待ち合わせに三十分遅れてクロシェはやってきた。見るからに目が泳いでいる。そもそもこの悪友「おごる」というのに三十分遅れてくる時点で尋常ではない。何もかも隠しきれていない。
「いやぁ、素敵な門構えのお宅ですねぇ、普請は総体檜造り、天井は薩摩の鶉木目」
「ビルの四階の居酒屋だよ!」
クロシェはヒョロヒョロとした足取りでこちらに向かってくるとこちらがすすめるまで棒立ちになっている。
「ところでミミミさん、ソータイヒノキヅクリって何だろうね?」
「わかんないで云ってるんだ?」
「ウズラモクメとかいうところはかわいいと思うんだけどね」
「いいから座んなよ」
平日の七時半なので店も空いている。まずは駆けつけで瓶からビールを飲ませ、あらためてもうふた瓶注文する。
「なんかこう、家を褒めているというのはわかる」
「ああ、また落語ですか」
最近のクロシェは落語にハマっているのだそうだ。「云っていることはよくわからないがリズムがいい」ということで志ん朝を中心にスマホで聴いているという。「小遣い稼ぎのために新築の家を褒める」という話だそうだが、今はそんなことはどうでもいい。追加で頼んだつまみが運ばれてきて、さらに追加でビールをふた瓶ほど頼んだところであたしは切り出した。
「男、出来たでしょ」
「うんうー」
「できたんでしょ?」
そんな予感がしていたのだ。男の出来た予感が確信に変わるくらい、行動様式が大きく変化する。ラインの返信が秒単位から一時間単位になるとか。
「みんみー」
「ん?」
あらためてクロシェの顔を見ると、両手で持ったビールのコップに顔を埋めている。
「別れなさい」
「やだ」
「別れて」
「ヤだっていってるっしょ」
無茶な申し出だというのはわかっている。だが、本当なのだ――本当なのだ、という表情を読み取ったのか、
「だって、そんなのオカルトじゃん! いいがかりじゃん! 思い込みだよ!」
「そんなことないんだって! あんたが男を作るたびに――」
あたしが云い終える前に、何らかの手違いで調理場のフライヤーから飛び立ったクリームコロッケが、あたしの顔面を直撃する。
八ヶ月ぶりに出来た彼氏はかかりつけの病院の医者だという。基本的にどうでもいいけど、どうやって医者と患者の関係から発展していくのかだけはどうでもよくない。
「いや、だから池袋のフレッシュネスでばったり」
やっぱりどうでもよかった! とにかく別れて!
そうでもしないとこちらの身がもたないのだ。クロシェに男ができるとあたしに厄災が降りかかる。今日も昼間の職場では二回ほど車に轢かれかけ、通りがかりの小学生が蹴り上げたスニーカーが後頭部を直撃した。
「でもそれって」クロシェが珍しい顔をして答えた。必死で頭を使っているのだろう。「結局五体無事ってことだからさ、むしろ幸運が味方してくれるんだよ」
「あんたに彼氏ができることであたしが幸運を得てるってわけ?」
「そうは云ってないよ。私の彼氏のせいでミミミに災厄が訪れるってのが無茶苦茶ってだけ」
「うー」
細かい原理についてなんてわかろうはずがない。知っているのは神様か、この世界のプログラマーくらいなものだ。
「でもアレだよ、前のムカイナリ君の時は左腕折ってるし」
「ムカイナリくんは奥さんがいたんだよ。いい男だったけど仕方がなかったねぇ」
「もっと前のランサムとかいう結婚式のバイトの牧師の時は、ちょうどいたコンビニに車が突っ込んできて」
「ランサムも気前が良かったけどねぇ。不法入国者だった。国籍目当てだった」
「そういうことじゃなくて!」
「そういうことじゃなくて? たまたまだよ、たまたま!」
酒が回ってきたのかクロシェがいつもの勢いを取り戻している。
「だったら私は私で人を好きになるし、ミミミはミミミで事故から好きになられてるんだよ。ここに何の関係があるのかちゃんと説明してもらえるかな」
「それは――」
あたしは無理矢理にでも買い言葉をしてやろうと思ったが、どうしても何も出ないので、半分ほど残っていたジョッキのビールを飲み干そうとした――すると、口をつけたところからジョッキがきれいに真っ二つに割れて、ビールが身体の前面にぶっかかる。
「それは――説明はできないけど、実際問題、あるんだよ。ね、ちょっと河岸を変えない?」
流石に着替えないと、この冬の最中にやっていられない。
新しい彼氏のヨシドメ先生はクロシェより二十五歳も年上である。
「それってお父さんと同じくらい、ってこと?」
「お父さんのほうが三つ上。お母さんと同い年」
クロシェのことを別に尻軽女だと思ったことはないけど、フィーリングが合うと思ってから自分の軌道に巻き込んでしまうまでが非常に早い。
「でもなんか複雑なんだよね」
「なにが?」
「パパと同じくらいの齢でもさ、人によってはあっちの方がものすごいのね。ね?」
「はぁ」
部屋に戻った。すっかり冷えてしまったので着替えてコーヒーを淹れたのだが、いつしか日本酒をレンジで温めての飲みなおしとなる。
「もうやったの?」
「もう、って、付き合って一ヶ月だよ? やるに決まってるじゃない。まず試してみてからわかるコトのほうが多いって」
クロシェは本件についてもう少し話したそうなそぶりを見せていたが、正直面白くもなんともないので話題を切り替える。
「で、何? 結婚するの?」
「よさそうならね」
「よさそうなの?」
「今のところはね。なんかすごい、面白がってくれる」
「何を?」
「何もかも」
あ、じゃあ、いいのかも。
今年何度目かの記録的な寒波で、さっきまで持てないくらいだったマグカップがもう冷たくなっている。クロシェも、ということは私ももうそんな時期なのか。
結婚なぁ、と時計を見上げると、轟音とともに凍ったマグロが天井を突き破って落ちてきた。
引っ越すことにした。一週間ほどクロシェの家に厄介になっている間にも、あたしの身には大小様々の災厄が降り掛かってきた。さすがに「航空便から落下した冷凍マグロが家を破壊する」を超えるものはなかったが、引っ越すと同時に災厄もピタリと収まったことは喜ぶべきことである。
「ねぇ、ホント信じられる?」唯一この状況に納得がいっていないのがクロシェだ。「ママがね!? ヨシドメ先生とシちゃった、って」
「エロゲか! もしくは莫迦なのか!」
「エロゲじゃないよ! 現実だよ! 五万円貰ったから黙ってるけど」
「五万円という現実も生々しいな! いいのかよそれで!」
「よくないよ! それで問いただしたら『なんかフィーリングが合ったから』って……」
クロシェは引越祝に持ってきた一升瓶を勝手に開けて自分で注ぎ、勢い良くフローリングの床に叩きつける。やめて。まだ下に誰が住んでいるかもわからないのに。
「もう私も家を出る。家を出てミミミと一緒に暮らす!」
「あ、いいけど……家賃と光熱費は折半だからね? もちろん携帯電話代も自分で出すんだよ?」
うぐ、とクロシェが絶句する。赤ら顔に浮き出た青筋が時折少々グロく見えるが、まぁ基本は美人だ。美人で巨乳だ。
「それであんたのママはなんて?」
「え、今日はパパとデートだよ? なんとか温泉でしっぽりとかわけのわかんないこと言ってた」
「家族揃って莫迦だった!」
「先生は『誤解だ』って言ってたけどどーかなぁ。今度診察のときに聞いてみとく」
もうええわ! と突っ込んだところでこの物語は終わる。