楽屋
今月のゲスト:田村俊子
峰子は、もう半時間ほど泣きつづけていた。この部屋に出たり入ったりしていた人たちは、峰子の泣いてる姿を見ても、また初まったという様な顔付でちらりと見たばかりで、そのわけを聞いてやろうともしなかった。合部屋のやな枝が喜劇に出る貴婦人の扮装で、出口で靴を穿いていたが、やがて床の上をそろそろと踏みかためて行くような軽い靴の音を残して、行ってしまってから、そこいらにまごまごしていた衣装屋も、火鉢に乗っかかって巻煙草に火を吸いつけると、直ぐに部屋を出て行った。
峰子は、ざわざわしていた自分の周囲が、急にひっそりした事に心づくと同時に、ふいと、今までの悲しみが音を断ち切ったように途絶えた。あとからあとからと溢れてくるような悲しみが押さえきれないで、さも悲しさを心の奥へ突き戻すような心持で、半巾をおさえた指に力をぐっと入れて目がしらを潰すようにしていた両手を、この時ようやく峰子は放した。その機に、さも堰かれていたような涙が、生ぬるくばたばたと流れたが、それで峰子の悲しい思いはすっかりとお終いになった。
「ああ。ああ」
峰子はこう息をついて、電燈の蓋の影をふっさりと拵えている白い壁をぼんやりと見詰めた。壁の色の通りに、その心が白っぽく、なんにも無くなっていった。長い睫毛が涙で捻れて、目の端を濃く隈取らした黛の色がほんのりと溶けて、いつよりも峰子の眼は大きくなっていた。
峰子は鏡台の上に散らばっている白粉や刷毛を、こまごまと細い指で片付けて、どれも小さい抽斗へちゃんと蔵ってしまうと、もう一度さっきの濡れた半巾で、自分の顔に残っている涙を拭った。自分の汚れた顔を鏡に映すのがいやで、峰子は、成るたけ鏡のおもてへ自分の顔の行かないように下を向きながら、手際よく其所等を取り纏めてから、手拭を持って立った。峰子は浴衣の上に赤い縞のはいった荒い銘仙の袷をかさねて、赤いしごきを巻いていた。
――あなた帰って下さいよ。こうしていると悪いから。
――だって、ほんの冗談に来たんだよ。エリヤンは何でもあんまり真面目に取り過ぎるから困る。それじゃ帰る。おやすみなさい。
――おやすみなさいは、さっき云ったじゃありませんか。
――ほんとに僕は、あんな処に居るのは、一日でも厭になった。コーテリオン夫人と、男の給仕と、たった二人の相手だもの。ああフリードランド街はどんなに面白かったろう。
(二人はその時握手した)
――おやすみなさい。
――それっきり? たいへん、今日は、よそよそしいねえ。
(男が女を抱こうとした)
――わたしを苛めて、いやな思いをさせたいのですか。いつからこんな事がお好きになったの?
――怒ったの?
――怒ってよ。
――堪忍しておくれ。ね、ね、ちょいと庭へ一緒にこないの? 少し植込みの中を散歩しよう。
――いやですよ。
――ほんの、ちょいと。まだ怒ってるの? 堪忍してくれないの?
――堪忍しますよ。
――このまま別れちゃ、僕は今夜眠れない。僕はなんという馬鹿だろう。
峰子は、さっき演った自分の持ち役の、四幕目のあるシーンを思いうかべながら、
――わたしを苛めて、いやな思いをさせたいのですか。いつからこんな事がお好きになったの?
と云う言葉を、口の内で云いながら梯子段を下りて行った。
そうして、峰子は、その自分の相手になる男に扮する俳優の顔を、このとき暗い梯子段ではっきりと思い出した。背が高くって、唇が厚くって、まじめな眼色を持っているその男の顔が、峰子の睫毛の先から朦朧とにじみだしたように、高い天井から下がっている階段の中途の電燈のかげに、ふと見えた。そうして、舞台の上で男が自分を抱こうとする時の息せわしい呼吸が、峰子の頬の皮膚に伝わったような気がして、峰子はびっくりしながら片足を一段から下そうとしたままで、その足をちょいと留めて自分の顔を振った。
まぼろしは直ぐに消えてしまったけれども、峰子の胸の血は微かに揺れていた。今まで毎日逢ってはいるけれども、別にはなれていて思い出したこともないあの男の顔を、今偶然に思い出したことが、峰子には不思議な判断になって自分の頭に残った。その男は今の幕の喜劇で、主要な人物になって動いている。――けれども、峰子は、男に就いて、もうその先までを連想もしなかった。思いがけなく相手になって、芝居をしているその俳優の顔を、湯殿へ行く途中で思い浮かんだ瞬間が、峰子にはなんという事もなく嬉しかった。あの男に対していつの間にか、私の知らない間にある情誼を通わしていたのかも知れない。そのなさけが、私の心の隅に私にも知らさずにかくれていて、いま人知れず男のまぼろしになって私の眼の前に現われたのかもしれないと思った。
そう思うと、峰子は、あの男が好きになってもいいような気がした。ほんとうに今まではあの男に就いてなんの注意もないと思っていたけれども、いつの間にか好きになっていたのかもしれない。
「小山さん」
峰子は、男の名前を考えながら、欄干にしなだれかかるようにして下りていった。
「また、泣いていたんだってねえ」
すぐ梯子の横から歩き寄りながら、洋服を著た男が峰子に声をかけた。
「どうかしたの?」
「いいえ。いつもの癖よ」
峰子は柔らかに云って、その男の前に手を出した。その男は若い劇作家で、今度の興行の舞台監督だった。すんなりと高い背を前屈みにして、すこし極り悪るそうに峰子の手を握ったが、直ぐに放した。
「しばゐが済んでね、衣装をぬいでね、鏡の前に坐るとじっと悲しくなるの。そうして、泣きたくってたまらなくなるの。泣けば、少しは疲れたのがよくなるの」
「一種の発作だね。神経過労なんでしょう」
「ええ、そうよ」
「病気ってほどでもないんでしょう」
「ええ、そうよ。誰れから聞いて?」
「僕、いまやな枝から聞いたの」
男は強い香水の匂いのする半巾をだして、それを両手で持ちながら自分の口のまわりを拭いた。
峰子はその匂いに打たれたような恍惚した気分になりながら、右へ折れて湯殿の方へ曲ってゆこうとした。
「じゃ、いっしょに帰るからね、今夜も。いや?」
「いいえ、よくってよ」
こうは返事をしながら、峰子は、今夜もまたこの男に、カッフェーからカフェーへ引っ張り廻されるのかと思った。峰子にはそれがひどく大儀なことに考えられた。ことに今夜は、このまま湯にもはいらず、車にでも乗って、家に帰って寝てしまいたいほど身体が疲れていた。それで、滅入った思いに沈みながら湯殿へはいると、風呂番の男に湯を取ってもらって、顔だけを洗った。
一座のうちで、もうこうしてゆっくりと顔を落して、ふだんの気持になっていられるのは峰子ばかりであった。ほかのひとは総出で、いま舞台の上で見物を笑わしている。唇を一つ動かすにしても、まだ自分の所有の口のような気になってるものは一人もない。そうして、笑いに動揺してる見物の前で、友だちはみんな緊張した顔付をしているのだと思うと、峰子は自分だけ早く楽になったのが、かえって寂しくって飽気ない気もしていた。
部屋へ帰ってくると、若い男が一人そこに坐っていた。峰子を見ると、軽く笑った。髪を長くしている男の顔は、色が白くって美しかった。
「今夜来てらしったの?」
「ええ」
「ちっとも知らなかったわ」
峰子は鏡に向って、少し濃めにお粧りをした。しばゐが初まってから、だんだんと磨がれてくるような自分の顔面を、峰子はしばらくじっと見据えていたが、
「私、しばゐが済むと、一っきりづつ悲しくなって泣いてしまうのよ」
と云いながら、男の方を向いた。男は、何かおそろしいチャームを感じた様な眼をして、峰子の顔をしけじけと見たまま、直ぐには返事をしなかった。峰子はすっかり疲れていた。そうしてこの男の手にでも、誰れの手にでも抱かれていたいような気持になりながら、然り気なく立って、部屋着を脱ごうとした。その峰子の姿が、電燈の光りで白い壁にかげを映している。