日其刻でなければ定め難いという。
雨中始めて雁の声を一二声聞いた。
(越後新潟にて)
雁鳴く海見ゆる窓を閉しゐて
旅中に聞きし
訃をかゞなうる
十一月九日。時々雨。西風強し。
けさは船があるというので、六時頃そこそこに駆けつけると、もう出帆したという。次の八時半出帆の船に七時頃から乗り込んでボンヤリしておる。同勢は男女十四五人ある。やがて八時過になった時、役者が十五人乗りますから、お客さんは奥の方へ移って呉れという。奥の方は二等室であるが、薄暗いため誰もはいらずにいたのだ。今に上の窓を開けて空気の流通をよくしますという。
何れもどやどや立って行く。予の
側に、私は酔いますからと、横になっていた白い
頤髯の老人までが勢いよく立って行く。十人も入ればいっぱいになりそうなので、予
許り跡に残る。上の窓が開けられたと見えて、今まで暗かった其
室が
赫と明るうなった。
丸髷の崩れかかった鼻の低い女の顔が、何で光るのか、青白くテカテカしておるのがまともに見える。間もなくドヤドヤ桟橋を踏み鳴らす音がして、其処の荷物を出し入れする口から一人潜り二人潜ってはいって来る。いずれもカーキー色の上衣に、黒いズボンを穿いて、中学生のような帽をかぶった、一定の服装の男じゃ。これが役者かと見ておるうちに、楽器をとって下さい、という黄色い甲高い声が響く。袋にはいった喇叭のようなものを入れる。大太鼓を抱え込む。小さな鳥籠に
目白を五つ入れたのと、同じような籠に鳩二つ窮屈に入れたのを、天井に釣る。妙な物を入れると思うておるうちに、恐ろしい
廁髪の女がころがり込む。「叔父さん痛いわ、馬鹿にオケツを突くんだもの」と起上りながら大きな声がいう。「だって出余りかたがね、大体でないもの」と、叔父さんというのがニューと立って、頭を天井でコツンと打つ。「叔父さんは人のオケツの事ばかし言って、自分の顔の長いのにお気がつかれんのさ」と廁髪が紋付羽織の襟をかき合わせながらいう。成程叔父さんの顔は少し
裏天地味て
寸伸がしておる。顔が
削立して、
頤が
懸崖を垂れておる。
其中先生先生と皆でいうのが洋服にインパネスを着て乗った。後から
又た一人廁髪が出る。三つ位の女の子を抱いた書生体の男が現れる。行李や風呂敷包やズックの鞄も十
許抛り込まれる。詰め込めば五十人位もはいりそうな三等室もこれらの人数で一杯になる。口々に何やら罵り合って上を下への混雑になった。其の混雑の中から、済んだ声で鼻歌を歌いながら、一人の
印半纏がはいって来た。「徳さんは相変わらず呑気ねえ」と一人の廁髪が押さえつけるようにいう。印半纏は一切頓着しない。「お前と私は従弟同士かね」と歌いながら、胴巻のかくしから梨二ツ出して黙って廁髪に見せる。「オオいい梨、どこで買って」と言うておる間に、船の外で「梨買わんか、十銭に六つに負ける」と
銅鑼声を揚げる。「あたし買ってよ」「
己も買わァ」と今度は入口に押しかける。徳さんはナイフを出してそろそろ梨をむきにかかる。見ると、半纏の背に「ヂャグラー」と白く染め出した丸半分が予の方に向いておる。首を延べると、丸半分の向う側に「
操一」とある。始めて手品師の一行であることがわかった。三条で博打をしてどうしたというような噂を聞いた、旅稼ぎであると知った。銘々に買った梨を銘々にむいて、馬が瓜でも喰わえた体裁で一時に食い始める。先生も食う。叔父さんも食う。厠髪も
吾れ劣らじと頬張る。三つ位の女の子も丸々とむいた一つを掌に乗せておる。形勢猛然として又
索然たるものがある。食いながらもお
酒辯りはやめぬ。卑猥な洒落もいえば、聞いてもおれん理窟もいう。これが二等室なの、誰でも乗りがちなんだねえ、だって先生の
座がないわ、と奥の
室を見て口々に不平をこぼす。とうとう先生と一人の廁髪とが奥の室に割り込むことになって、騒ぎは一段落を告げた時、ようよう船が出た。出るとすぐバラバラ音がして雨が降ってきたので、甲板からドヤドヤ人が下りて来る。入口は波がはいるというので締められる。
今迄が余り明るくなかったのが、一層どんよりと暗くなる。ムシムシする。息がつまるようでもある。「空気がちっとも流通せん」「窒息する」「まるで密航婦のシアトル行きだねえ」「それでも口のきけるだけがいいわ」「よく御存知でいらっしゃる」「だってあたしはまだ日本の英国なんかへ逃げませんからね」「ハハハハハハ」何やらわからんことを
又た
酒辯リ出す。其の中カーキー色の一人が、横の上の方にある丸いガラス窓を開けながら「イヤ堅い」という。「何がさ」「このねじがよ」「堅ねじかね、つばきをつけるといいよ」とまた騒ぎ出す。まるでサワグラー
騒一じゃ。税関前で船がとまる。「船がとまったよ」「難船かい」「人を轢いたって、誠に気の毒な」とまた下卑た洒落じゃ。
税関に一時間もとまっておる間、予はとろとろ寝る。目が覚めると、もう船は海に出ていた。総
噸数が七十噸許りの小さな汽船は、覚悟通り揺れておる。以前開けた丸窓から汐が打込んだので、廁髪の一人がそれを浴びたようであったが、アラと大きな声をすると
一処に、抱いていた女の子がわっと泣き出す。もう誰一人構うものもない。長蛇を逸し過ぎた者共はそこらの荷物につかまってウンウンいうておる。
醜汚の気が極端まで走って、航海は五時間つづいた。予も覚悟の通り
船暈を感じた。船暈を感じたのはそれでよいとしても、
夷港の桟橋を上る時、「アナタはジャグラーの
方で」妙な男が予に問いかけたのは心外千万じゃった。
すぐ車を命じて点灯
頃此地に著。俳人十数人と会して甦った。
(佐渡河原田にて)