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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第28回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 11月)
文字数
1
Bigcat
3656
2
サヌキマオ
3000
3
咲本らら
2120
4
蛮人S
3000
5
河東碧梧桐
2442

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A Lost Dog
Bigcat

月曜の朝がいつものように台所の風景で始まった。妻は朝食を作っている。私はソファーで辛抱強く鍋やフライパンや包丁の不協和音が止むのを待っている。
 私は新聞のクロスワードでもしようかなと思ったが、妻は別のことを考えていた。
「お父さん!正雄が旅行で一週間留守にするの。会社のストレスが半端じゃなくて休暇をとったのよ」
 私は縁側のロッキングチェアーの傍に移動して、外の庭を眺めた。退職前は結構庭いじりが好きで、ストレス解消の目的で、生け垣の傍に小さな
野菜畑なんか拵えていたが、仕事を辞めてからは、ほったらかしにしていた。雑草が生えるにまかせている。
 妻は妻で自分の花壇を大事にしていて、私が立ち入ろうものなら、人が変わったように目を吊り上げて怒る。黄や赤の花が好みのようだ。
「あなたマサの世話で忙しくなるわよ」と妻が出し抜けに言った。マサと言うのは、うちで飼っているテリア犬の名前だ。
 私は黙って30年連れ添った妻を見た。二人とも60代前半だったが、妻の方がずっと若々しかった。週四日、市民プールに通ってスリムな体型を維持しているし、美容院に二週間に一度行って、髪を切ってもらい茶色に染めている。私より皺が少ないし、若い頃の面立ちを残している。
 対照的に私は禿げていて、醜く、上半身の肥満のおかげで膝が痛む。物忘れがひどくなったと妻に指摘されるが、自分でもそれは自覚している。でも認知症の検査なんかは御免こうむりたい。
 「私の言う事きいてるの?」
 と妻が鋭い調子で突っかかるように言った。腰に両手を当てて、挑むような表情だ。
 「正雄は一週間いないのよ。マサの世話はどうするの。私は仕事だし」
 私は顔をしかめた。
「散歩して新鮮な空気がすえるんだから。だいたいあなたは体を動かなさすぎよ。犬の世話は健康にいいのよ」
 妻はいらいらした調子で豚肉や野菜を刻んだ。30年の結婚生活で私が実感したのは、妻の言う事には逆らわないで、黙って下を向いていればいいということだった。機嫌を損じて罵倒されたり、包丁を振り回された時もあった。できるだけ怒らせないように努めた。


 妻がパートの仕事にでかけ、朝食をすませると、近所で一人住まいをしている正雄が突然キッチンに入ってきた。テリア犬のマサを連れている。舌をだらんとさせて、荒い息をしている。テーブルの傍に置いてあった皿からドッグフードをむしゃむしゃ食べ始めた。
 正雄は目を合わさずに私に話しかけた。声が少し震え気味だ。
「僕がいない間、マサの面倒みてくれるの? 動物病院に預けてもいいんだぜ」
 正雄は神経質で、いつもおどおどしていて、貧弱な体格にコンプレックスを抱いていた。二人はいつもよそよそしかった。
 私は安心させようと思って、彼の肩を軽くたたきながら、
「大丈夫、まかせない」と言ったが、正雄はちょっと目をあらぬ方向に向けて後ずさりした。ぎこちない雰囲気が二人の間に漂った。
 正雄は高校生のときに可愛がっていた柴犬の太郎が突然姿を消したとき、いなくなったのは全て私の責任だと断定し、ずっとそう信じ込んできた。
 5年前のある晴れた冬の日曜日の午後、太郎は庭木の枯れ枝を転がしたり、噛んだりして、じゃれまわっていたが、私がロッキングチェアーで居眠りをしているあいだに姿が見えなくなった。いったんは目を覚まして、どこへ行ったのだろうかと思ったが、風邪気味で体がだるかったので、また眠り続けてしまった。後で気付いたことだが、庭の枝折戸が開け放したままで、太郎はそこから出て行ったようだった。買い物から帰ってきた妻と正雄が日暮れまで太郎を探しまわったが見つからなかった。私は体調が悪かったせいか、その時の記憶はまったく飛んでしまっているが、正雄の涙と妻の怒りの表情だけは鮮明に覚えている。後で聞いたが、交番に届けたり、駅の掲示板に写真を貼ったりして、いろいろ手を尽くしたが無駄だったらしい。
 正雄は深く息を吸い込んだ後、私にリードを渡した。足を泥まみれにしたマサは鼻をぴくつかせながら、いったんはお座りをしていたが、すぐに立ち上がり、私のスリッパに近づいてきて齧り始めたので、邪険に追い払った。
 正雄はぼそぼそ言い始めた。
「マサをいらつかせないでね。水分をたっぷり与えて、それから何か齧るものもあげてよ」
(スリッパはごめんだぞ)
 マサは低く唸って、再び私の足元に口を寄せてきたので、きつく蹴飛ばしてやった。正雄は眉をひそめて、さらに言った。
「マサを一日2時間は歩かせてよ。うんこしたら拾って、これに入れて」
 ビニール袋とシャベルを寄越した。
「車の通る道路や線路の近くでリードを放したら駄目だよ」 
 私はいらっとした。
(なんで犬ぐらいのことで、息子からいろいろ言われなきゃならんのだ。私はぼけがきて、会社はしくじったけれど、家のことはちゃんとやれるさ)
 正雄はこの後もなんだかんだ注意事項をしゃべっていたが、もうしゃべることがなくなったと見えて、マサの頭を撫でて、さよならを告げたあと出て行った。



 それからどれぐらい時間が経ったろう。私はいつのまにかソファーでまどろんでいたようだ。眠い目にあの男の姿が映った。青黒い顔をしている。手にスリッパを持って立っている。私は小さい声で尋ねた。
「今日はなんの用だい」
 男はスリッパをテーブルに叩きつけた。私は混乱した。最近よく起きることだった。とりとめもない想念が頭をよぎった。
(どうしよう。一杯やりたくなった。腹が減っている)
 男は消えた。
(このまま座っていよう。なにか良いことが起こるかもしれない。男はどこへ行ったのだろう)
 はっと周囲の情景が目に飛び込んできた。今までのは夢か、うつつか……


 私は散歩用のスニーカーを靴箱から引っ張り出して履いた。コートを羽織って、リードをマサの首輪につけた。そして枝折戸から外の道路へ出た。マサは興奮して、精力的にリードを引っ張りながら前進した。私は膝の関節が痛んでよろよろした。バランスを保つために、強くリードを引っ張った。マサはおとなしく従って、私と歩調を合わせた。
 公園に入るとマサが欅の木の根元にうんこをしたので、シャベルで掬ってビニール袋に入れた。小さな犬のくせに大量のうんこだった。かがんで掬った時、背中が痛んだ。
 マサが走りたがっているようなので、しゃがんでリードを外した。マサはちょっと私を見上げた後、耳を揺らしながら走り出した。すばしこい動きだった。急に立ち止まって、くんくん何かを嗅いでいる。欅の木の下に散らばっている枯葉を鼻でかき分けるようにしている。頭を上げたり、下ろしたりしながら、公園を一周してまた戻ってくる。舌をハーハーいわせながら、また私を見上げる。笑っているような表情だ。


 翌日も同じ繰り返しだった。妻は朝食を作る。私に指示を与えて仕事に出かける。マサを散歩に連れ出す。うんこの世話をする。リードを放してやると、元気よく楽しそうに走っていくが、しばらくすると必ず戻ってくる。
(太郎は帰ってこなかった)
 家へ戻ると、食べ物と水をやる。ぼろぼろになった熊のぬいぐるみで遊ばせる。マサが庭にいるときは、私も久しぶりに雑草を抜いたり、野菜畑の土の手入れをしたりして、体を動かした。


 正雄は明日帰ってくる。午後、マサをまた外へ連れ出した。その日は冷たい風が強く吹きつけてきたので、コートの襟に深々と顔を埋めた。
 妻の言うとおりだ。犬の散歩で歩き回るせいか、以前よりも食欲が増した。
 家に帰ってソファーに腰を下ろし、疲れた足をさすった。マサはまた庭に飛び出した。実にエネルギッシュだ。鼻をしきりにくんくんさせ、土をほじくり返している。
 いつのまにか眠ってしまったが、マサの吠え声で目を覚ました。マサはそれほど吠える犬ではない。行方不明の太郎はよく吠えた。隣人は犬の吠え声に敏感だった。よく文句を言った。
 私はソファーから身を起こし、痛む膝をひきずりながら庭へ出た。驚いた。マサは自分で掘り返した土の傍で寝そべっている。妻が大事にしている花壇の中だ。菊やダリアが散乱している。マサは寝転がったまま、前足に何かを挟んでいる。私の心臓が早鐘を打った。
(頭蓋骨だ!)
 白っぽく漂白されたようになっているが、原形はしっかり保たれている。
 私は我を忘れて、くぼんだ花壇の土を両手で掘り起こした。マサも頭蓋骨をそっちのけにして、前足の爪で狂気のように穴を掘り始めた。まもなく首輪と体の骨の全容があらわれた。小柄な犬の骨だ。瞬間、私は凍りついた。白骨化した肋骨の中にある物を発見したからだ。木の柄のついた短めのキッチンナイフだった。何度も見たことのあるやつだ。
「太郎だ」
 汚れた手で口を覆いながら呟いた。驚愕のうちに、哀しみが私を貫き、あふれる涙が視界を曇らせた。忘れていた太郎の記憶がよみがえってきた。それを打ち消したいという衝動が起こってきて、震える手で慌てて土をもどした。土の下で骨はじきに見えなくなった。

A Lost Dog Bigcat

旧・ゴジラ
サヌキマオ

 明和七年四月二十九日。ジェームズ・クックの一行がオーストラリアに上陸したのとは関係なく、豆州熱海城が主、枡掛忠厚は暇をしていた。幕府の直轄地である上に温泉から産まれる各種産業でずいぶんと楽をしていたが、楽だからといって暇は暇である。強いものが欲しいと思った。元来、忠厚は強いものが好きであった。
「この世で一番強いものはなんであろうな」
「さて」問われた家老のベクナイが中空を見上げる。「鯨は強うございます」
「そうだな、隣の秘宝館では鯨の珍宝がホルマリン漬けになっておる」
「やはり鯨でございましょう」
「たしかにそうではあるが……あれは浜に打ち上げられると手も足も出ない」
「まこと」
「では、陸においてはどうであろうな」
「虎、でございましょうか」
 虎なぁ、と忠厚は外を観た。崖の上に築かれた城からは相模湾を腕に抱えられる。今日はよく晴れていて真鶴の岬がよく見える。鳶が一羽、ふいに角度を変えて目下に流れていった。なにか地面に獲物でも見つけたのだろう。足元の港に向かって一対のロープウェイが敷かれていて、右に行けば熱海港、真っすぐ行って海岸線を山側に折れれば熱海駅だ。
「虎、というのは本当にいるのかな」
「どういうことでしょうか」
「あんな屏風絵で見るような、金毛に黒い縞の入った獣など、人の想像の中にしかいないのではないだろうか」
「なるほど――しかし、パンダのようなものがおりますくらいですからな」
「秘宝館のか」
「あれも剥製でございます。たしか先代が」
「うン、父上が上野で仕留めたと生前自慢しておった。それがどうした」
「世の中は広い、ということでございます。あんな白黒のけったいなけだものがおるのですから、虎だっておるに決まっております」
「猩々」
「はぁ?」
「猩々、はどうであろう」
「猩々、見たことがお有りですか」
「いや、ない。では狒々か。狒々であれば伊豆の山にいくらでもおる。あれは随分強い」
 ものの本によると猩々ことオランウータンが日本にやってきたのが寛政四年。この年から実に二十二年後のことだ。ゴリラにいたってはイギリス人に見つかるのが弘化四年、およそ七十六年後である。
「今のはなんでございますか、おマンタンだのゴリラだのと」
「余には何も聞こえぬ――いやまてよ、ゴリラは識っておるぞ。定山渓の北海道秘宝館の入口におった。ああ、あれならば」
 流石にそこは天下の暗君、伊達にくだらない遊びに無駄な銭金を湯水のごとく使っているわけではない。ゴリラと鯨の合の子であれば陸でも平気であるのではないか、いや、きっとそうに相違ない。ここに暇と金を持て余した下衆の一大計画が持ち上がったのである。
 ゴリラの白子で鯨を孕ませる! 後に早飛脚を遣わせてわかったことだが、北海道秘宝館のゴリラは絡繰であった。絡繰でした、で済まないのが宮仕えで、城主以下直臣総出で額を集めた結果、狒々でもいいだろう、しかたあるまい、という話になった。いるかいないかわからないものよりも、いるものを捕えたほうがいいだろうという結論に至る。
 伊豆山の奥で三月かけて狒々十六を捕え(しゃれ)、しばらく滋養のあるものを与えて太らせると地元の飯炊き女などに相手をさせようとしたがうまくいかない。女たちはいやがるし、囚われて鬱憤と滋養の溜まった狒々の腕力には男もかなわない。逡巡懸案した結果、狒々を大の字に縛り付けて藩の若衆に陰茎をしごかせるといった――つまり、扱い慣れているという面で――ことでどうにかようよう、手桶一杯分の白子を手に入れた。狒々はそのまま野に放つとどのような厄災になるかわからない、と板に縛ったまま海に放り込む。あとで若い禰宜を呼んで祓わせた。口封じに禰宜も殺した。どこかで自分たちの莫迦莫迦しさに気づいていたのである。
 鯨はどうであろう、地元の漁師が必死に止めるのを聞かず、廻船の大きなもの一艘を誂えて、雌の鯨を探しに外房まで出かけていった。林羅山のものとされる書物にいわく「九ツになると寝る魚、それが九時ラ」とある。その通りであった。体長五、六丈はあろうか、波の間に間に茄子のおばけが浮き沈み。ここに船を寄せて寄せて寄せて、船の上では船頭一人、褌一丁の武士十余名が手に縄を持て待ち構える。
「嗚呼忌々しい、この鎌柄三郎太、これでも忍岡で優等で鳴らした男でござるぞ」
 なぜこんなことをせねばならぬ、と憤る若い侍に、上方らしき白髪交じりの壮年の侍が笑う。
「さは言うてもアレよ、地元の漁師風情すぐに説き伏せる、と大口を叩いたのは鎌柄、貴様であろうが」
「しかしその前は狒々のせんずりを掻かされた。君命なれど身共はこんなことをしに当藩に帰ってきたのではござらんぞ」
 鎌柄三郎太。十一歳で江戸に出て十一年、刀よりも筆を能くし、ゆくゆくは家老にも上代にもなろう、と故郷に帰ってきての大仕事が狒々のせんずり鯨獲り。自慢の弁舌で地元函南網代の漁師を説き伏せるどころか頭に瘤をこさえて帰ってきた。筋骨隆々の漁師衆に温泉の儲けですっかりぶくぶくとした藩士たちが太刀打ち出来るはずもなく、「漁師を連れて帰らぬ場合は身共が知略の限りを尽くして鯨を港まで引きずってきてご覧に入れる」と大見得を切ってしまった手前やむを得ぬ。
「それを言わばおれもそうよ。貴様だけが勝手に鯨に食われてしまえばいいものを、つまらないことを云うから上役であるおれもこんなことをせねばならぬ」
「だが床尻様、これで首尾よくことが進めば我々の報奨も堅いものでありましょうな――と」
 船が鯨の身体にどすん、とぶち当たる。しまった、と思ったがぶつけられた鯨の方でぼこん、と波間に沈もうとする。
「これは――」
「もう死んでおるのではないか」
「いや――」三郎太はしばらく考えているふうであったが、心を決めたように「生死を問わず」と言い直した。
「連れて帰りましょう。それでもし本当に死んでいるのであれば、鯨も恥をかくと思いしか、舌を噛んで死にました、と言上いたす」

 それで?
 外は嵐となった。熱海秘宝館のロビーではほうほうの体で逃げ出した侍たちが十五人ほど身を寄せ合っている。ロビーの隣は映画館になっていて、主婦ナンパものの成人映画が延々と嬌声を流し続けている。
「鯨は生きておった。真に天佑か、うまく港まで曳いてきたはいいが、狒々の白子の入った桶を鯨のその……女陰に流し込む役というのが要ったわけだ」
「それで鎌柄は」
「鯨にはまったまま息絶えた」
「鎌柄は日頃から愚痴っぽいやつではあったが、総じて生真面目な男であったからな。君命誤むること勿かれ、と言い残して船を出したさ」
「それで狒々の白子を口に含み」
「口に含み」
「鯨の女陰に頭から突っ込み、口の中のものをぶちまけた」
「なんということだ」
「まっこと武士の死に様である。我々もかくありた……あ?」
「その結果が、あれか」
 鎌柄の死から三年三月、腹を膨らませていた鯨は真黒な合の子を産み落とした。案の定、鯨の身体に狒々の手足が生えている。子供は海中にてしばらくもがいていたが、どうにか最寄りの海水浴場までたどり着くと、港に係留された母親の元までよたよたと戻ってきた。子供は相当な怪力で母親の身体を裏返すと、そこから乳をちゅうちゅうと吸った。しばらくすると満足した様子でひとつげっぷをした。げっぷに混じった謎の怪光線は何かの罰当か偶然か、熱海城を一瞬で海に薙ぎ倒した。
旧・ゴジラ サヌキマオ

いくののみち
咲本らら

 小式部内侍は正直不安であった。母和泉式部が丹後に下りている間の京での歌合わせ。選ばれたのは嬉しいことだが、果たして……。
 思えば自分はいつも母の名の元にあった。自分はいつでも「和泉式部の娘」で、自分を一人の歌人として見てくれた人などいない。どんなに良い歌を詠んでみたところで、どうせ親の七光りであろうとか、きっと代作なのだなどと影で言われないことはなかった。それでも、いつかは認められると信じて必死に今まで詠み続けた。そして、巡ってきた好機。母のいないこの京の地で自分の実力を発揮すれば母の名前が自分に及ぶことはもうない。しかし、逆を言えばそれは……
 小式部は視線を外に向けた。皆がそれぞれ、何不自由なく自分の歌を詠み、感嘆の声を漏らす。それは至極当たり前のことなのであろう。なんのしがらみもなく、自分を思うままに表現できる。歌を詠むときでさえ母の名がまとわりつく小式部にとってその当たり前ははかない願いであった。
 と、局の外から男の笑い声がした。小式部はその声に聞き覚えがある。たしか藤原公任殿のご子息で、定頼といったか。
 定頼はそのまま友人を連れて小式部の局を通り過ぎていった。
……かのように思われた。
 しかし、小式部は聞いた。ぼそりと、独り言のような声ではあったが確かに聞き取った。通り過ぎる前、彼の言ったことを。
「いや、母君が居られんではさぞかし不安でしょうなあ。歌の代作頼みに遣わした者は参られたのであろうか? さぞ待ち遠しくお思いになられているであろうのぉ……」
 そして、見た。定頼が通り過ぎる寸前、ちらりとこちらに視線をよこしたのを。その口元に笑みが宿っていたのを。まるで「どうだ、違うか? ん?」とでも言うように。それはそれは腹の立つ顔で。
 気が付けば、――自分のどこにそのような行動力があったのかと今でも甚だ疑問だが――小式部は定頼中納言の直衣の裾を掴んでいた。しかもシワが寄る程にがっしりと。
 そしてさらに気が付けば、小式部の口は言葉を紡いでいた。
 
大江山 いく野の道の遠ければ まだふみも見ず 天の橋立

 そんな言葉、昔から耳にタコができるほど聞いてきた。もっとひどいことも言われたかもしれない。その全ての陰口を、小式部は一切無視して歌を詠み続けた。言いたいやつには言わせておけばいい。いつか自分の力は認められるのだ。否、認めさせる。そんな思いを抱いて。
 藤原公任といえば、当代きっての文化人だ。その息子である定頼が、小式部と同じような境遇を歩んできたことは、容易に想像がつく。しかしだからこそ小式部は許せなかった。嫌味を言われたからではなく、定頼に言われたということが何よりも小式部に歌を詠ませた。
 なぜ、貴殿がそのようなことを言われるのか。今まで悔しい思いをしてきたのではなかったのか。私と同じ境遇を歩んできた貴殿なら……!
 刹那、ばっと直衣の裾が翻った。反動で手が離されてしまう。
 くっと定頼を見上げた小式部は瞠目した。
 定頼は、笑っていたのだ。先のような嘲笑いではない。不敵な、まるで童の謀が成功した時のような笑み。
「これは一体どうしたものかー。このような素晴らしい歌を即興で読まれるなど予想もつかなんだー。わー退散だー」
 そしてかなりの大声で、かなりの棒読みで、「即興」の部分をいやに誇張してそう言うと、そのままさっさと歩き出してしまった。
「え……ちょ、定頼殿……っ」
 呆気に取られていた小式部は慌てて呼び止めようとするが、既に定頼の姿は小さくなっていた。

 あの事件から、小式部の環境は変化した。今まで陰口を叩いていた者は掌を返したように小式部の歌を褒めたたえ、ゴマをすりだした。しかし、歌の世界で認められたのもまた事実である。どれだけ小式部が歌を詠もうと、もうそこに母の名前を出すものはいない。「和泉式部の娘」から「歌人の小式部内侍」となったのだ。
「定頼殿も、よもやあなたがあれほどの歌を詠まれるなどと思わなかったのであろうなあ」
 仲良くなった歌詠み仲間はそう言うが、小式部にはどうしてもそう思うことができなかった。
 今思えば定頼殿はこうなることを予期していたのやもしれぬ。
 筆を動かしていた手をふと止め、小式部は考えた。
 立ち去る前、定頼の浮かべたあの笑み。あの言い方。どうしても返歌に困っているような態度ではない。
 もしかしたら定頼は、自分以上にひどい境遇を歩んできたのかもしれない。なにしろ公任の息子なのだ。物理的な嫌がらせを受けていたとて、なんらおかしくはない。
 そのなかで生き抜いてきたからこそ、同じ境遇でもがき苦しんでいた自分に抜け出すきっかけを与えてくださったのではないか。
 まあ、今更そのようなことを考えても事実を確かめる術はないのだが。
「小式部殿、どうなされた? さっきからぼーっとされて」
「いえ、なんでもございませぬ。ただ……」
 周りを見渡す。さまざまな人が歌を詠みあい、「心」を分かち合う。そこに身分も家の生まれも関係ない。それは小式部がいくら望んでも手に入らなかった世界。
「人の世と縁は、まこと分からぬものであると思いまして」
あの不敵な笑みを頭に浮かべながら、小式部はふふと笑った。
いくののみち 咲本らら

下請け宇宙
蛮人S

 機関室内に蒸気が立ち込める。熱に膨らんだ空気、じっとり濡れた縞板の鉄床。そして何度も汗を拭いながら、七本のレバーと格闘する俺。
 湯気の中、各々の持ち場を守って、必死の操作を続けるクルーは、みんな汗でびしょ濡れだ。
(まるで蒸気船のボイラー室だ)
 もはや宇宙船の機関室とは思えなかった。
 そして何より、忌々しい、あの甲高い声。
『♪あー暑ツィー暑ツィーツィー♪トゥララ♪』
 船全体に、絶え間なく響き渡る、機械の歌声。一万キロワットのコンピューターの動作音が、狂った歌となって耳に流し込まれ続けていた。そして、その演算能力と引き換えに奴が吐き出す膨大な熱量……。
『♪暑ィー熱ィーのホント・暑ィー熱ィー・ノホン♪』
 この熱のお化けが、いったいどんな仕組みで動いているのか、なぜあんな大きな音なのか。俺には、まったく分からなかった。もう何時間、あの歌を聞かされたかさえも、判らなくなっていた。
 判るのは、今この宇宙貨物船、ノディーラⅦ号は、文字通りに崩壊寸前という事だけだ。
『♪ナンナンナンとかシローイ♪トゥララ♪』
 一瞬キレそうになって手が止まる。お前こそ何とかしろ。俺は頭を振って汗を飛ばした。
 三段計器盤の向こうで、機関長が顔をびんびん拭いながら叫んでいる。
「セカンダリ! まだ、もつか!」
『♪あツィーツィー・ツィートゥラらッた♪』
 うるせえクズ。いや機関長の事じゃない。もう間違えそうだ。俺は計器のガラスを拳で拭って絶叫で答えた。
「レッド限界です! 二分前から下がりません!」
『♪ラットらっとラッ♪トラッ♪トラ♪』
 俺は拳を握りしめた。
 巨大な演算能力をもつスーパー馬鹿コンピューター。船の八割方の空間を占める大荷物だ。スイッチ入れなきゃ、ただの荷物だったのに!
 ノディーラ号は、流星群との衝突で船体構造に致命的なダメージを受け、ほぼ分解していた。いまや三百八十二の断片に分かれた船体を、辛うじて抑え込むのは各部に設置された五百十二基のスラスターロケット、それを制御するため、最後の手段として電源を投入したのが、
『♪トゥらんらラランら♪』
 こいつだった。
「畜生が……」
 あの流星群! あれにぶつからなきゃ(……あの馬鹿に頼まなくても)もっと上手に避けてくれたら(……あの馬鹿を動かさなくても)防御システムがもっと強力だったら(……畜生!)宇宙船が頑丈だったら「……畜生!」
「ぼんやりするな、新入り!」隣で頑張る班長が叫んだ。「パイプライン、三段開放!」
「はいっ」俺は慌ててレバーを引く。
『♪ラっぱっぱー♪』
「班長、あのクソ野郎を黙らせて下さい……」
「ただの音だ、気にすんな! 耳障りなのはお前の精神が壊れてるからだ!」
「はい、もう限界です」
「馬鹿ッ、死にたいんか」
 班長は計器を睨み、ヒートパイプのダイヤルをチリチリと開きながら吐き捨てた。「今だ……電算室に繋いで頼んでみな」
 俺はもう一度頭を振り回すと、濡れたインカムのパッドをびしゃりと耳に当て、マイクに怒鳴った。
「電算室!」
 途端に雑音とも高笑いともつかぬ狂騒が耳の穴にぶち込まれ、目の前がすうっと暗くなる。俺は見えない目を剥き、叫びながら回線を切った。視覚は数秒で戻り、班長はふん、と鼻を鳴らした。
「みんな必死なんだよ。あの馬鹿機械も、だ!」
 班長は計器から目を離さずに続けた。
「いいか、この船は、まさにバラバラにひび割れた生卵の殻が、薄皮一枚で、つながってる所だ! ちっとでも力加減を間違えたら、ぐちゃあ、だ! おい、二段を閉じろ」
「は、はい」
「そこを七割方まで支えてるのが、あのコンピューターだ! 感謝しろ!」
 そうなのだ。今、みんなが必死なのだ。
「残りの、二割は俺達、人間が支える。みんなで生き延びるんだッ」
「は、はい……」
『♪ぱラっぱー♪』
 船体崩壊との戦いは、果てしないかのように続いていた。だが、事態が少しずつ悪化に向かっている事は明白なのだった。
 船体の不気味な軋みが、次第に高まっていく。
『電算室より機関長へ』
 電算室から連絡が入った。
「おうッ」機関長がインカムをぴったり耳に当てる。俺は先刻の殺人的な騒音を思い出し、素直に慄いた。
「おう、ブリッジから? ……了解、待機してくれ」
 インカムを離した機関長は銅鑼声で叫んだ。
「みんな、そのまま聞け。このままでは、いずれ船は保たん! よって我々はコンピューターの演算力を瞬間的に増強、ブレイクスルーを図る! との事だ」
「一発狙いの大賭けだ」班長が呟いた。
「このため三秒間、コンピューターに十六倍の電力を投入する」
 それ……爆発するんじゃね?
「いつ、やるんですか」
「今だッ」
 機関長は躊躇なく、レバーを全開した。
 目の前が白く輝き、ずぼおんと弾けた。コンピューターの狂った笑いが十六重唱となって頭の中を渦巻き、膨張する熱の中で構造材が、一斉に破滅の音をあげて歪んでいった。
「ぐわあああっ」


 辺りが急に静かになった。死んだのか、と思ったとき班長の声がした。
「抑えたぞ」
 ついに、コンピューターが、あの馬鹿が、三百八十二片の卵の殻を抑え込む最適解を導くのに成功したのだ。なお船体の軋みは続いていたが、その響きは落ち着いていった。何より、あの忌々しい狂気の歌が、まるで大人しい、優しい動作音へと変わっていた。
 まるで、俺達をねぎらうように。
「やった……」
 俺は脱力し、その場にへたり込んだ。
「お疲れ」と班長が言った。
 俺はしばらく動かなかった。
「うん? どうした。腰が抜けたか」
「班長……これって」
 俺は先刻から薄々感じていた疑念を口にせざるを得なかった。
「これって、わざとじゃないんですか」
「どういう事だ?」
「広い宇宙であんな丁度うまい具合に、流星が飛んで来ますか。防御シールド、全部すり抜けて命中しますか。あんな馬鹿でかいコンピューター、動かせる形で積んでますか」
 班長は黙って聞いていた。
「俺達、最初から、積み荷の実験台だったんじゃないんですか。わざと事故を起こして、コンピューターを学習させて、データを取ったんじゃ」
「……なかなか考えてるんだな、言われた事で精一杯かと思ったが」
 班長は笑った。
「でも、それを考えても、何の得もないぞ」
「俺達は運良く成功したけど、こんな事をさせられてる貨物船が他に何隻あるんです。そこまでしてデータを集めるんですか。一体どれだけ、時間をかけて、何回、船を爆発させて、何人が犠牲になって……」
「さあ、なにしろ並行宇宙は無限にあるからな」
「え?」
 班長は俺の肩をポン、と叩いて言った。
「ええっと、お前、なんて名前だっけ。どこの出身だ」
「ああ、俺は」
 答えようとしたが、自分の名前が出てこない。なんだか頭の中が白っぽく曇ったままだった。俺は班長を見上げた。
「俺は、あれっ……俺……」
「うん、オレ君、じゃあ俺達はどこに行くんだっけ。貨物船の目的地は?」
 分からない。何一つ覚えていない。
「……班長、俺、ヘンです。暑さで頭がイカれたんですか」
「いや心配ないよ、設定されてないだけだから」
「何の事です」
「俺達はなあ……」
 班長は、俺の隣の床にびしゃん、と腰を降ろす。
「……宇宙船の事故の事しか設定されてないんだ。すまんな新入り……」
 班長は胸ポケットからタバコを抜くと、難なく火を点け、ふかした。
「で、この先の事も、設定されてない」
 同時に灯りが、すべて消えた。
下請け宇宙 蛮人S

連絡船(『三千里』より)
今月のゲスト:河東碧梧桐

(全国俳句行脚の旅に出た俳人河東碧梧桐かわひがしへきごとうは、北関東から東北、北海道を巡り、いま新潟から佐渡へ向かおうとしている)
 十一月八日。曇。少雨。
 佐渡に渡る用意をしたのに、船が水戸口のわるいので出ぬという。何処の川口も船の出入りに思わしいのはないが、信濃川のは殊に甚しい。浅い処と深い処が少しも定まらぬ。殆ど日に日にかわる。一日の中にも、朝と昼と晩とで違う。風もなし、凪もよいと思うても、水戸口の良否は其の日其刻でなければ定め難いという。
 雨中始めて雁の声を一二声聞いた。
(越後新潟にて)

     雁鳴く海見ゆる窓を閉しゐて
     旅中に聞きししらせをかゞなうる


 十一月九日。時々雨。西風強し。
 けさは船があるというので、六時頃そこそこに駆けつけると、もう出帆したという。次の八時半出帆の船に七時頃から乗り込んでボンヤリしておる。同勢は男女十四五人ある。やがて八時過になった時、役者が十五人乗りますから、お客さんは奥の方へ移って呉れという。奥の方は二等室であるが、薄暗いため誰もはいらずにいたのだ。今に上の窓を開けて空気の流通をよくしますという。いずれもどやどや立って行く。予のそばに、私は酔いますからと、横になっていた白い頤髯あごひげの老人までが勢いよく立って行く。十人も入ればいっぱいになりそうなので、予ばかり跡に残る。上の窓が開けられたと見えて、今まで暗かった其へやかくと明るうなった。丸髷まるまげの崩れかかった鼻の低い女の顔が、何で光るのか、青白くテカテカしておるのがまともに見える。間もなくドヤドヤ桟橋を踏み鳴らす音がして、其処の荷物を出し入れする口から一人潜り二人潜ってはいって来る。いずれもカーキー色の上衣に、黒いズボンを穿いて、中学生のような帽をかぶった、一定の服装の男じゃ。これが役者かと見ておるうちに、楽器をとって下さい、という黄色い甲高い声が響く。袋にはいった喇叭のようなものを入れる。大太鼓を抱え込む。小さな鳥籠に目白めじろを五つ入れたのと、同じような籠に鳩二つ窮屈に入れたのを、天井に釣る。妙な物を入れると思うておるうちに、恐ろしい廁髪かわやがみの女がころがり込む。「叔父さん痛いわ、馬鹿にオケツを突くんだもの」と起上りながら大きな声がいう。「だって出余りかたがね、大体でないもの」と、叔父さんというのがニューと立って、頭を天井でコツンと打つ。「叔父さんは人のオケツの事ばかし言って、自分の顔の長いのにお気がつかれんのさ」と廁髪が紋付羽織の襟をかき合わせながらいう。成程叔父さんの顔は少し裏天うらてん地味じみ寸伸すんのびがしておる。顔が削立さくりつして、おとがい懸崖けんがいを垂れておる。其中そのうち先生先生と皆でいうのが洋服にインパネスを着て乗った。後からた一人廁髪が出る。三つ位の女の子を抱いた書生体の男が現れる。行李や風呂敷包やズックの鞄も十ほどほうり込まれる。詰め込めば五十人位もはいりそうな三等室もこれらの人数で一杯になる。口々に何やら罵り合って上を下への混雑になった。其の混雑の中から、済んだ声で鼻歌を歌いながら、一人の印半纏しるしばんてんがはいって来た。「徳さんは相変わらず呑気ねえ」と一人の廁髪が押さえつけるようにいう。印半纏は一切頓着しない。「お前と私は従弟同士かね」と歌いながら、胴巻のかくしから梨二ツ出して黙って廁髪に見せる。「オオいい梨、どこで買って」と言うておる間に、船の外で「梨買わんか、十銭に六つに負ける」と銅鑼どら声を揚げる。「あたし買ってよ」「おれも買わァ」と今度は入口に押しかける。徳さんはナイフを出してそろそろ梨をむきにかかる。見ると、半纏の背に「ヂャグラー」と白く染め出した丸半分が予の方に向いておる。首を延べると、丸半分の向う側に「操一そういち」とある。始めて手品師の一行であることがわかった。三条で博打をしてどうしたというような噂を聞いた、旅稼ぎであると知った。銘々に買った梨を銘々にむいて、馬が瓜でも喰わえた体裁で一時に食い始める。先生も食う。叔父さんも食う。厠髪もれ劣らじと頬張る。三つ位の女の子も丸々とむいた一つを掌に乗せておる。形勢猛然として又索然さくぜんたるものがある。食いながらもおしやりはやめぬ。卑猥な洒落もいえば、聞いてもおれん理窟もいう。これが二等室なの、誰でも乗りがちなんだねえ、だって先生のくらがないわ、と奥のへやを見て口々に不平をこぼす。とうとう先生と一人の廁髪とが奥の室に割り込むことになって、騒ぎは一段落を告げた時、ようよう船が出た。出るとすぐバラバラ音がして雨が降ってきたので、甲板からドヤドヤ人が下りて来る。入口は波がはいるというので締められる。今迄いままでが余り明るくなかったのが、一層どんよりと暗くなる。ムシムシする。息がつまるようでもある。「空気がちっとも流通せん」「窒息する」「まるで密航婦のシアトル行きだねえ」「それでも口のきけるだけがいいわ」「よく御存知でいらっしゃる」「だってあたしはまだ日本の英国なんかへ逃げませんからね」「ハハハハハハ」何やらわからんことをしやリ出す。其の中カーキー色の一人が、横の上の方にある丸いガラス窓を開けながら「イヤ堅い」という。「何がさ」「このねじがよ」「堅ねじかね、つばきをつけるといいよ」とまた騒ぎ出す。まるでサワグラー騒一そういちじゃ。税関前で船がとまる。「船がとまったよ」「難船かい」「人を轢いたって、誠に気の毒な」とまた下卑た洒落じゃ。
 税関に一時間もとまっておる間、予はとろとろ寝る。目が覚めると、もう船は海に出ていた。総トン数が七十噸許りの小さな汽船は、覚悟通り揺れておる。以前開けた丸窓から汐が打込んだので、廁髪の一人がそれを浴びたようであったが、アラと大きな声をすると一処いつしよに、抱いていた女の子がわっと泣き出す。もう誰一人構うものもない。長蛇を逸し過ぎた者共はそこらの荷物につかまってウンウンいうておる。醜汚しゆうおの気が極端まで走って、航海は五時間つづいた。予も覚悟の通り船暈せんうんを感じた。船暈を感じたのはそれでよいとしても、えびす港の桟橋を上る時、「アナタはジャグラーのかたで」妙な男が予に問いかけたのは心外千万じゃった。
 すぐ車を命じて点灯ごろ此地に著。俳人十数人と会して甦った。
(佐渡河原田にて)