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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第48回バトル 作品

参加作品一覧

(2019年 7月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
ラブクラフト/ 蛮人S
3000
3
横光利一
2508

結果発表

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ご当地アイドルが地域の平和をも守ろうかという話・序
サヌキマオ

 ほんの数分前までは真っ青な空だったのが、山向こうから流れてきた黒雲が急速に渦を巻き始めた。なるようになれ、と峠の高みまで来ると、幸いにも行先の空はまだ晴れている。まだ持ちそうだ。
 青々とした稲の葉がアスファルトの道の両側に広がるところに、ばらばらと人の姿が見える。人は独りか二人、多くとも四人位で点在していて、皆二十代か三十代くらいの男性で、虫取り網を持っている。先週ぐらいからこの見知らぬ人の影は通学の行き帰りに見かけていて、見知らぬ車が走るだけで町会の連絡網が機能するこの集落はちょっとしたパニックになっていた。
「なんでもアイドルの子のね」
 メミ子の母は困ったような声で云うのだった。
「なんやらアイドルの子が、移動中に連れていたペットの猫がサービスエリアで逃げよったいうんをその、SNSっていうの? で公開したら、ファンの人たちが探しに出てきよんのよ」
「へぇ」
 そうするとこの、ざっと見ただけでも合わせて方々に百人はいるであろう男どもは、そのアイドルの猫を探しに来た手下どもということか。
 白戸メミ子はそんな盲情のよくわからない十八歳である。正確には眼観子と書くのだが、面倒なので高校のテストにさえも「メミ子」と書く始末だ。
 ど田舎の稲作地帯。母が「土地だけはただみたいなもんやし」と切口上にいうこの地だからこそ、百人がバラバラに探しても埒が明かないに決まっている。そろそろ町内会もよそ者対策に本腰を入れてくることだろう――あ。
 猫だ。
 道すがら、アスファルト脇のガードレールの向こう。用水路を隔てた水田のあぜ道で、人ほどもある大きさの蜘蛛が二本足で立って――つまりは、蜘蛛男だ。糸で絡めた黒い猫をぶら下げている。隣では牛――いや、牛男が拍手をしている。「いや、蜘蛛男さん、さすがでやんすね!」みたいな。
 はーあ。
 そうして捕まえた猫を受け取ったアイドルとやらは、どんな顔をして受け取るんだろうな。
 間が良く家に帰り着いた途端に雨が降り出した。雨粒は土を抉るほどの音を立てている。台所に行くと母がテーブルについて暇そうにテレビを見ている。
「進路面談やったっけ」
「そう」
「けっきょく、裏のサービスエリアか」
「やけん、サービスエリアは嫌やて」
 裏のサービスエリア、というのは、集落の裏に通った高速自動車道のサービスエリアのことだ。ここの食堂で働くことを指すが、ほとんど全員、地元の主婦が働いている。
「嫌って、みんな知り合うとるし、メミちゃんなら可愛がってくれるやろうが」
「そのまんま一生ラーメン作って終わりそうやん」
「他になんかあったん」
「上大野島のステラ」
「わぁ。あっこも知り合いがいっぱいじゃね」
 ステラというのはメミ子の母方の祖父母の住んでいる上大野島唯一のスーパーマーケットだ。
「そうすっと毎日私かお父さんがフェリーまで送ってかんと――あぁ、じいちゃんとこに住むん?」
「まだステラで働くとも云うてないし!」
「その前にメミちゃんあんた、自動車の免許をとらんとね、どこへいくんも」
「これから期末試験やけえ、そいが終わってもえかろう」
「みんなそう云うんよ。で、一斉にえらぁ混むんじゃ――あ、あんたいっそのこと免許合宿でも行ってみる? 秋田とかなんか、折込チラシあったんよ」
「面談の話やけど」
「先生、なんて?」
「大学受験せんかて」
「あんたがしたかったらそれでもええけど。どこ行くん?」
「どこ行ったらええんかねぇ」
「それこそ自分で決めにゃあいけん問題よ。人に相談はいくらしてもいいけど、答えは自分で出さんと」
「先生は、数学科どうや、っていうんけど」
「安直よなぁ。メミちゃんの成績がええだけやん。数学」
「ほうなんよ、数学科って全然イメージわかん」
 どぉーん、と家が震えた。閃光もあった。雷の多い地域ではあるが、だしぬけに来られると流石に驚く。
「近いな」
 思わず身をかがめた母が蛍光灯を見上げている。蛍光灯も雷に合わせて瞬いたのだ。
 それにしてもよく降っている。今日、帰りに見たアイドルのファンたちは今頃どうしているだろうか。特に面識もない女の子の猫を探しに来た人たち。猫は蜘蛛男の網にとらわれて、
 蜘蛛男。
 蜘蛛男!?
 あ、あのね!? お母さん、今日私――
 とは言い出せなかった。アイドルファンの男たちが大挙している状況下で繰り出せるような冗談でもなかったからだ。でも、確かに見たのだ。蜘蛛男とか牛男とかは百歩譲って着ぐるみとか、特撮の衣装である可能性もあるかもしれない。でも、その後で調べたのだ。お母さんの断片的な情報だけでもすぐにSNSで検索をかけることができた。その「なみなみーず」というアイドルの一人である「美波南」本人がネットにあげているという猫も、帰り道で見かけたような真っ黒な猫だったのだ。

 というようなことが、あったなぁ。
「どういうことです?」
 おっと、独り言が洩れていた。いえ、なんでもないです、とメミ子は新しく上司になる――ケラさんだっけ? にニッコリして、あらためて目の前のホワイトボードに目を凝らした。

 桜提市ご当地アイドル「ささげ☆乙女組」結成イベント会議!

 おかしいな。
 私、どうにかこうにか桜提市役所に就職したんじゃなかったっけ。
 それともフジフォルテの中の服屋さんだったっけか。
「じゃあ、白戸、白戸眼観子さんは……そのままメミ子でいいや。イイダコピンクとして活躍してもらうから」
 イイダコピンク。
「五島祐希さんはキャッスルブラック。ゆっきーかな。順当に」
 キャッスルブラック。
「身延桃里さんはダルマレッド。あなたはももりん。ということはイイダコピンクが身延山のほうがいいかもしれないので、えーと、白戸さんとチェンジにしましょう」
 だるまれっ、ど。
「あ、それとも、白戸さんだからなんとかホワイトに……あ、でも、ダルマレッドは市の観光的に外せないからなぁ――」
 計良さん(胸のネームプレートを見た)はしばらくボールペンの尻を齧って考えていたが、そうそう集中力の続くタイプではないらしく「よし、あなたはなんとかホワイトにしよう。あと二人くらい来るからそれから考えよう」とあっけらかんと云ってのけた。係長とはいうものの、この人、おそらくは私と同じ世代、せいぜい二つか三つ上だよなぁ、とメミ子は思う。
「それで、これからのことは重要機密です。この部署、桜提市地域観光課アイドル係は、地元文化産業のPRのみならず、はいコレ」
 PPC用紙に刷られたプリントが手渡される。
 牛男。
 蜘蛛男。
「そうです。最近皆さんの近くでも噂になっていると思いますが、プリントにある通り、牛男がガイヨン、蜘蛛男がスパイドス、あとこの鳥、長元坊って鳥なんだけど、その長元坊男がチョウゲボン」
 つまり、と課長は一息置いた。
「アイドル係は、毎日ご当地アイドルとして地域振興を図るとともに、この地を支配せんとする悪の組織『ドワルヤン』を秘密裏に殲滅する指名も負っているのです!」
 あぁ、これかぁ。
 ちょっと前に、東京に出ていった友達に聞いたことがある。飲み屋さんのアルバイトで、時給二千円もらえるからって喜んで応募してみたらすごくエッチな接待をさせられそうになった、とか。
 それだ。
「この田舎にしては割のいい仕事じゃね」ってお父さんもお母さんも喜んでくれたのに。
 メミ子、現実にぐったりする。
 入庁三日目のことである。
ご当地アイドルが地域の平和をも守ろうかという話・序 サヌキマオ

ニャルラトホテプ
蛮人S/訳
ラブクラフト/原作

 ニャルラトホテプ……這い寄る混沌……
 僕は最後の人間なのだ……語ろう、空虚に向かって……

 始まったのは、はっきり思い出せないが、数ヶ月前の事だった。何もかもが、恐ろしい緊張にあった。政治社会の大変動の時がくるまで、恐しい身の危険への、異様な不安は膨らみ増して行った……広く遍くそこにある危機、最も怖ろしい夜の幻像の中でしか想い浮かばないような、そんな危険を。僕は思い出す、憂いに青ざめて歩き回っていた人たちを。そして誰もが、敢えて話したくもないのに、聞いた事も認めたくないのに、繰り返される警句と予言の囁きを。地上は怪物じみた罪の意識を纏って、星の間の淵から吹きつく冷たい流れは、人々を暗く、孤独な場所に震わせていた。季節はその配列を、暴虐に変えられていた――秋の暑さは恐ろしく続き、そして誰もが感じていた――世界が、恐らく宇宙が――僕らの知っていた神々やその力による統治から、未知の神々の手の内へ、渡ってしまったのだという事を。

 そして、ニャルラトホテプはエジプトを出た。
 彼が何者だったのか、誰も語り得るものではない、だが彼は古来の血族で、ファラオにも似た姿であった。エジプトの民は、彼を見るや、なぜだか分からないまま跪いた。彼は言った。我、二千七百年の漆黒の裡より立ち上がりしと。そして、この星に在らぬ地よりの伝言を承ったと。文明の地へ入ると、黒ずみて痩躯なる不吉のニャルラトホテプは、硝子と金属の奇妙な器具を買い求めては、なお怪しげな装置へと組み立てていった。彼は科学――電気学と心理学について雄弁に語り、見る者の言葉も失わせるほどの能力を博覧に供しては、その評判をさらに大きく膨らませた。人々は、ニャルラトホテプを見るように薦め合い、そして恐ろしげに身を震わせた。ニャルラトホテプの行くところ、安息の夜は絶えていた。わずかな時間も、悪夢のもたらす悲鳴に引き裂かれた。かつて悪夢の悲鳴というものが、こんな公共の問題になる事があったろうか。いまや賢明だった人々の多くは、こう願っていた。僅かな時の合間にでも、彼らの眠る事を赦されますよう。そしてあの街ごとの悲鳴が、少しでも夜を妨げませぬよう。橋の下を流れる、緑の水面に微かに揺れる、哀れみに蒼ざめた月を……病んだ空を割く塔の影を……

 ニャルラトホテプが、僕の街に来た時の事は覚えている。古く、大きく、そして数知れない犯罪に満ちた、酷い街だった。友達はニャルラトホテプについて、その駆り立てる魅力と啓示について、僕に語ってくれた。そして僕は、彼の極限の謎を探ってやろうと興奮したのだ。友達は言った。それは君のどんな熱狂も空想も及ばない、恐怖と、そして感動を与えるものだと。暗い部屋のスクリーンに投影されるのは、ニャルラトホテプの放つ予言に他ならず、そのスパークの閃光の中には、かつて人間の絶対に得られなかったものがあり、それは目で確かめる他にないと。そしてニャルラトホテプを知った者はみな他人と違った光景を見たと、噂に仄めかされると。
 それは暑い秋の夜、僕は落ち着きのない群衆と一緒に、ニャルラトホテプを見に行った。暑苦しい夜を抜け、終わりない階段を上り、息の詰まるような部屋へと入った。
 そしてスクリーンへの投影に僕は見た。廃墟の中の、フードを被った人影たち、黄色い悪魔の顔たちが、倒れた遺構の裏からじいっと覗っていた。そして、漆黒と戦う世界――究極の宇宙から来る破壊の波に向かって――光を減じて冷たくなった太陽の周りに、渦巻き、撹拌し、もがき抗っていた。そのとき、観客の頭の周りに驚くようなスパークが溢れ、髪の毛が真っ直ぐ立ち上がった。言葉では言えないグロテスクな影が現れ、頭の上に覆い被さった。僕が――他の奴らよりは冷静でより科学的だった僕が――「イカサマ」と「静電気」に対する、抗議の声を口の中に震わせたとき、ニャルラトホテプは僕らをみんな外へ追い出したのだ。幻惑の階段を降り、暑く、湿った、人気のない真夜中の通りまで。
 怖くなかったぞ――僕は大声で叫んだ。全然、僕は怖くなかった、と。そして他の者たちも、僕と一緒に慰め合いの言葉を叫んだ。僕らは互いに、街はまったく今までどおり、まだ生きているという事を確かめ合った。そして――電灯が消え始めた時にも、僕らは互いに何度も何度も悪態をつき、そして互いの見せた奇妙な顔に笑っていた。

 そのとき僕らは、緑色を帯びた月から、何かが降り落ちて来るのを感じたと思う。僕らは、その光を頼りに歩き始めていた。僕らはいつしか、ただ好奇のままに進む隊列の形を成していく。まるで行き先など分かっているかのように、それが何なのか、あえて考えもしないままに。
 見ると、歩道は敷石が緩み、草に置き換わっている。わずかな一本の錆びた金属線が、そこに路面電車の走っていた事を示していた。もう一度見ると、電車はそこにあった、ぽつんと一両、窓は破れ、朽ち果てた姿で転がっていた。地平線を見渡すと、川傍にあった三番目の塔は見つける事ができず、二番目の塔のシルエットが天辺にぼやけている事に気付いた。
 そして僕らは、何かに描かれていくように、それぞれ別々の方向へと、幾つかの細い行列へと分かれて行った。列の一つは、左側の狭い路地へと姿を消し、衝撃的な苦悶の声のエコーだけを後に残した。他の一つは、狂った笑いを撒き散らしながら、雑草に埋もれた地下鉄の入り口へと行進して行った。
 僕らの列は、ひらけた場所の方へと吸い込まれて行く、いまや僕は、暑い秋とは違う冷気を感じていた……暗い湿原の上に歩み入るにつれて僕らは目にする、周りを囲む、邪悪な雪の煌めき、地獄の月の輝き、無軌道に揺れる、形容しがたい雪のようなものは、一つの方向へと漂っていた。そこには光が壁のように集まる中に、漆黒と化した裂け目が横たわる。裂け目に向かって少しずつ、夢見るように歩くにつれて、列の影は次第にまばらになって行くように見えた。僕はぐずぐずと後に残ろうとする。緑色に光る雪の、黒い裂け目が怖ろしかった……仲間たちの消え失せる時、不穏な泣き叫びの響きが聞えた気がする……でも、僕の抗える力はわずかだった。僕はもう、先に旅立った者に誘い招かれたかのように、震え、怖れるまま、半ば浮かび漂う。そこは目に見えぬ、想像を絶したものたちの逆巻く渦流のただ中、吹き溜まった山の狭間。

 五感に塗れて叫びをあげ、言葉も損なう狂乱、ただ知られていたというだけの神々。病んだ繊弱な影は、手ではない掌の内に悶え苦しみ、そしてめしいたように渦を巻く、腐った創造物の凄惨な夜の過去、かつて都市であった爛れた世界の屍骸たち、陰風は淡い星々を磨しては暗くちらつかす。三界にわたる、怪物じみたものどもの茫漠とした幽霊――半ば薄らいで見える不浄の寺院の柱列は、宇宙の奈落の名も無き岩の上より、光と闇の天球たちの上層の、幻惑の真空へと到達する。
 そしてこの、世界のおぞましき墓場を通るは、くぐもって響く、狂おしい太鼓の音、細く単調な、冒涜のフルートの咽び――忌まわしの鼓と笛は、理解も及ばぬ、光無き嚢胞の房室から時を越えて来る。そこに在るのは……常軌を逸する巨大のものたち――ぎく、しゃくと、緩慢に舞う、陰鬱の、究極の神たち――眼もなく、声もなく、思考も持たぬ異形らの、その魂は……ニャルラトホテプ。
ニャルラトホテプ ラブクラフト

今月のゲスト:横光利一

 雨がやむと風もやんだ。小路の両側の花々は倒れたまま地に頭をつけていた。今迄揺れつづけていた葡萄棚の蔓は静まって、垂れ下った葡萄の実の先端からまだ雨の滴りがゆるやかに落ちていた。どこからか人の話し声が久し振りに聞えて来た。
「まア、人の声って懐しいものね」と妻は床の中から云った。
 妻はもう長らく病んで寝ていた。彼女は姑が死ぬと直ぐ病いになった。
 遠くの荒れた茫々とした空地の雑草の中で、置き忘れられた椅子がぼんやりと濡れた頭を傾けていた。その向うの曇った空の下では竹林の縁が深ぶかと重そうに垂れていた。
 私は門の小路の方へ倒れた花を踏まないように足を浮かせて歩いてみた。傾き勝ちな小路の肌は滑かに青く光っていた。その上を細い流れが縮れながら虫や花弁を浮べて流れていた。すると私の足は不意にすべった。私は乱れた花の上へ仰向きに倒れた。冷たい草の葉がはッしと頬を打った。雨が降るといつも私はそこで辷るのだ。
 格子の向うで妻が身体を振って笑っていた。私は馬鹿げた口を開けて着物を着返えるために家の中へ這入った。
「どうも早や、参った、参った」
「あなたの、あなたの」そう云うと妻は笑ったまま急に咳き出した。
「俺が悪いんじゃないぞ。花めが悪いんだ」
「あなたが周章てるからよ」
「俺は花を踏まないように気をつけてやったんだ」
「あの格好ったらなかったわ」
 私は芝居の口調で、
「いやいや、」と云った。
「もう一度辷ってらっしゃいな」
 私は黙っていた。
「まるで新感覚よ」
「生意気ぬかすな」
 私は光った縁側で裸体になった。病める妻にとって、静けさの中で良人の辷った格好は何よりも興趣があったに相違ない。初めの頃は私が辷ると妻の顔色も青くなった。それがだんだんと平気になり、第三段の形態は哄笑に変って来た。私達は此の形態の変化を曳き摺って此の家へ移って来た。
「赤ちゃんがほしいわ」と、突然妻が云い出すことがある。
 そう云い出す頃になると、妻は何物よりも、ユーモラスな良人の辷った格好から愛すべき風格を見附け出す。その次ぎの第四の形態は何か。私は次ぎに来る左様なことを考えるものではないと考える。
 次の日の朝雲は晴れた。私は起きると直ぐ葡萄棚の下へ行って仰いでみた。葉の叢から洩れた一條の光りが鋭く眼を貫いた。私は顔を傾け変えた。露に濡れた葡萄の房が朝の空の中で克明な陰影を振りかざし、一粒づつ満腔の光りを放って静まっていた。私は手を延ばすと一粒とった。
「うまい」
 床の上へ起き直った妻が、
「私にもよ、私にもよ」と云って手を差し出した。
「喜べ。うまいぞ」
 私は露で冷めたくなった手に一房の葡萄を攫んで妻の床の傍へ持っていった。
「あらあら、重いわね」
「ベテレヘムの女ごらよ。ああ汝の髪は紫の葡萄のごとし」
「もう直ぐ虫がつくから、今とらないと駄目だわね」
「汝は汝の床もて我を抱け。我の願いを入れよ」
「まア、おいしい。口がとれそうよ」と妻は云った。
 見ると、妻の髪に白い韮の花がこの朝早くから刺さっていた。
 私はまた葡萄棚の下へ戻って来た。それから井戸傍で身体を拭いた。雇ってある老婆が倒れた垣根の草花を起していた。
 私はふと傍の薔薇の葉の上にいる褐色の雌の鎌切りを見附けた。よく見ると、それは別の青い雄の鎌切りの首を大きな鎌で押しつけて早や半分ほどそれを食っている雌の鎌切りだった。
「なるほど、これゃ夫婦生活の第四段の形態だ」と私は思った。
 雄は雌に腹まで食われながらまだ頭をゆるゆる左右に振っていた。その雄の容子が私には苦痛を訴えている表情だとは思えなかった。どこかむしろ悠長な歡喜を感じた。その眼の表情には確に身を締めつけられるような恍惚とした喜びがあった。婆やが曲った腰つきで箒を持って無花果の樹の下から私の方へ歩いて来た。
「おい、婆さん。一寸来て見な」と私は云った。
 婆やは私の指差している鎌切りを覗き込むと、
「ははア」と云った。
「これ、何んだか知ってるかね」
「旦那さま、これゃ二疋ですな」と老婆は急に大きな声を出した。
「そうだ」
 すると老婆はまた「あらッ」と声を上げた。
「何んだ?」
「これゃ旦那さま、食われていますのじゃ」
「それゃそうさ」
「ははア。これゃ、旦那様、食われておりますのじゃ」
「食っているのは雌なんだよ。鎌切りの女は亭主がらなくなると食い殺すんだ」
「ほんとうでございますか」
「本当さ」
「まア奥様、来て見なさい。憎い奴がおりますわ。自分の亭主を食いやがって、これゃッ、これゃッ」と老婆は云って足で地を打った。
 私は身体を拭きながら無花果の樹の下へ来た。無花果は厚い葉の陰から色づいた実を差し出していた。不気嫌そうに栗のいがは膨れていた。
 私はまだ鎌切りに心から腹を立てているらしい老婆の容子が面白かった。彼女は二十台に良人に別れた。それから四十年、独身で来ながらもその間何をして来たか分らなかった。彼女は今も烈しい毒を体内に持っていた。その老婆が亭主を食ったと云うので雌の鎌切りに必死に腹を立てているのである。
 暫くすると、老婆が箒を持ったまま私の傍へ来た。
「旦那さま、殺してやりましたわ」
「食って了ったか?」
「食って了いましたよ。すっかり食いました」
「そうか」
「憎ッくい奴でございますな。あんな奴は、ひどい目に合わしてやりませんと腹が立ちますよ」
「食われている奴は喜んでいたんだぜ」
「冗談を云いなさんな」
「女に食われたら誰だって喜ぶさ」
「へへへへへへ」と老婆は笑い出した。
 彼女は私の言葉を下品な意味にとったと見えた。
 彼女は直ぐまた妻のいる方へ引き返して行くと、
「奥さん、あの旦那さまは油断なりませんよ。なかなか、どうしてあなた」
 そんなことを云っている老婆の声が耳に這入った。
 私はそのまま裾を捲って露の溜っているきらきらした雑草の穂の中へ降りて行った。
 微風が朝の香りを籠めて草の上を渡って来た。草玉が青い実を静に搖った。数列の葱が露に輝きながら剣のように垂直に立っていた。
「おーい」
「はーい」と妻の低い声がした。
「無花果、らないか」
「はーい」
 遠くの草の中で、幼い子供が母の云うことをよくきいている清らかな姿が見えた。