墓場の銀貨
今月のゲスト:上田広
赤い空と同じ色の海だった。夕暮の潮が窓の下まで寄せていた。先生のアトリエだ。
源爺さんはすっかり疲れていた。
「おかげでなお爺さん、これでやっと出来あがったんだよ」
先生が源爺さんをモデルにしたのは、障子一枚ほどもある大きな画だった。朝から晩までかかって……今ようやく完成した。
爺さんには画なんか解らなかった。けれども自分にそっくりな、見た通り骨と皮ばかりの、画面の姿を眺めていると、不思議な嬉しさで涙がひとりでに出て来た。爺さんはもう八十だった。
「ほんとに爺さんすまなかったね」
先生は喜んで、門の前まで爺さんを送って出た。
「とんでもない先生……」
源爺さんは曲った腰を伸して、あらためてお辞儀をするためにまたその腰を折った。そして先生に別れを告げた。
爺さんの家までは、海岸通りを真っ直ぐだった。
源爺さんは久し振りで五十銭銀貨を握っていた。こいつは十年来ないことだった。
爺さんは毎日、二枚で一銭の煎餅を売って歩いた。その煎餅も自分では造れっこなかった。だから村の子供等を相手に、一銭二銭と一日中売り溜めても、儲けはせいぜい十五銭か二十銭どころだ。爺さんは飯の代りに芋を喰うことが多かった。それだのに昨日は、はからずも先生のところで、持っていただけの煎餅はみんな買って貰うし、其の上驚いたことにはモデル代として、五十銭銀貨が元なしでひょっこり飛びこんで来たのだ。
「たったあれだけで五十銭玉ひとつになったんだに……」
源爺さんはよちよち歩みながら、貪るように赤い夕日の前へ銀貨を曝してつくづく眺めた。それから縁のギザギザを爪で鳴らして見た。その音が爺さんにはたまらなく気持いいものだった。若いときにはそうした経験が爺さんにはあった。それを思い出すと爺さんは急に寂しくなった。婆さんは爺さんひとりを残して二十年前に眠るが如く死んでいった。そして今の爺さんには、五十銭玉の爪音までが若い時のようにハッキリと聞えないのだ。
爺さんは親指の爪に力をこめた。痛むのも気づかなかった。爪と肉の間に血がニジみ出た。
「やっぱり聞けんわい」
それから爺さんは、いらいらしそうに耳もとで繰り返したが、やがてあきらめたようにそう言った。
五十銭銀貨は右掌で堅く握られた。
道と云ってもそこは海岸の砂地だった。夕日が地平線に落っこちると、瞬間、海原の小波がいちめん鯉の鱗に変った。生まあたたかい潮風が、絶えず、キリギリスのような爺さんの足を嬲って通る。
行手に黒い丘が見えた。その頃はもう海も暗かった。丘の上は墓場になっていた。墓場のなかから、ながい梯子がスックと突っ立って、そのてっぺんに警報用の半鐘がさがっていた。
爺さんは丘を登った。二三歩行っては立ちどまって腰を伸した。そして大きな溜息を吐いた。
「ちっとばかし変だぞ……今日は……」
爺さんはやっとそう呟いた。体の調子がいつもと違っていると爺さんは思った。今日に限って、腹の具合がちっとも減ったようでなし、それでいて眩暈がする。悪い夢を見ているような気持だった。
婆さんの墓は土が盛ってあるだけだった。
海鳴りがして風の強い日は、すぐに、婆さんの墓が痩せた。その翌朝爺さんは冷い床を離れると、何を惜いても墓場へ出かけた。爺さんは婆さんの墓を二十年の間倦まずたゆまず盛りあげて来た。
爺さんは墓の前に跪くと、手にした五十銭銀貨を静かに墓の上に載っけた。そして言った。
「儂もいよいよ長いことはないでな。もうちっとだ、待っててくんろ。今日はな、先生んとこでこの銀貨を貰っただあ。いつかそうしべと思ってただが、あしたは甘いものを買って来てやるだに……」
そこで爺さんは苦しそうに咳をした。
墓の上では、五十銭銀貨が鈍い光を放っていた。やがて爺さんはいつもするように、両手であたりの砂を掻き寄せて、墓のからだを太らせた。それからバタバタと、墓の周囲をたたいて砂を固めた。
「俺の代りなんて、あともうひとりもねえんだでえ」
爺さんは思わず涙ぐんだ。
四囲は真暗だった。爺さんは名残惜しそうに立ち上がった。そしてそこを去ろうとした。
「また、あしたくるでな――」
墓石の間を縫うようにして、爺さんは墓場を出ようとした。その時、爺さんはふと、さっきよりも片手の軽いことに気がついた。五十銭銀貨を忘れるとこだった。
爺さんは周章てて踵を返した。墓場は道よりも暗かった。爺さんは手さぐりで婆さんの墓へ近寄った。
銀貨は容易に見つからなかった。確かに墓の上に載せた筈だったのに。
墓土のまわりを匍う老人の掌は、蝸牛の角よりも賢いように思われた。けれどもいっこう銀貨らしいものは手に触れなかった。爺さんは腕を組んではながい間考えた。しっかり考えようとしてもじきに眼玉がキョトンとして、定まらない。顔が青褪めて凍っていた。
「どこへ失せやがった……畜生……」
動悸がして躰が痺れて来た。なにか胸がいっぱいになった、苦しかった。
爺さんは覚悟した。
と、老人の両手が荒々しく、盛りあげた墓のなかへ喰いこんだ。一塊の土が老人の手で握られた。爺さんはそれを注意深く握りつぶして見た。何んの手ごたえもしない。途端に、爺さんの顔は野暴な色で生き生き輝いた。だが次の一握りも無益だった。爺さんは目の色を変えた。そして何回も何回も同じことを繰り返した。にくらしい五十銭銀貨は、いつ爺さんの手に触れるのやら、全く見当がつかなかった。それでも爺さんは夢中だった。足より頭が重かった。頭の中は、五十銭銀貨で洪水のようだった。
爺さんは際限もなく、それからそれへと、黒い、冷い砂を握り廻った。
東の山へ月が昇った。
たくさんの苔蒸した墓石が、地面へ黒い月影を市松の模様に投げた。
両手をついた爺さんの姿が、肉に飢えて墓を掘る山犬のように物凄かった。老人はまだ疲れた様子も見せなかった。まるで狂人の如く、婆さんの墓を掴んでは投げ掴んでは投げた。握った砂を投げ捨てると、砂は月光に粉飾されて、枯枝のような爺さんの躰を、パッと金色に包んだ。
婆さんの墓は、すでに影も形もなくなっていた。
(一九三〇、一月)