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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第30回バトル 作品

参加作品一覧

(2018年 1月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
チェーホフ/前田晁
3692

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脱皮岬
サヌキマオ

 列車なのに入り口が前と後ろにしか無いのに驚いた。向合の客席の四つの内二つは埋まっていて、通路から身を滑り込ませるとすぐ後を一輪車に泥を積んだおばさんが通り過ぎていった。列車の中に泥を運搬してきていいものなのかな、と思う間もなくやおら風景が動き出す。黒蘭行き十五時八分発である。

 兄が三人いて、それぞれ上から弁護士、医師、刑事なのだけれども、クリスマスに何がほしいかというので「独りで旅に行きたい」と答えた。兄たちの驚くまいことか――ここはもう少し説明せねばならないが、兄とは三十七の長男を筆頭に三十四、三十三、そして高校二年生である十七歳の私がいる。一番上の兄は結婚して家を出て子供も二人いるし、大学病院で外科部長をしている(らしい)次男の言兄ちゃんはまったく家に帰ってこないしで、兄と呼べるのは一番歳の近い三男の画兄ちゃんくらいだ。父親が三人いるような家庭であった。あ、三人、というのは実の父も含む。今となっては実の父がおじいちゃんっぽいのだけれど。
 とにかく「一人旅がしたい」という私の申し出に兄三人は額を寄せて相談しあった(らしい)が、「まぁ、いい」となった。言質を取ったらすぐに行動に移さねばならない。どうせこの兄たちはしばらくすると内部分裂を起こし、約束も決定事項もぐずぐずになってしまうのだ。どうせなら、寒いときに寒いところに行くのが楽しかろう。翌二十五日に私がそう宣言すると、翌日にはチケットと「萩窪警察署」とロゴの入った厚い封筒が手渡された。チケットは言兄(権力というものがあるらしい)、画兄ちゃんが作ったらしい資料の表紙には「るーまがちゃんの二泊三日雪国紀行」とある。こういうセンスは一番上の兄のものであろうが(理解に苦しむ)、要するに「向かうべきルート」「泊まるべき部屋」「食べるべき駅弁」「撮るべき写真スポット」などがまとめてある。この手の資料は友達とはじめて原宿にショッピングに出かけたときにも作成され、A4の紙に百二十枚もあった。それに比べれば今回は三十枚である。きっと新幹線に乗っているうちに読み終えてしまうだろう。
 新幹線を降りると大きな粒の雪が次から次へと降ってくる。車窓で見た雪はただの風景だったが、ホームから見る雪はこれからの旅の厳しさを暗示しているように思えた。ここから在来線に乗り換える。列車は山を拔く高速鉄道とは別れて、海沿いの道を走り始める。昔の技術からしたら、こういう海沿いとかのほうが線路を作りやすかったんだろうか。指で窓の曇りを拭くと、進行方向の右手に広がる海は荒れ狂う雪風で、烟って鈍色に光っている。
 向かいの窓側の席には使い込んだジャンパーを着た漁師風のおじいさん。通路側、隣の席には地元の学生さんであろう女の子が座っていた。セーラー服だが中学生だか高校生だか判別のつかない感じ。私が普段着ている濃紺のセーラー服に比べると、女の子のは青を基調にしていて、東京では見かけたことがない。長い髪をポニーテールにして、目にもかかろうという前髪はヘアピンで留めてある。
 あんまりじっと見つめているのも失礼なのであたりを見ると、冬休み中も部活動なのか、あと三人は学生服の姿が見える。こういうところの学校にも演劇部ってあるのかな、と思っていると緩やかに電車が止まった。駅だった。いつしか向こうのホームの駅名表示が霞んで見えるほどになっていて、更に向こうが白一色なのは、ずっとずっと海だからだろう。海を見に来るだけであればもっと別の季節がよかったかもしれない。
 電車は動き出すと軽快にトンネルを三つほど越えたが、息切れしたように停まってしまった。見るからに標高が高い。峠道の途中である。やや収まりを見せた吹雪の向こうにぼんやりと影が見える。島だろうか。
 車掌の説明は激しく訛っていて「ちょっとした雪崩があって線路が塞がれた」というような内容だったと思う。やおら車内がざわついて、乗っていた人々が備え付けのスコップを手に列車を降りていこうとする。向かいのおじいさんも「手伝うべえよ」と立ち上がりかけたが、車掌に「鉄さは中風だんし、座っとけよぅ」と押しとどめられている。乗客も手伝って雪をかくのがここの日常なんだなぁ、と感慨にふけっていると「おミさどっからァ?」と鉄さと呼ばれたおじいさんが話しかけてきた。雪かきの手伝いを断られたのを恥じたのだろうか決まりの悪そうな顔をしている。とうきょうです、と答える。続けて「冬を満喫しに」と言うと、前歯が一本しかない口で莫迦笑いされてしまう。今まさに満喫しているではないか。冬を。雪を。凍えるような絶望感を。私も手伝いに行ったほうがいいですかね、という問には「地元の者でないと足を踏み外して崖から落ちる」というようなことを言われて止められる。そういう場所なのであった。しかたなく待つことにする。車内は上着なしでも暑いくらい。
「アレがだっぴざきだぁ」指さされたのは先程の、吹雪の向こうの影だ。「あんべし、<ご覧あれが脱皮岬>ちゅう」聞いたことがある。「<毒ガスの花がぁ、いっぺんに咲き誇るゥ>って。このホが知らねが。ははは」きっと大昔にヒットした曲なのだろうがよくわからない。ははぁそんなもんですか、と返事をするとおじいさんは機嫌を良くしたのか、訛りのきつい言葉であれやこれや解説してくれるが「土手っ腹をどーん」だけが聞き取れた。こういうときはオウム返しだ! とお世話になっている演劇部の顧問も言ってたっけ。
「土手っ腹を?」
「んだ、毒ガスさ守らりでん、のっそが孵んの」
「のっそ」
「映画さ観だごどねがぬぁ、んもすらの元んだだっぢゅんで」
「んもすら?」
「あにゃあ、鉄さァ若ぇ娘ナンパけ?」
 濡れて光るショベルを担いだおばさんが通りかかる。さっき泥を運んでいたおばさんだ。
「違べじょ、とうきょうからてげぎゃ、観光案ねさしでるも。ほりょ、こんおばんさー、脱皮崎さ往ぐも」
「んだ。毒ガスの穴さんめンですよぉ」
「姐サ、雪崩ァ?」
「もう掻びだし、出発んど」
 雪を掻きにいった乗客が帰ってくる。車掌の「居らね方ァ手挙げでェ」という(おそらく)お決まりのギャグなどがあって、また電車が動き始める――

――という夢を見たのかって?
 いや、私としても衝撃的だったんで、ちゃんと覚えている部分だよ。おばさんは泥を運んで毒ガスの穴を埋めに行くバイトだよ。あの辺、岩場だから。
 だってほら、もう死にそうになりながらもお土産は買ったんだよ。ぶちぬきのっそせんべい。<厚い岩盤である脱皮崎をぶちぬいて羽化するのっそ(標準語では***)は不屈の闘志で戦う受験生向けにピッタリのお土産です>って。今はないけど、確かに買ったんだよ。レシートも財布にあるよ……いや、品目は書いてないけど、八五〇円だったのは間違いないって。
 あの後すっげえ体調悪くなって、仕方ないから黒蘭の駅で兄ちゃんに電話したら二十分でヘリコプター、来たの。だって二十分よ? 絶対電車の後をヘリで追っかけてたよね。ホント仕事したらいいのに。大学病院の外科部長が。そうしたら「ヘリコプターに患者も乗せてきた」って。
 で、東京まで乗って帰ってきた。たしかに私の寝ているベッドの隣で手術してたよ、ヘリの中で。
 あ、思い出した。アレ、のっそだよ。半分寝てたけど、ヘリの窓から見えたあのでかい蛾みたいなやつが。多分。
脱皮岬 サヌキマオ

初春だよ!冥界まつり
アレシア・モード

 地の底をどれほど歩んだか。
 異国の果ての洞窟深く、辿り着いた広間に私は立つ。
 そこは全てが静止していた。風も無く、暖かくも冷たくもない、永遠の薄明のうちに、ただ湿った陰鬱な匂いだけが漂う。
 目の前には石の台座がある。上には大きな椅子が二つ据えられていた。さらに頭を上げると、そこには髪振り乱した黒衣の男が座り、幽鬼の顔で先刻より見降ろしているのだった。
「我は地獄ハーデース……冥府の王にして冥府そのものなり。隣は冥妃ペルセポネー」
 横には、輝く笑みを浮べた女神が座る。二柱の冥神はしげしげと私を見た。
「あら、人間ですわ……」
「珍しいな。人間はみな此の地獄ハーデースもオリュンポスも忘れ去り、其々の信ずる新たな冥府へ旅立つものとなって久しきを、貴様は何と気紛れな愚か者だ……」
 冥王は呟きながら古びた石版を取り出し、突っついたりなぞったりしていたが、腑に落ちぬ様にこちらを見た。
「貴様の事はデータベースに無い。死者ではないのか。貴様は誰だ」
「私、アレシア。日本から来たよ!」
「ニュムポン? 知らぬな。まあ、其の椅子にかけるが良い……」
 冥王が勧めてくれた椅子は重厚なデザイン――ではあったが、硬そうだし何やら怪しい装飾が施してあった。
「いや、冥王様の御前で畏れ多い」
「いやいや、是非かけて欲しい」
 よく見たらドクロのマークとか描かれてる。
「いやいやいや、どうかお構いなく」
「あらあら」冥妃が笑った。
「ふん……まあ疲れたら何時でも坐って良いぞ」
 冥王は何一つ楽しくないといった目つきで私を見た。その顔は蒼白で、眉間の皺は刻み込まれたように深かった。暗すぎる、と私は思った。隣に座る妃の春爛漫ぶりとの対比が強烈すぎて夫婦漫才も困難だろう。
「で、貴様は何用で此の冥府を訪れたのかな」
「アレシアさんゎ。。冥王様のワンちゃんと遊びに来たの。戌年だしぃ。。うふ♥ 」
「犬だと?」
 冥王は私の秋波には無反応なまま、唇を歪めて言った。
「そうか……我が可愛い犬どもが目当てか。いやいや悪かった。最近人が来ぬものでな、犬を入口の方へ遣ってなかったものでな……いま呼んでやるわい」
 そう呟くや立ち上がり、石臼で挽くような声を強めた。
「地獄の番犬、仄暗い穴底の亡霊、わざわいの獣テュポーンの子、青銅ブロンヅ声音こわいろ鳴らす三ツ首の凶犬よ……現れるのだ、ブラック・ケルベロス」
 変なラッパのユニゾンとともに岩の扉がぐゎらがらんと開き、明滅する赤い光の中から異形の影が牙を剥き出し、がしゃんがしゃんと歩み出た。
「ワンワンワン!(お呼びですか、ミスター地獄ハーデース)」
「其処の女が、お前と遊びたいと云うて居るッ……」
「ワンワンワン!(承知しました。八つ裂きにして骨まで喰らい尽しましょう)ワンワンワン!(はっはっは!)」
「やれッ!」
「あらあら」
 その時、どこからか響く美しい竪琴の音色。
「む、この竪琴は……」冥王の片眉が上がる。「……何処だ、何処で弾いている」
 犬たちも毒気を抜かれて辺りを見回す。
「ワンワンワン!(どこだ! どこだ!)」
「ここだ!」
 と、私は竪琴を弾く手を止めるや、レジ袋を鳴らしながらマツキヨで全種を仕入れておいたドギーマンの小袋を取り出した。
「いらっしゃい~! さあ、どのさやにしやしょう」
「何をするッ」冥王が叫んだ。
「ワンワンワン♥(おなかへったー)」
「はい、とりあえずさや【プレーン】ね。やわらか鶏ササミとムネ肉で作られているのよ」
「愚かな、ケルベロスは鶏肉など喰わぬ……」
 と冥王が言うそばから、ケルベロスの三つの頭の真ん中の、柴犬に似たやつがいきなりパクついた。隣のペキニーズっぽい白い頭が吠えた。
「ワンワン♥(冥界は運動不足になりがちで)」
「キラーン☆それなら美味しくて低脂肪の野菜入りさやね!」
 トイプードルっぽい頭が訴えるような目で吠えた。
「ワンワン♥(私は身体に優しいのがいいわー)」
「はいよっ、無添加良品♪」
「何をしておる、早くこの軽薄なステマ女を喰らい尽せ」
「さあ、ターキーとさや巻きも喰らい尽すのよ」
「ワンワン♥(美味いねー)」
「あなたはどのさやを選ぶ??」
「誰が喰うか、たわけッ」
 冥王は地団駄を踏んだ。このひと、けっこうウケるわ。
「冥王様、正月から怒りすぎ。大丈夫、冥王様にもお土産は持ってきてるし」
「この地獄王に捧げ物とは酔狂な。牛か。山羊か」
「じゃーん。いま日本の地獄社会で大人気、ストロングゼロだよ。六本入りを四パックずつアソートで八カートン! 輸入関税高かったよ!」
「はあっ?」
「じゃ、酒ここに置きやすんで。あらっす」とヘーラクレースは帰っていった。
「あの兄ちゃんもストロングだねぇ」
「貴様、これは酒か。余に酒を飲めと云うか」
「あらあらあら」とペルセポネーが降りてきた。「コンビニ専用の梅干味、限定のまるごと青りんごもありますわ」
「あたしゃ、甘いのが苦手でして」冥界連絡船のカロン船長が勇んで現れた。こいつ、呼んでも全然来ないから到着がすげー遅れたんだけど。「このストロングゼロドライとかよく飲んでます」
「それ、甘み無いから食事には良いね」何か庭師みたいな奴が割り込んできた。「ただ本当アルコールだけって感じで、単体で飲むなら葡萄が好きですね」
「そう、それそれ、アスカラポスさん。果実感があって美味しいですよね。おや、ビターレモンもあったんだ」
「ビターって食事向けのポジで何年か前に流行って最近は各社とも印象薄いけど、一周回ってまた飲んでみようかな。シュポン」
「お、お前ら……みんな仕事中ではないのか」冥王が蒼い顔を強張らせて呻いた。
「まあまあ、おじ様。お正月くらい良いじゃありませんか。シュポン」
「ヘカテー、お前まで」
「そうですよ、あなた。あらあら、氷結ストロングも入ってるじゃありませんか。このレモンはシチリア産ですよ。シュポン、パキパキ。さあ、たまには地中海の太陽を味わいなさいなぁ……」
 冥王も二柱の勧めは拒みきれず、よせばいいのに一気に飲んだ。やべっ、と思うも止める間もない。その蒼白の頬にたちまち赤紫色の亀裂が走り、土気色の額には五色の文様が脈打った。剥かれた白眼が不規則に輝き、その縁から様々な色の光条が洩れている。口が音を立てて開き、何か石礫とともに大音声だいおんじようが弾け出た。
「ウゴゴォォ!」
「まあ、」と冥妃が笑った。「こんな上機嫌な冥王は久しぶりですわ。地底から初めて私の前に現れた時の顔とそっくりよ」
 冥王は呻きながら踊り歌って私達をやんやと沸かせた。で、くるくる回って、先刻私に勧めた不気味な椅子に座り込んで止まってしまった。
「……あらあら、この椅子に座ると立ち上がるまで記憶を失うのよね。椅子を立とうとした事さえ」
 よっしゃ、もう大丈夫!
「ペルセポ姐さん、ちょっと外を散歩しない? ワンちゃん! ワンちゃん連れて♥」
「行く行く。酒持って行こう。来い、ブラック・ケルベロス」
「ワンワン……」


【早すぎた春? 新年のギリシャで女神が出現か】
 英国「サン」紙によればギリシャのアテネ西方郊外で泥酔して大暴れする半裸の女性二人が保護された。一人は自らをバッカスの信女、もう一人は女神ペルセポネーと言い張り、花咲く枝を振り回しながら「女祭おんなまつりだ」などと叫んでいた。二人は黒い大きな犬も連れ回しており、犬の頭は三つあったとの証言もある。地元警察が詳しい取調べのため彼女らを留置しようとしたが、突然の地割れとともに一人を残して姿を消したという。
初春だよ!冥界まつり アレシア・モード

牡蠣
今月のゲスト:チェーホフ/前田晁

 強いて思い出そうとするまでもなく、雨の降った薄明るい秋の晩に、親爺と一緒に賑やかなモスコウの街に立っていて、変な病気に罹ったような気のした時のことが胸に浮かんで来る。どこといって苦しい所はなかったが、足は進まず、頭はたわいもなく一方に垂れて、言葉は喉に引っついた。私は直ぐにも舗石しきいしの上に倒れて気絶しそうな気がした。
 もし其の時病院に入れられたなら、医者はきっと私のとこの上に『飢餓』という――医学の本には不断使われていない病名を書いたであろう。
 舗石の上の私の傍には、親爺が、摩り切れた夏外套に、白い綿のはしのはみ出している弁慶縞のシャッポをかぶって立っていた。足には大きな不細工ふざいく表靴うわぐつを穿いていた。見え坊の人だったから、人が其の大きな表靴の下に、長靴も靴下もないのを見はしまいかと恐れて、古いゲートルで脚を包んでいた。
 この哀れな不器用な人は、五ヶ月ぜんに書記の口を探しに首府に出て来たので、私は一度は意気であった其の夏外套がぼろぼろになったり汚くなったりすればするほど、いよいよ其の人を大事にした。五ヶ月のあいだ、親爺は口を探して市中を歩きまわったが、今日という今日、始めて勇気を絞り出して、街で物乞をしようとしたのだった。
 私達の前には大きな三階建の家が立っていて、青い看板には『おん料理』としてあった。私の頭はたわいもなく後ろへ垂れて、また一方へ垂れた。思わず私は煌々としている料理屋の窓を見上げた。窓の向うには人影がちらついた。右の方にはオーケストリオン筒琴に似た楽器の名と、二枚の油絵風の石版画と、釣ランプとがあった。で其のぼっとしている所を見きわめようとしているうちに、私の目は白いつぎの上に落ちた。継は動かずにいて、其の四角い輪郭は暗褐色の地色の上に際立って浮き出していた。私は目をじっと据えた時に、其の継は壁の上のびらであって、それには確かに何とか印刷されてあったことは分ったが、其の何とかが何であったかは分らなかった。
 私は目を其のびらの上に少なくとも半時間は据えていたに違いない。其の白いのが合図をして、殆ど私の脳をねむらしたように見えた。私はそれを読もうとつとめたが、どうしても駄目だった。
 所がとうとう其の変な病気が昂じて来た。
 往来のどよめきは雷鳴のように起った。街の匂いのうちに私は無数の匂いをかぎ分けた。料理屋の明りと街のラムプとは電光のごとくきらめくように見えた。そして私はそれまで分らなかったことが分り出した。
『カキ』と私はびらを読んだ。
 変な言葉だ。私はすでに八年と三ヶ月此の世の中に生きて来たが、一度もこんな言葉を聞かなかった。何のことだろう? 主人の名前だろうか? いや、主人の名のある看板なら戸の外に懸っていべきで、家の中の壁の上にあるはずがない。
「おとうさん、カキって何?」私は顔を親爺の方へ向けようとしながら、しわがれ声で訊いた。
 親爺は私の言ったのを聞かなかった。彼は群集の流れの方を眺めて、あらゆる通行人を目で追っていた。その顔を見ると、親爺は通行人に言葉をかけようと切に望んでいたが、其の死ぬほどつらい重い言葉はふるえる唇に引っかかって、どうしても離れなかったことが分った。一人の通行人を引き止めて、其の袖に触れまでしたが、其の人が振り向くと、親爺は「御免下さい、」と口の中で言って、まごまごしながら後じさりした。
「おとうさん、『カキ』って何の事なの?」と私はまた訊いた。
「一種の動物だよ……海の中に住んでいる……」
 すると、一瞬きをするうちに、私はこの不思議な動物を目に浮べた。何かこう魚と蟹の間のようなもの、に違いない、と私はめた。それが海から来ると、きまって旨い御馳走になるに違いない。香ばしい胡椒の実とローレルの葉とを入れた熱いブイヤーベースとか、軟骨を入れたり、蟹ソースをかけたりした酸っぱいソリァンカとか、山葵をつけた冷たいやつとか……私はその魚が市場から持って来られると、綺麗にされて、手早く、手早く、というのは誰しも腹がへっているから、……恐ろしく腹がへっているから、手早く鍋の中へ押し込まれるさまを、ありありと目の前に描いた。料理屋の台所から煮肴と蟹スープとの匂いが来た。
 この匂いが私の上顎と鼻の孔とを擽り初めた。私はそれが身体じゅうに染み込むような気がした。料理屋も、親爺も、白いびらも、私の袖もあらゆるものが強くそれを吐き出したので、私はもぐもぐ噛み初めた。私は自分の口が、其の海の中に住んでいるという変な動物で本当に一ぱいになっていでもしたように、噛んで呑み込んだ……
 其の快楽が私の力には強過ぎた。私は倒れまいとして親爺のカフスを掴んで、其の濡れた夏外套に寄りかかった。親爺は身震いした。寒かったのだ……
「おとうさん、カキは精進日でも食べるの?」と私は訊いた。
「生きたまま食べるんだよ……」と親爺は答えた。「殻の中にいるものだ……亀のようにな、ただ殻は二重になっている」
 誘惑するような匂いが不意に鼻の孔をくすぐるのを止めた。と、幻想は消えた。今こそ分った!
「こわいなぁ!」と私は叫んだ。「いやだなぁ!」
 そんなものがカキだったのか! けれども、いやなものではあったが、私の想像力は彼等を描くことが出来た。私はかわずのような動物を想像した。蛙が殻の中に坐って、大きな、ぎらぎらする目を見張って、其の憎々しい顎を動かした。一体此の世の中でやっと八年と三ヶ月生きて来たばかりの子供に取って、これより恐ろしい事があり得ようか? フランス人は蛙を食べるということだ。が子供達は――決してだ! と私はこの魚が、其の殻のままで、爪や、ぎらぎらする目や、ぴかぴかする尻尾を持ったままで、市場から運ばれて来るのを見た。……子供達はみんな隠れてしまう。と料理人は、むかつきそうに瞬きしながら、その動物の爪をつかんで、皿の上に載せて、食堂へ持って行く。大人の人達はそれを取って食べる……生きたままで、目をも、歯をも、爪をも食べる。するとそれがしゅうと言ってみんなの唇を噛もうとする。
 私は胸が悪くなって顔をしかめた。だのになぜ私の歯は噛み出したのか? 胸の悪い、いやな、恐ろしい動物、でもなお私はそれを食べた、その味と匂いとに気のつくのを恐れながら、がつがつと貪り食べた。私は想像で食べた。と神経は緊張するように見え、心臓は強く打った。……一疋済んでしまうと、すでに二疋目、三疋目のぎらぎらする目が見えた……私はまたそれをも食べた。ついにはナプキンをも、皿をも、親爺の表靴をも、白いびらをも食べた……目の前にあるあらゆるものを食べた。というのは、ただ食べさえすれば病気をなおせるような気がしたからである。カキは其のぎらぎらする目で恐ろしく睨みつけて、私の気持を悪くした。私は彼等のことを考えると身震いしたが、でも食べたかった。食べたい!
「カキを頂戴よ! カキを頂戴よ!」という叫び声が私の唇から迸った。そして、私は両手を差し延べた。
「旦那、一銭やって下さい!」私は不意に親爺のせいのない、息の詰った声を聞いた。「お恥かしい次第ですが、とてももうたまりません!」
「カキを頂戴よ!」私は親爺の外套の裾をつかみながら叫んだ。
「なんだ牡蠣を食べると! こんな小さい小僧が!」私はそばでこういう声を聞いた。
 私の前にはシルクハットを冠った二人の人が立って、笑いながら私の方を見た。
「この小さい小僧が牡蠣を食べるというんか? え! これやぁ面白い! どうして食べるかしら?」
 私は強い手がぎらぎらしている料理屋の中へ私を曳きずり込んだのを覚えている。すぐに沢山の人が寄って来て、珍しそうに且つ面白そうに私を見た。私はテーブルに坐って、何かこう滑らかな、水気のある、黴びてるような物を食べた。私は噛みもしなければ、見ようともせず、何を食べているかを知ろうともせずに、がつがつと貪り食べた。もし目を開こうものなら、直ぐにぎらぎらする目や、爪や、鋭い歯などを見なければなるまいと思われた。
 私は何か固いものを噛み初めた。がりがりと噛み砕く音がした。
「やあ、此奴こいつは殻を食べてやがる!」と皆が笑った。「馬鹿だなあ、牡蠣の殻を食べる奴があるものか?」
 その後で、私はただ恐ろしく渇いたことを覚えている。寝床に這入ってからも、腹が一ぱいなのと、熱い口の中で変な味がするのとで目が覚めていた。親爺は部屋の中を行ったり来たりして身振りをしていた。
「かぜを引いたらしい!」と彼は言った。「どうも頭の中が変だ。……何か中にありでもするようだ。……が多分これやぁただ……今日一日何も食べなかったせいだろう。おれは全く変だった……馬鹿だった。おれはあの紳士達が牡蠣の代を十ルーブル払っているのを見た。なぜおれも行って、かしで……何かを呉れるようにと頼まなかったのだ? 屹度あの人達はそうしてくれたに違いない」
 明け方になって私は眠った。そして蛙が殻の中に坐って、目をぱちくりしている夢を見た。昼頃のどが渇いて目が覚めた。親爺はと見ると、やはり部屋の中を行ったり来たりして身振りをしていた。