名著とか傑作とかいうものは、とかくその表題ばかり人の口に伝えられて、内容はどんな物やら知られずに終わることが多い。『人形の家』などもやはりその格で、表題だけは誰知らぬ者もあるまいが訳文の全部を読んだ人が幾らあろうか。そこでこの歌は、せめてそのおぼろな影法師だけでも広く世に知らせたいと思って、その粗筋をつまみ、その急所を掴んで作ったもので、殊に大切な文句はなるべく舞台で使うそのままの言葉が残してある。この歌さえよんでよく味わえば『人形の家』の原文はよまずとも、実地の興行は見ずとも、ほぼその意気は呑み込まれることになる。我らは今後続々この種の歌を世に広めたいと思っている。(唖蝉坊)
第一幕
家の小鳥よ子
雲雀よ、
可愛の
栗鼠よと名に呼ばれ、夫の愛を身に集め、
三人の子供と
諸共に、隠れんぼして戯むるる、若き母親若き妻、夫は銀行の支配人、お金は山ほど取れるとて、祝う今年のクリスマス、ノラはしあわせ果報者。
されどノラにも苦労あり。先年夫のヘルマーが、失業中の大病に、是非とも転地が必要と、医者は言えども金は無く、折から里の
父親も、同じく危篤の
病にて、ノラは
切迫のこの場合、手形に父の名を書きて、借りし
一千二百
弗、父は手形の日付より、二日の前に死にたれど、夫はそれゆえ平癒して、ついに今度の身の栄え。
それは善けれど
彼の金は、父が呉れしとばかりにて、いっさい夫に内証の、借金持つ身の苦しさは、
晴衣を作るその金も、利息に
送りてなお足らず、ひそかに写字の内職に、夜を明かしたる事もあり。
夫のためにそれ程の、心尽しが今聞けば、私書偽造とやら詐欺とやら、イヤイヤそんな事はない、愛のためにとした事が、どうしてそんな筈はない、とは思えども様々に、乱れ乱るるこの心。
第二幕
ノラの債主は恐ろしき、クログスタットと云う男。ヘルマーのため銀行の、
雇いを解かれし怨みにて、ノラの手紙の一件を、公け沙汰にすると云う。ヘルマーに宛てた威かしの、手紙が現に今そこの、郵便箱に入れてある。
ノラの親しき朋友の、クリスチーナはその昔、クログスタットと訳ありて、今こそ共に不幸の身、心も離れて居るものの、私が行って話せばと、ノラの救いに出でて行く。
ノラはその
間に考える。もしも夫がこの事を、かの手紙にて知るならば、必ず奇蹟が現れる、その奇蹟とは
外じゃない、我を愛する夫ゆえ、必ず我を助けんと、自ら進んで何事も、身に引き受けて罪人は、この我なりと仰っしゃろう、それが見たくもあるけれど、また恐らく悲しくて。
とにかく今は
彼の手紙、夫に見せてなるものか。幸い明日は約束の、仮装舞会の催しに、漁師の娘を踊るはず、その稽古にと云いなして、夫の手をば塞がんと、甘えた様に駄々をこね、明日の踊りの済むまでは、用事をしてはイケませぬ、手紙を見てもイケませぬ、無理に夫を頷かせ、強いてピアノを弾かせつつ、思えば今より我はただ、三十時間の命ぞと、気も狂乱に踊り出す。
第三幕
浮世の波の
難船者、クログスタットとクリスチナ、手を取りあいて助けあい、再び元の幸福の、心になりて
諸共に、ノラを救うと勇み立つ。それとも知らずノラはまた、踊り衣装の派手やかに、美の塊と誉められて、夫に連れられ帰り来る。
今は踊りも済みたれば、ヘルマーは手紙を開き見る、ノラは身も世もなき思い、死ぬる覚悟で逃げんとす。ヘルマーはそれを呼びとめて、おお偽善者よ嘘つきよ、なおその上に
罪人よ、汝のためにこの恥辱、我もかくては共犯の、疑い受くる恐れあり、これが年頃いたわりて、愛せし妻のお陰かと、思いの外の憤り、ノラは呆れて言葉なし。
そこにクログスタットより、またも手紙を送りくる、ヘルマーは急ぎ読みくだし、打って変わって『おうノラよ、私はこれで助かった。これ見よ彼は
悔悟して、お詫びをすると書いてある。さっきの事はホンの夢、この証文を焼き棄ててしまえば
総て事は済む。汝の罪は許した』と、言えどもノラは喜ばず、ツイと彼方に寝室に、
入りて静かに人形の、衣装を脱ぎて出で来たり。
『お聞き下さい
私は、今という今ハッキリと、初めてこの目が醒めました。私は元は父親の、人形ッ子でありました。それからあなたに引き取られ、人形妻になりました。あなたはホンの慰みに、私を愛して下さるし、私はあなたの意を迎え、芸当ばかりして居るし、そして子供は
順次に、私の人形になりました。これがあなたと
私の、結婚というものでした。それで私は今日限り、モウお
暇いとまを貰います』
これを聞きたるヘルマーは、『狂気の沙汰だ許さぬぞ。家も夫も子も棄てて、出て行こうとは何事ぞ、女の身として一番の、神聖の義務を忘れたか』
『イイエ、忘れは致しません。夫に対し子に対し、義務はあるかも知らねども、それより前に
私は、我が身に対する義務がある、女は何より第一に、人妻であり母である、それも誠か知らねども、私は何より第一に、人間であると思います。私は今夜
永の年、仰ぎ望んで信じたる、奇蹟のついに現われず、あなたが今まで
私の、思った人と違うのを、初めて知って恋も醒め、愛も情けも消えました』
ヘルマーはさすが苦しくて、『愛する者のためならば、貧も苦痛も厭わねど、男が名誉を犠牲には、供しはせぬ』と弁護する。ノラは平気で『名誉をも、何百万の女らは、みんな犠牲にして居ます。とにかく今は私も、この目がハッキリ醒めました。ああ八年というものを、他人のあなたとともに居て、そして
三人の子まで
生し、だいじな私の一生を、無駄にしたかと気がつけば、我と我が身を引き裂いてしまいたい様な気がします。サァこの指輪も返します、これでスッカリ済みました』
さようならば、と出でて行く。
