『さて、』と猫が言った。
スーツを着た猫は、一段高い正面の席から、右の片方が塞がって閉じた黄色い眼で、私――アレシアの顔を、じっと見る。猫の頭はその骨格から歪んでいて、口の端は猫としても大きめに裂けて捲れ上がり、牙が覗いていた。耳は捻じくれている。顔の毛は半ば黒く半ば白く、一部だけ長かったり剥げていたりで、一口に言えば醜い顔であった。だが、それは猫の世界における基準ではない。
まして彼は、猫の内でも地位の高い「最高裁判官」なのだった。その前は検察官と名乗っていたし、最初に見た時には刑事だとも言っていた。どの時点においても共通して彼は私に対して威圧的で、そして多くの暴力的な部下を従えていた。これまでに幾つの修羅場を抜けて来たのだろうか。
『被告、自称アレシア・モード。年齢、自称エターナル十四歳。住所、オール・ディメンジョン。職業、シックス・センス・ヴォイジャー』
猫は何の感慨もなさげな口ぶりで、私が「自供」したプロフィールを読み上げた。
『……ふん、間違いないな?』
「はい」
猫は資料を読み上げ続ける。
『被告は〇〇年の朝、東京と神奈川の県境付近、川崎産業道路の多摩川を渡るところの鉄橋の歩道を、通勤のため自転車にて走行していた際、その中間点付近にて一匹の仔猫の、おそらくは事故に遭うて、半死半生に倒れ伏しているところを発見、これを保護した』
「はい」
大型車の行き交う道路の路肩で、仔猫は殆ど死体となって転がっていた。何の奇縁か、わざわざ自転車を停めて指で猫を突っつき、まだ息がある事を確かめてしまった私は、それを前カゴに放り込むと、そのまま勤務先まで連れて行ってしまった。
当時の私は、すでに同僚の間でも変った奴として一目置かれる存在ではあったが、半ば死んだ猫を持ち込むのは憚られた。とりあえず仔猫は上から新聞紙をかけて駐輪場に残した。暫くしてタオルを敷いた段ボール箱を用意すると、猫を箱に収めてフタを軽く閉じ、誰も触らぬよう「打開箱子的者将会死亡」等と書いた札を貼っておいた。さらにそこから発生した事案については割愛したい。
『その後の介抱と獣医の治療の結果、仔猫は千切れかけていた尻尾を喪いつつも体力を回復、お尻が丸出しになった以外は普通の女の仔として、生を取り戻した』
猫の検察官兼裁判長はここで資料から顔を上げ、私の方をちろりと見た。
『……美談だな』
「はい」
『何がはい、だ。まるで美談などではないわ』
猫は自分から言いだした癖に全てを否定した。『それからの貴様の所業を確認しようか』
「はい」
強まった雨音のうねりが、幾度も窓の外を通り過ぎる。
『その後、被告は暫く自室で猫を育てていたが、当時住んでいた社員寮の部屋では限界があった。被告はその年のゴールデンウィークに帰省した際、猫を実家に連れ帰った。そして、そのまま庇護を放棄し、置き去りにして逃げ戻った』
「……はい」
大筋は事実である。実家に持ち込んだ猫は、まさに借りてきた猫となって居間の棚の上で小さく縮こまっていたが、私以外の家人にも少しずつ慣れていき、本来の活発な仔猫の姿を取り戻していった。一方、私の気持ちは晴れなかった。寮では動物の飼育を禁じていたし、住人の中には猫嫌いも居たのだ。このまま田舎の環境に残した方が幸せではないかとも思われた。
『……猫は見知らぬ環境で、健気に成長していったという。しかし、幸せの日々は突然打ち崩される事となる』
当時の私は仕事に忙殺され、猫の事を思い返すどころか、実家や両親の存在も意識に上げない日々であった。その年の夏には帰省する事もなく、電話で近況を尋ねるわけでもなく、結局暮れにも帰らないまま、再び春を迎えた頃だった。
『猫は被告の知らぬ内に、近所の猫と結ばれ母親となっていた。だがある日、彼女は生んだ仔猫とともに、捨てられた。飼いきれぬと判断されたからだ』
「……はい」
猫たちを捨てに行ったのは私の父親である。仔猫のうち二匹だけを残し、残りと母猫を揃って遠く離れた畑の方に置き去りにしたらしい。彼は別に猫を憎むような人間でもなかったので、酷い仕打ちというよりは、自分ひとりで業を負わねばならぬという意思と使命感でそれを遂行したのだろう。そういう人だ。
捨てられた猫たちは戻らなかった。あの猫が、仔猫を連れて、突然に家を追い出され、長く生きたとは考えにくかったが、私の母親は『猫だから大丈夫』と、本気なのか慰めなのか、根拠のない結論をもってそれ以上の考えを止めていた。
残された二匹は愛らしい顔だった。一匹は母猫に似た白色で、何かを引き継いだかのように尻尾の先が折れていた。もう一匹は艷やかな長毛を持つ茶色の猫だった。この二匹は、選ばれた。選ばれなかった猫には選ばれない理由があって、それが最も顕著だった白黒の仔猫は、目が片方塞がっていて、耳は捻じれ、毛が抜け、頭はその骨格から歪んだ悪魔じみた容貌だったという。
こうした話は、みな後になって母親が、猫の背を撫でながら語っていた。父親には詳しい状況を聞く気にはなれなかったし、当人も話したくもなかっただろう。数年後にはその父親も死んでしまったが、これは猫とは関係ない。元々肝臓が壊れていたのだ。
『さて父親に責を問うかね。いや、全ての元凶は被告の身勝手にある。後先なく猫を押し付けて逃げ去ったのは、そもそも被告である』
「……」
父親が死ぬと、広い実家は母親と猫だけになった。独り残された母親の、心の慰めは二匹の猫であった。猫は、その生い立ちを覚えているのか、いないのか、ただ私の母親には常に甘えて見せていた。
『これを美談というのだ。被告の冷酷な仕打ちにも拘らず、健気にも猫達は育てられた恩を越える献身をもって、被告がこれまた放り出した哀れな母親を慰め続けたのだ。被告の代りにな』
「……はい」
もう反駁する気にならない。今なお親を放置し続けているのも事実だった。
『以上、被告の罪は明白である。仔猫庇護責任の放棄、妊娠猫の支援義務放棄、捨て猫を阻止する義務の放棄、あまつさえ自身の母親の面倒まで猫に押し付けるとは、まさに外道と申す以外に言葉を知らぬ所業である。よって被告には極刑を申しつけるが妥当と思われる』
ここで裁判長は言葉を切ると、席を立ち、身を揺らしながら私の方へ降りて来た。
『しかし……猫は寛容で慈悲深い生き物である。よって被告に対しては最低限の処罰に留めてやるものとする。すなわち今後、被告には猫を飼いたいといった浅薄な気持が起きる度、冷たい雨に遭うとともに、本日の裁判および私の顔を思い出させるものとする……』
雨音の中で、裁判長の破壊的な顔が大きく眼前に迫った。
『……加えて被告には、猫に対してこのような劇的な出逢い、巡り合わせといった過ちが二度と起こらないように、我々から運命を強制づけるものとする。よいか。人が猫を選ぶのではない、猫が人を選ぶのだ。今後一切、被告は、猫から選ばれる事はない』
そうなのだ。私はもう、猫に選ばれない人間なのだ。それが猫たちの私に下した判決だった。
雨音が少し遠ざかる。
私は、もう幾度聞かされたとも知れぬ裁判長のガラついた声を、心の内に繰り返しつつ、雨の中でずぶ濡れになっていた汚い仔猫の身体をタオルで包んでやる。その鼻先に小指を寄せながら、さて、いったいこいつはどういう過ちなんだろうかと訝しんだ。