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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第39回バトル 作品

参加作品一覧

(2018年 10月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
蛮人S
3000
3
イブセン
2007

結果発表

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あおとみどり・上
サヌキマオ

 昨日、アオ子がブチ切れたという話を聞いた、
 というか、私もその場に居たのだけれども、そして私がおそらく一番近くに居たのだけれども、舞台袖から聞こえたガンッという音が、「アオ子が何かのモノに当たった音」だということを知らされたのが、今ということだ。
「そんなに嫌いなんかな」聖が口を開いた。部長である。「まぁ、人の好き嫌いとか相性って、周りからどうこう云えるものじゃないけど」
「今日は来てるの? 呂畑さん」
 私が視線を向けると、ちょうどお弁当の卵焼きを口に入れたところだった小星ちゃんは目を白黒させた。もがもがふご。
「あ、いますいます。来てます」話を受け取ったのはジャン子だ。「今日は文化祭の役割決めがありましたから」こいつ、気がつくとブリトーばっかり食っている気がする。ブリトーがなくなったら餓死するんじゃないだろうか――うん?
「え、聖、それ、なに?」
「私の? 塩サバ」
「お前、女子高生が弁当に塩サバ入れてくるか?」
「いいじゃん塩サバ。塩サバと飯だけあれば世界は平和だよ」
「ほら、そういうアレですよ」
 ブリトー女が話をもとに戻そうとしてくる。
「なんか合わないとか、なんとなく嫌いとか、そういうアレですって」
「そういうアレで、あんなにキレると思う?」
「うーん」
 沈黙。コモンスペースの丸テーブルは四人で座るとちょうどよい。
「逆に、呂畑さんはアオ子に対して何かしたわけ?」
「いやぁ……逆に、ロバタがなんかしでかしたとしても、後輩に対してムカつくとかそういうタイプではないですよね、墨家先輩」
「そうね、アオは他人の行儀とか礼儀とかはむしろどうでも良いタイプだと思う」
「たとえば、高校組だから気に食わない、みたいな?……ないか」
「ないでしょうねぇ。俵村先輩は、なにか思い当たるフシは」
「ない。本人に聞くのが早い」
 私はコモンスペースから教室の方に視線を向けた。校舎は真ん中が吹き抜けになっていて、中庭を通して高二の教室の並ぶ廊下が見える。そうそう都合よく青子は見つから
「ちょっと」
「ひっ」
 急なので変な声が出てしまう。
「なによ?」
「や、ビックリしただけ。ごめん」
 当のアオ子、墨家青子だ。普段と別段変わったところがない、ということはおおむね不機嫌だということだ。黒縁の眼鏡に、耳まですっぽり覆った赤みがかった黒髪。私は、演劇部員はこれが世を忍ぶ「ワザト」だということを知っている――ガリ勉で名高い「特進クラスの墨家さん」と、どの大会でも演技賞を手放さない「演劇部・墨家」があるのだ。
「今日、部活休むからって伝えといて」
「どっか調子悪いの?」
「じゃあ、その『調子が悪い』ので」
「って、本当は違うの?」
「別にあんたにそんな」
「あれ、昨日キレてたことと関係ある?」
「ある。これで満足?」
 視線を演劇部で占拠したテーブルの方に目をやると、小星ちゃんとジャン子が固唾をのんでこちらの様子を伺っている。聖はちょうどあくびを終えたところだ。
「なにか、なにか手伝えることは、ありますか?」
 アオ子より私のほうが背が高いのだが、なんとか上目遣いを試みる。
「休むって、先生に、伝えといて。よい?」
「はい。よい」
「気が向いたら、話を聞かせてね~」
 アオ子の背中に向かって聖が気の抜けた声をかける。今日は内心驚いてばかりいる。

 呂畑翠は中高一貫校である日本萬歳学園に高校から入ってきたいわゆる「高校組」の子で、いわゆる変なやつだ。世の中には自称天然ボケとか自称変人というのはいくらもいるが、そういうのは自称することで何かいろいろ自分自身の踏み入れられたくないところに予防線を張っているに過ぎない。とにかく、呂畑は変だと思う。どう変かというと、私が放課後教室のある本館からホールのある図書館棟に歩いていると、決まって呂畑は校門のほうから歩いてくる。つまり、部活のためだけに登校してくるのだ。
「だって、学校は必要最低限来ればいいんですから。それ以外は自由時間です」
 そう云って呂畑が見せてくれたのは、いろいろな色のマーカーで色分けされた年間予定表だった。高校は単純に「投稿日の三分の一以上休むと留年」というわけではないそうだ。国語なら週に五時間、体育なら週に二時間あるうちの三分の一以上休むとアウトで、他に始業式やテスト、学校行事は休むとホームルームの成績に影響するのだという。そういえば、学校から来る成績通知表にも「HR」という項目があったが、あれは学校のイベントに参加したかどうかを問うものだったのだ。
 学校にいない時間はどうしているのかというと、勉強しているという。「ほら、古い映画を見たり、行きたい観光地に行ったり、あるじゃないですか。当然平日のほうがどこも空いてますしね。今日も近代美術館でダリの回顧展を見てきたところです。ダリ、すごいですよ。変というよりも、でかい。絵のサイズがです。ああいうのを見ると興奮します」私はきっとみっともない顔をしていたと思う。ダリって、誰。これは口には出さなかった。
「大丈夫ですよ、演劇部のことは大好きですから必ず稽古には出ます」
 うん、それならばいい。いいんだろうか。でも、ルールとしては間違っていないし、成績はトップクラスらしいし、部活の中でしか知らないけど周りからは尊敬されてるし、役者としてはちゃんと華があるし、伊武先生も「教員が大っぴらに言えるわけないけど、いいんじゃね」って云ってたし、いいんだろうなぁ。と、呂畑の話を聞いていて、なんとか自分の中で理屈付けたのを思い出した。
 それと、青子だ。スミヤセーコも変な女だ。これは五年にもなろうつき合いの中で、解る。こっちはがんじがらめだ。一匹狼で、部活の後に学習塾、ダンスレッスン。そのくせ、他人にはなるべく自分が演劇部であることを知られないようにしているフシがある。あの分厚い眼鏡だって本当はダテなのだ。正体を知っていればあんなのギャグでしか無いのに、本人が演じているおかげで周りを拒絶する小道具としてうまく機能している。天才だと思う。でも、結局は自分で自分を縛っているだけに見える。
 部長は「気が向いたら」って云ってたけど、アオ子の気が向いても、彼女の中のセーコがきっとそんなアオ子を表に出そうとしないだろう。何を云っているかわからないと思うが、実際にそういう女なのだ。
 私には、わかる。
 アオ子の住むマンションの入口のインターホンから802号室を呼び出す。ややあって「はい?」と返事がある。
「こんばんは、おなじみ俵村です」
 ブチッ、と音がして通信が途絶える。アオ子が嫌がってもお母さんが入れてくれると思ったのに目論見が外れる。いないのならしかたない、電話を使おう。
「なんでさ」
「なんでさはこっちのセリフよ。アタシも塾から帰ったばっかりで疲れてんだけど」
「それを知っていてこの時間に着た上で、ちょっと相談に乗ってほしいんだけど」
「……あんたの?」
「そう」
「あんたの話、ね?」
「そう」
「……あんたのこと以外の話をしたら、すぐに帰るから。じゃ、十分後に入り口で」
 なるほど、抜け目ない。でも、本人を引っ張り出すのには成功したわけだ。マンションの前には猫の額ほどの公園があって、と、こういう話を書くと、この公園が猫の額を意識して作られたらしいという話を思い出す。菱形の敷地に、耳を模して背の低い樅の木の一種が植えてある。これで耳って。樅って。
あおとみどり・上    サヌキマオ

還る日に
蛮人S

 野生のからすに名前は無いが、ここでは彼女を老いたアスサと呼ぼう。
 アスサは山の麓のねぐらを抜けて、秋の蒼空を飛ぶ。眼下には住宅地が広がっていた。そこは彼女の属するグループの遊び場であり、重要な餌場だった。そして不穏な影を帯びている。
 頭上には四羽の鴉らが、大きく一定の距離を保ちながら、空いっぱい緩やかな弧を描いていた。ねぐらを中心とした一帯を哨戒するチームだ。交代で見張る。時に戦闘も求められた。
 自分にはもうとても届かぬ高度を行く彼らの影は、アスサの目には頼もしげに映った。アスサも、少し若い頃には哨戒に参加することもあった。その間、他のグループと多少の衝突もあったが、命に関わる事態には至らなかった。
 住宅地は影を帯びている。
 野生動物に不慮の死は少ない。その生命ははかなく、飢えが、気候が、外敵が彼らの生命を奪う。だがそれは彼らの仕組みであり、死ぬべくして死ぬのである。無論彼らは死を望むものではない、ただ、死んでしまったその先には、必ず還るところがある。アスサはそれを経験的に知っている。そして、還れなかった仲間も知っていた。
(還れないこと)
 老いたアスサは空中で身を震わす。彼女が最も怖れるのはそこだった。人間の環境に深入りすると時にそういう目に遭う事は、アスサ自身、幾度か直に目撃していた。その記憶は曖昧な不吉な印象として、アスサの原初的な脳の底で幾層かの影となってこびりついていたのである。

 最初の影は、いつの家族とも知れないが、アスサが産んだ雛の一羽だった。それは十分に飛べぬまま、巣から地上に舞い降りた。冒険心に満ちた仔だったが、アスサの目の前から姿を消してしまった。その前に人間の姿がうろついていた事、雛を失った事、その事実だけが印象となって残された。雛は、還れなかった。
 ある影は、いつの家族とも知れないが、やはりアスサが産んだ一羽だった。すでに若鳥に成長した彼に対して親子意識は薄れたものの、集団の中での何かしら親しい繋がりは、アスサに頼もしげな印象を与えていた。彼がとびの奇襲を受けて落ちたのは、ある日の午後だった。鳶はそこまで獰猛な敵ではないが、彼は油断したのか、何より当たり所が悪かったのか、空から真っ直ぐ落下して、とある店舗の前の道路に叩きつけられ動きを止めた。鴉の群れが集まり、鳶を追い散らすや、路上の黒い塊を遠巻きに囲んだ。ここで儀式を始めるところだったが、人通りが邪魔をした。やがて店舗から人間が現れると、彼の亡骸はアスサの目前で忌まわしげに袋に放り込まれ、どこかへ持ち去られた。彼はそのまま、還れなかった。
 ある影は、いつの家族とも知れないが、アスサと結ばれた雄の一羽だった。仮に、カルと呼んでおこう。カルの最期は、最も鮮烈な印象を残していた。ある朝、ゴミ集積場で食料調達に勤しんでいた彼は、夢中のあまり人間の接近に気づくのが遅れた。声を上げて近づいた人間に驚いた彼は、逃れようとそのまま水平に飛び立った。そこを運悪く、自動車に轢かれて即死した。さらに後続にも轢かれた。仲間たちは狼狽し、路上の血とへしゃげた亡骸に向かって声をあげるしかない。電柱の頂に立っていた見張りの鴉――危険があれば知らせるはずだった若い雄も、それに混じって喚いていた。野生の動物は起きてしまった出来事に責任を取らないし、取りようもない。
 カルは仲間たちの前で、速度を上げて走る通勤の車のタイヤの下に何度も何度も轢き潰され、形を失っていった。それに従って仲間も一羽、また一羽と場を離れていく。カルが路面に付いた紋様と化しても、見守っていたのはアスサだけだった。カルは、還れなかった。

 アスサは、死んだ者に未練などない。ただ、その獏とした印象が不穏な影として、脳裏に重ねて焼き込まれていた。
(還れないこと)
 アスサは緩やかに高度を落とした。急激な疲れを感じていた。民家の屋根の角に向かって翼を開き、二度ほど羽ばたいて舞い降りた。
 アスサはそのまま動かなかった。夕刻の秋風がアスサの背を撫でるたび、艶のない毛羽立った翼が揺れた。
 最近の彼女は、長く飛ぶことが少なからず苦痛になっていた。山のねぐらから、ここまで飛べる機会は、もうあまり無いのかもしれない。他の鴉と同様に、アスサは未来というものをさほど意識しない生き物だったが、秋を経て冬を迎える季節にあって、餌の豊富なこの場所へ通う手段を失いつつある現実は、アスサに不穏な感覚を与え続けていた。
 頭上から、呑気な響きを帯びた声が降ってくる。くいとアスサが見上げると、二羽の仲間の鴉が、艷やかな羽を打ち振りながら、遥か高みからこちらを見ていた。アスサの事を気にかけているようだ。アスサが通る声を返すと、二羽は短く一声あげて、各々の方角へ去っていった。
(いい奴らだな)とアスサは感じた。(アスサもそろそろ食べ頃、と見えたかな)
 なんだか楽しくなってくる。
 アスサは、かつて仲間とともに啄んだ肉の味を、今ここに食するかのように記憶になぞった。それはいつの家族とも知れないが、アスサが産んだ子らの、成長した一羽の雌であった。仮にイリクと呼んでおこう。ある日、理由は分からないが、イリクはひどく傷ついた姿で山のねぐらへ戻ってきた。イリクは辛くも辿り着いたものの、杉の木の高い枝に落ちるように降下すると、そのまま動かなかった。不穏な空気の伝播に誘われるように、たちまち群れが集まって、周囲の杉の木の上から、イリクを輪と囲んでじっと見ていた。そこには忍び寄る死の影への畏怖と、背反する誘惑とがあった。アスサもまた、その輪の中にあった。
 やがてイリクは、そっと首をあげると、安らかな調子で一声を漏らした。ゆっくりと傾き、そして地へと落ちていった。
 一羽の仲間が、そっとイリクの傍に舞い降りた。じっとイリクを見つめ、幾度か首を振っては、イリクの降ってきた方を見つめた。そして再びイリクを見つめ、時々彼女の首筋に嘴で触れていたが、やがて上を向き、低い響きで一声啼いた。
 それを合図に、囲んでいた仲間らは次々とイリクの元に舞い降りた。そしてイリクの体に嘴を挿し込んでいくのだった。
 アスサは、まだ温もりを残す一片を呑み下しながら、深く自身に満ち渡る彼女の存在を、目を閉じて感じ取った。それは確かにそこにあり、遍く仲間たちの内にあり、そして未来へと繋がっているのだった。イリクは――ここに還ってきた。

 少し、元気を取り戻せたように感じる。
 かなり陽も傾いて、周りの仲間はみな山のねぐらに戻ったようだ。アスサはゆっくり翼を開くと、屋根の傾きに沿うように滑空し、速度を上げるや西の空へと舞い上がり、羽ばたいて行った。家々の屋根は彼方まで茜色に染まっていた。
 自分はもう春を見ることはないのだろう、とアスサは感じ取っていた。いつか――できれば雪の積もった朝に――こと切れて木から落ちている自分の姿を、アスサはありありと見た。真っ白にふんわり冷たい雪の布団の真ん中に、ぼすりと埋もれている黒い鴉の姿を脳裏に浮かべると、アスサは無性に嬉しくなった。
 それはできれば明け方前がよい。みんなが未だ起きないうちに、そっと落ちてしまおう。目覚めたばかりの若い子らに、できれば一番に見つけて欲しい。きっとみんな驚いて、そして喜んでくれるだろう。そしてアスサは永遠の、仲間のうちへと、還るのだ。
還る日に    蛮人S

人形の家
今月のゲスト:イブセン
添田唖蝉坊/訳

名著とか傑作とかいうものは、とかくその表題ばかり人の口に伝えられて、内容はどんな物やら知られずに終わることが多い。『人形の家』などもやはりその格で、表題だけは誰知らぬ者もあるまいが訳文の全部を読んだ人が幾らあろうか。そこでこの歌は、せめてそのおぼろな影法師だけでも広く世に知らせたいと思って、その粗筋をつまみ、その急所を掴んで作ったもので、殊に大切な文句はなるべく舞台で使うそのままの言葉が残してある。この歌さえよんでよく味わえば『人形の家』の原文はよまずとも、実地の興行は見ずとも、ほぼその意気は呑み込まれることになる。我らは今後続々この種の歌を世に広めたいと思っている。(唖蝉坊)
第一幕
うちの小鳥よ子雲雀ひばりよ、可愛かあい栗鼠りすよと名に呼ばれ、夫の愛を身に集め、三人みたりの子供と諸共もろともに、隠れんぼして戯むるる、若き母親若き妻、夫は銀行の支配人、お金は山ほど取れるとて、祝う今年のクリスマス、ノラはしあわせ果報者。

されどノラにも苦労あり。先年夫のヘルマーが、失業中の大病に、是非とも転地が必要と、医者は言えども金は無く、折から里のてて親も、同じく危篤のやまいにて、ノラは切迫せつなのこの場合、手形に父の名を書きて、借りし一千いつせん二百ドル、父は手形の日付より、二日の前に死にたれど、夫はそれゆえ平癒して、ついに今度の身の栄え。

それは善けれどの金は、父が呉れしとばかりにて、いっさい夫に内証の、借金持つ身の苦しさは、晴衣はれぎを作るその金も、利息にりてなお足らず、ひそかに写字の内職に、夜を明かしたる事もあり。

夫のためにそれ程の、心尽しが今聞けば、私書偽造とやら詐欺とやら、イヤイヤそんな事はない、愛のためにとした事が、どうしてそんな筈はない、とは思えども様々に、乱れ乱るるこの心。


第二幕
ノラの債主は恐ろしき、クログスタットと云う男。ヘルマーのため銀行の、やといを解かれし怨みにて、ノラの手紙の一件を、公け沙汰にすると云う。ヘルマーに宛てた威かしの、手紙が現に今そこの、郵便箱に入れてある。

ノラの親しき朋友の、クリスチーナはその昔、クログスタットと訳ありて、今こそ共に不幸の身、心も離れて居るものの、私が行って話せばと、ノラの救いに出でて行く。

ノラはそのに考える。もしも夫がこの事を、かの手紙にて知るならば、必ず奇蹟が現れる、その奇蹟とはほかじゃない、我を愛する夫ゆえ、必ず我を助けんと、自ら進んで何事も、身に引き受けて罪人は、この我なりと仰っしゃろう、それが見たくもあるけれど、また恐らく悲しくて。

とにかく今はの手紙、夫に見せてなるものか。幸い明日は約束の、仮装舞会の催しに、漁師の娘を踊るはず、その稽古にと云いなして、夫の手をば塞がんと、甘えた様に駄々をこね、明日の踊りの済むまでは、用事をしてはイケませぬ、手紙を見てもイケませぬ、無理に夫を頷かせ、強いてピアノを弾かせつつ、思えば今より我はただ、三十時間の命ぞと、気も狂乱に踊り出す。


第三幕
浮世の波の難船者なんせんしや、クログスタットとクリスチナ、手を取りあいて助けあい、再び元の幸福の、心になりて諸共もろともに、ノラを救うと勇み立つ。それとも知らずノラはまた、踊り衣装の派手やかに、美の塊と誉められて、夫に連れられ帰り来る。

今は踊りも済みたれば、ヘルマーは手紙を開き見る、ノラは身も世もなき思い、死ぬる覚悟で逃げんとす。ヘルマーはそれを呼びとめて、おお偽善者よ嘘つきよ、なおその上に罪人つみびとよ、汝のためにこの恥辱、我もかくては共犯の、疑い受くる恐れあり、これが年頃いたわりて、愛せし妻のお陰かと、思いの外の憤り、ノラは呆れて言葉なし。

そこにクログスタットより、またも手紙を送りくる、ヘルマーは急ぎ読みくだし、打って変わって『おうノラよ、私はこれで助かった。これ見よ彼は悔悟かいごして、お詫びをすると書いてある。さっきの事はホンの夢、この証文を焼き棄ててしまえばすべて事は済む。汝の罪は許した』と、言えどもノラは喜ばず、ツイと彼方に寝室に、りて静かに人形の、衣装を脱ぎて出で来たり。

『お聞き下さいわたくしは、今という今ハッキリと、初めてこの目が醒めました。私は元は父親の、人形ッ子でありました。それからあなたに引き取られ、人形妻になりました。あなたはホンの慰みに、私を愛して下さるし、私はあなたの意を迎え、芸当ばかりして居るし、そして子供は順次じゆんつぎに、私の人形になりました。これがあなたとわたくしの、結婚というものでした。それで私は今日限り、モウおいとまを貰います』

これを聞きたるヘルマーは、『狂気の沙汰だ許さぬぞ。家も夫も子も棄てて、出て行こうとは何事ぞ、女の身として一番の、神聖の義務を忘れたか』
『イイエ、忘れは致しません。夫に対し子に対し、義務はあるかも知らねども、それより前にわたくしは、我が身に対する義務がある、女は何より第一に、人妻であり母である、それも誠か知らねども、私は何より第一に、人間であると思います。私は今夜ながの年、仰ぎ望んで信じたる、奇蹟のついに現われず、あなたが今までわたくしの、思った人と違うのを、初めて知って恋も醒め、愛も情けも消えました』

ヘルマーはさすが苦しくて、『愛する者のためならば、貧も苦痛も厭わねど、男が名誉を犠牲には、供しはせぬ』と弁護する。ノラは平気で『名誉をも、何百万の女らは、みんな犠牲にして居ます。とにかく今は私も、この目がハッキリ醒めました。ああ八年というものを、他人のあなたとともに居て、そして三人みたりの子までし、だいじな私の一生を、無駄にしたかと気がつけば、我と我が身を引き裂いてしまいたい様な気がします。サァこの指輪も返します、これでスッカリ済みました』
さようならば、と出でて行く。