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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第36回バトル 作品

参加作品一覧

(2018年 7月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
上田広
2483

結果発表

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ハミルトンの鯨――破
サヌキマオ

 毎年、城の庭の杏が咲くと春が来たことにしているのだが、今年ほどこの白い花が待ち遠しかったことはなかったろう。秋口から停まったままの噴水からなんとか王子のブロンズ像が無くなり、屋根飾りのガーゴイルもどこかへと連れ去られた。昨日は食堂にあったピアノが幾人もの手によって引っ張り出されていった。今日は城の料理人だったマッソがいやに豪勢な食事を持ってきた。豪勢というのは荷台を引くのに馬を使ってきたからで、本当は豪勢でないのかもしれない。
「ね、パーシモン。こういう格言を思いついたの。やらかす可能性のあることは、必ずやらかしてしまう」
「何かやらかされたんですか」
「私が無事大人になれたなら、きっと箴言集を作ると思うの。その冒頭にこの言葉を入れたいわ――例えばそうね、パンにバタを塗ったとき、うっかり落としたときにはかならずバタの面が絨毯につくのよ。必ず高確率でね」
「お嬢様、どんなに優れた考えであっても、世の中には同じようなことを考えようという人が幾人もあるものです」
「そうね。でも、それを箴言集にまで纏めようという野望の持ち主はそうはいないはずだわ」
 お嬢様は相変わらず元地下牢の水辺に座って鯨を待っている。毎日毎日飽きもせず、もう半分くらいは幽霊おれたちと同じになっているんじゃないだろうか。
「お嬢様に折り入ってお話がありまして」
「ピアノの練習の代わり? 別に何かしなくていいわよ、ようやく稽古をしなくてよくなって清々してるんだから」
「いえ、そうではありません――今日限りでお暇をいただきたく」
「お暇? やめるの? ここを?」
「そういうことです」
「今日?」
「はい。申し訳あり――
「勿体無い! いやいやいやいや、明日まで待てない? 明日まででいいのよ? 駄目? それ、お父様から手紙でも来たの?」
「ええまぁ、その」
 柿と一緒に俺も吃驚した。お姫さんの顔は柿が辞めちまうことよりも、何故この機会を逃すのかが信じられないような、高揚感みたいなもので満ちていたように思う。
「だとしたらお嬢様、何があるんです?」
「鯨よ。何度も言っているじゃない。もうそこまで来ているわ」
「それ、本当に、本当ですか?」
「私が嘘を言ったことがあって?」
「お嬢様が最初から最後まで筋道立ててお話になったことがありましたっけ」
「それはアレよ」お嬢様は柔らかく笑って続けた。「私が今まで食べたパンの枚数を覚えているか否か、みたいな話よ。あ、これも箴言集に入れましょう」
『ヤだネ、ずいぶんフワフワフワフワした子だと思ってたけど、とうとう気が触れちまったのかねえ』
 急に目の前にマアサが出てきて魂消たのなんの。泥棒ババア、びっくりさせやがって。
『貴族のくせにあくせく金策などするからおかしくなってくるのだ。至極忌々しい』
 セルバンデス、あのパチモンの騎士野郎に至ってはもう見ていられないのか、声だけが響いてくる。誰もがみんなあっけにとられてしまって所在がない。しばらく間があって、柿が口を開いた。
「ではお嬢様、私に教えていただけますか――その『鯨』がどのような姿かたちをしているのか」
「いいけど。でも、ただの鯨よ。まっくろくて、とても大きいの。金色の目をしていて、鳴き声? 低く響くとても素敵な声で鳴くわ? ピアノ? そう、ピアノは昨日、城の外に運ばれていってしまった。よかったわ」
「そんなによかったんですか?」
「だって、鯨はピアノが嫌いだと思うもの。黒くて大きくて、自分の張りぼてみたいに思うでしょう?」
 セルバンデスがどこからか呻いた。『見ちゃおれん上に聞いちゃおれん。あのピアノは先々代がわざわざ先代のために拵らせたものだ。それをたかがメイドの、メイドの給金ごとき用立てるために売り払ってしまうとは。情けなさもここに極まったものである!』
『ということはアレかい、この家も』
『嗚呼そうだとも、あの当主もどきが帰ってくる。何もかもさっぱり売り払っても取り戻せない借金の山を積み上げて――もうお終いだ。何もかもな!
 自分の言葉に興奮して喚き散らすセルバンデスの声よりもなお大きく、地がひとつ鳴った。おれはマアサと顔を見合わせて、やおら生きている二人を見た。
「ね、聞こえたでしょ。鯨よ」
「聞こえましたね」
「明日まで、ここにいない?」
「だとしたも、メイドとしての私は今日までです」
「じゃあ、今日から家族……大事なお客さん、ということで。歓迎するわ。ようこそ、ハミルトン城へ」

 マッソが持ってきたのはやはり大ごちそうだった。普段は現れないマッソのおかみさんだという女性も現れて、甲斐甲斐しく準備をしている。
「夕方までには旦那様も奥様もお見えになりますからね」
 柿はそう言ったものの、夕方になって、七時を過ぎても、九時を過ぎても、馬車はやってこなかった。なし崩し的に食事をとってしまうことになった。お嬢様と、柿と、丁重に断るマッソとおかみさんを引き留めて。四人でひっそりとテーブルを囲んでいた。でも、ひさびさにちゃんと食事の体をなしていたと思う。マッソが気を使って街で見聞きした様子を語って聞かせると、お嬢様も柿もずいぶんと楽しんでいたようだった。話が市場の有名人の話、とりわけ魚屋の話になるとお嬢様の反応はものすごかった。
「鯨を売っているの?」
「鯨。ございますとも、塩漬けになったものが入ってくることがございます」
「海だってそう遠くはないのに」
「このあたりは海が浅うございます、鯨はもっと南の、海の広いところで、いくつも船を出して力を合わせて獲るのだと聞いたことがございますが」
「ということは、下の港町には、鯨は入ってこられないということかしら?」
「ええ、ええ、左様で」柿の声色にも気づかず、マッソのおかみさんは何故か嬉しそうな顔をした。「入江というやつでございましてね、小さい船で出かけていって、沖の大きな船に繋ぐんでございますのよ。私の叔父の家族が積荷を遣ったり取ったりする船をいくつか持って商売しておりますから、よく知っております」
 俺はぎくりとしてお嬢様の顔を見た。我らが姫君はすました顔で生ハムを口に押し込んでいるところだった。ホッとしたのもつかの間、またひとつ、ゆっくりとした地鳴りがあった。どうもあちこちでいろいろなことが起こって落ち着きがない。居ても立ってもいられなくなって食堂を後にした。食堂の床に沈めば一階の入口、正面玄関の大広間だ。がらんどうになった正門から顔を覗かせると、やはり庭はひっそりとして灯りのひとつもない。静謐の闇の奥から低くくぐもった呻き声がする。声の主を求めてふらふらとさまよってみたが皆目見当がつかない。
 しばらくすると勝手口が空いたので飛んでいくと、マッソ夫妻が帰るところだった。きっとこの城にとっての最後の晩餐だったに違いないのに、あの主人共は何をしているのだろうか。マアサと手分けして城の上空まで頑張って昇ってみたものの、崖下の港町の灯はあっても、こちらに向かってくる光は見えなかった。まもなく屋敷から明かりが消えていった。柿が消してまわっているのだ。
 そうして夜半過ぎ、大きな地鳴りがしたかと思うと城が港町の方に向かって崩れ落ちた。ここで全て合点がいった。数十年もの間溜まっていた地下水で、緩んでいた石壁が崩れ落ちたのだった。山腹に立っていた白亜の城壁は。一気に吹き出した泥水とともに山肌を転げ落ちていった。
ハミルトンの鯨――破 サヌキマオ

墓場の銀貨
今月のゲスト:上田広

 赤い空と同じ色の海だった。夕暮の潮が窓の下まで寄せていた。先生のアトリエだ。
 源爺さんはすっかり疲れていた。
「おかげでなお爺さん、これでやっと出来あがったんだよ」
 先生が源爺さんをモデルにしたのは、障子一枚ほどもある大きな画だった。朝から晩までかかって……今ようやく完成した。
 爺さんには画なんか解らなかった。けれども自分にそっくりな、見た通り骨と皮ばかりの、画面の姿を眺めていると、不思議な嬉しさで涙がひとりでに出て来た。爺さんはもう八十だった。
「ほんとに爺さんすまなかったね」
 先生は喜んで、門の前まで爺さんを送って出た。
「とんでもない先生……」
 源爺さんは曲った腰を伸して、あらためてお辞儀をするためにまたその腰を折った。そして先生に別れを告げた。
 爺さんの家までは、海岸通りを真っ直ぐだった。
 源爺さんは久し振りで五十銭銀貨を握っていた。こいつは十年来ないことだった。
 爺さんは毎日、二枚で一銭の煎餅を売って歩いた。その煎餅も自分では造れっこなかった。だから村の子供等を相手に、一銭二銭と一日中売り溜めても、儲けはせいぜい十五銭か二十銭どころだ。爺さんは飯の代りに芋を喰うことが多かった。それだのに昨日は、はからずも先生のところで、持っていただけの煎餅はみんな買って貰うし、其の上驚いたことにはモデル代として、五十銭銀貨が元なしでひょっこり飛びこんで来たのだ。
「たったあれだけで五十銭玉ひとつになったんだに……」
 源爺さんはよちよち歩みながら、貪るように赤い夕日の前へ銀貨を曝してつくづく眺めた。それから縁のギザギザを爪で鳴らして見た。その音が爺さんにはたまらなく気持いいものだった。若いときにはそうした経験が爺さんにはあった。それを思い出すと爺さんは急に寂しくなった。婆さんは爺さんひとりを残して二十年前に眠るが如く死んでいった。そして今の爺さんには、五十銭玉の爪音までが若い時のようにハッキリと聞えないのだ。
 爺さんは親指の爪に力をこめた。痛むのも気づかなかった。爪と肉の間に血がニジみ出た。
「やっぱり聞けんわい」
 それから爺さんは、いらいらしそうに耳もとで繰り返したが、やがてあきらめたようにそう言った。
 五十銭銀貨は右掌で堅く握られた。
 道と云ってもそこは海岸の砂地だった。夕日が地平線に落っこちると、瞬間、海原の小波がいちめん鯉の鱗に変った。生まあたたかい潮風が、絶えず、キリギリスのような爺さんの足を嬲って通る。
 行手に黒い丘が見えた。その頃はもう海も暗かった。丘の上は墓場になっていた。墓場のなかから、ながい梯子がスックと突っ立って、そのてっぺんに警報用の半鐘がさがっていた。
 爺さんは丘を登った。二三歩行っては立ちどまって腰を伸した。そして大きな溜息を吐いた。
「ちっとばかし変だぞ……今日は……」
 爺さんはやっとそう呟いた。体の調子がいつもと違っていると爺さんは思った。今日に限って、腹の具合がちっとも減ったようでなし、それでいて眩暈がする。悪い夢を見ているような気持だった。
 婆さんの墓は土が盛ってあるだけだった。
 海鳴りがして風の強い日は、すぐに、婆さんの墓が痩せた。その翌朝爺さんは冷い床を離れると、何を惜いても墓場へ出かけた。爺さんは婆さんの墓を二十年の間倦まずたゆまず盛りあげて来た。
 爺さんは墓の前に跪くと、手にした五十銭銀貨を静かに墓の上に載っけた。そして言った。
「儂もいよいよ長いことはないでな。もうちっとだ、待っててくんろ。今日はな、先生んとこでこの銀貨を貰っただあ。いつかそうしべと思ってただが、あしたは甘いものを買って来てやるだに……」
 そこで爺さんは苦しそうに咳をした。
 墓の上では、五十銭銀貨が鈍い光を放っていた。やがて爺さんはいつもするように、両手であたりの砂を掻き寄せて、墓のからだを太らせた。それからバタバタと、墓の周囲をたたいて砂を固めた。
わしの代りなんて、あともうひとりもねえんだでえ」
 爺さんは思わず涙ぐんだ。
 四囲は真暗だった。爺さんは名残惜しそうに立ち上がった。そしてそこを去ろうとした。
「また、あしたくるでな――」
 墓石の間を縫うようにして、爺さんは墓場を出ようとした。その時、爺さんはふと、さっきよりも片手の軽いことに気がついた。五十銭銀貨を忘れるとこだった。
 爺さんは周章てて踵を返した。墓場は道よりも暗かった。爺さんは手さぐりで婆さんの墓へ近寄った。
 銀貨は容易に見つからなかった。確かに墓の上に載せた筈だったのに。
 墓土のまわりを匍う老人の掌は、蝸牛の角よりも賢いように思われた。けれどもいっこう銀貨らしいものは手に触れなかった。爺さんは腕を組んではながい間考えた。しっかり考えようとしてもじきに眼玉がキョトンとして、定まらない。顔が青褪めて凍っていた。
「どこへ失せやがった……畜生……」
 動悸がして躰が痺れて来た。なにか胸がいっぱいになった、苦しかった。
 爺さんは覚悟した。
 と、老人の両手が荒々しく、盛りあげた墓のなかへ喰いこんだ。一塊の土が老人の手で握られた。爺さんはそれを注意深く握りつぶして見た。何んの手ごたえもしない。途端に、爺さんの顔は野暴な色で生き生き輝いた。だが次の一握りも無益だった。爺さんは目の色を変えた。そして何回も何回も同じことを繰り返した。にくらしい五十銭銀貨は、いつ爺さんの手に触れるのやら、全く見当がつかなかった。それでも爺さんは夢中だった。足より頭が重かった。頭の中は、五十銭銀貨で洪水のようだった。
 爺さんは際限もなく、それからそれへと、黒い、冷い砂を握り廻った。

 東の山へ月が昇った。
 たくさんの苔蒸した墓石が、地面へ黒い月影を市松の模様に投げた。
 両手をついた爺さんの姿が、肉に飢えて墓を掘る山犬のように物凄かった。老人はまだ疲れた様子も見せなかった。まるで狂人の如く、婆さんの墓を掴んでは投げ掴んでは投げた。握った砂を投げ捨てると、砂は月光に粉飾されて、枯枝のような爺さんの躰を、パッと金色に包んだ。
 婆さんの墓は、すでに影も形もなくなっていた。

(一九三〇、一月)