ご当地アイドルが地域の平和をも守ろうかという話・序
サヌキマオ
ほんの数分前までは真っ青な空だったのが、山向こうから流れてきた黒雲が急速に渦を巻き始めた。なるようになれ、と峠の高みまで来ると、幸いにも行先の空はまだ晴れている。まだ持ちそうだ。
青々とした稲の葉がアスファルトの道の両側に広がるところに、ばらばらと人の姿が見える。人は独りか二人、多くとも四人位で点在していて、皆二十代か三十代くらいの男性で、虫取り網を持っている。先週ぐらいからこの見知らぬ人の影は通学の行き帰りに見かけていて、見知らぬ車が走るだけで町会の連絡網が機能するこの集落はちょっとしたパニックになっていた。
「なんでもアイドルの子のね」
メミ子の母は困ったような声で云うのだった。
「なんやらアイドルの子が、移動中に連れていたペットの猫がサービスエリアで逃げよったいうんをその、SNSっていうの? で公開したら、ファンの人たちが探しに出てきよんのよ」
「へぇ」
そうするとこの、ざっと見ただけでも合わせて方々に百人はいるであろう男どもは、そのアイドルの猫を探しに来た手下どもということか。
白戸メミ子はそんな盲情のよくわからない十八歳である。正確には眼観子と書くのだが、面倒なので高校のテストにさえも「メミ子」と書く始末だ。
ど田舎の稲作地帯。母が「土地だけはただみたいなもんやし」と切口上にいうこの地だからこそ、百人がバラバラに探しても埒が明かないに決まっている。そろそろ町内会もよそ者対策に本腰を入れてくることだろう――あ。
猫だ。
道すがら、アスファルト脇のガードレールの向こう。用水路を隔てた水田のあぜ道で、人ほどもある大きさの蜘蛛が二本足で立って――つまりは、蜘蛛男だ。糸で絡めた黒い猫をぶら下げている。隣では牛――いや、牛男が拍手をしている。「いや、蜘蛛男さん、さすがでやんすね!」みたいな。
はーあ。
そうして捕まえた猫を受け取ったアイドルとやらは、どんな顔をして受け取るんだろうな。
間が良く家に帰り着いた途端に雨が降り出した。雨粒は土を抉るほどの音を立てている。台所に行くと母がテーブルについて暇そうにテレビを見ている。
「進路面談やったっけ」
「そう」
「けっきょく、裏のサービスエリアか」
「やけん、サービスエリアは嫌やて」
裏のサービスエリア、というのは、集落の裏に通った高速自動車道のサービスエリアのことだ。ここの食堂で働くことを指すが、ほとんど全員、地元の主婦が働いている。
「嫌って、みんな知り合うとるし、メミちゃんなら可愛がってくれるやろうが」
「そのまんま一生ラーメン作って終わりそうやん」
「他になんかあったん」
「上大野島のステラ」
「わぁ。あっこも知り合いがいっぱいじゃね」
ステラというのはメミ子の母方の祖父母の住んでいる上大野島唯一のスーパーマーケットだ。
「そうすっと毎日私かお父さんがフェリーまで送ってかんと――あぁ、じいちゃんとこに住むん?」
「まだステラで働くとも云うてないし!」
「その前にメミちゃんあんた、自動車の免許をとらんとね、どこへいくんも」
「これから期末試験やけえ、そいが終わってもえかろう」
「みんなそう云うんよ。で、一斉にえらぁ混むんじゃ――あ、あんたいっそのこと免許合宿でも行ってみる? 秋田とかなんか、折込チラシあったんよ」
「面談の話やけど」
「先生、なんて?」
「大学受験せんかて」
「あんたがしたかったらそれでもええけど。どこ行くん?」
「どこ行ったらええんかねぇ」
「それこそ自分で決めにゃあいけん問題よ。人に相談はいくらしてもいいけど、答えは自分で出さんと」
「先生は、数学科どうや、っていうんけど」
「安直よなぁ。メミちゃんの成績がええだけやん。数学」
「ほうなんよ、数学科って全然イメージわかん」
どぉーん、と家が震えた。閃光もあった。雷の多い地域ではあるが、だしぬけに来られると流石に驚く。
「近いな」
思わず身をかがめた母が蛍光灯を見上げている。蛍光灯も雷に合わせて瞬いたのだ。
それにしてもよく降っている。今日、帰りに見たアイドルのファンたちは今頃どうしているだろうか。特に面識もない女の子の猫を探しに来た人たち。猫は蜘蛛男の網にとらわれて、
蜘蛛男。
蜘蛛男!?
あ、あのね!? お母さん、今日私――
とは言い出せなかった。アイドルファンの男たちが大挙している状況下で繰り出せるような冗談でもなかったからだ。でも、確かに見たのだ。蜘蛛男とか牛男とかは百歩譲って着ぐるみとか、特撮の衣装である可能性もあるかもしれない。でも、その後で調べたのだ。お母さんの断片的な情報だけでもすぐにSNSで検索をかけることができた。その「なみなみーず」というアイドルの一人である「美波南」本人がネットにあげているという猫も、帰り道で見かけたような真っ黒な猫だったのだ。
というようなことが、あったなぁ。
「どういうことです?」
おっと、独り言が洩れていた。いえ、なんでもないです、とメミ子は新しく上司になる――ケラさんだっけ? にニッコリして、あらためて目の前のホワイトボードに目を凝らした。
桜提市ご当地アイドル「ささげ☆乙女組」結成イベント会議!
おかしいな。
私、どうにかこうにか桜提市役所に就職したんじゃなかったっけ。
それともフジフォルテの中の服屋さんだったっけか。
「じゃあ、白戸、白戸眼観子さんは……そのままメミ子でいいや。イイダコピンクとして活躍してもらうから」
イイダコピンク。
「五島祐希さんはキャッスルブラック。ゆっきーかな。順当に」
キャッスルブラック。
「身延桃里さんはダルマレッド。あなたはももりん。ということはイイダコピンクが身延山のほうがいいかもしれないので、えーと、白戸さんとチェンジにしましょう」
だるまれっ、ど。
「あ、それとも、白戸さんだからなんとかホワイトに……あ、でも、ダルマレッドは市の観光的に外せないからなぁ――」
計良さん(胸のネームプレートを見た)はしばらくボールペンの尻を齧って考えていたが、そうそう集中力の続くタイプではないらしく「よし、あなたはなんとかホワイトにしよう。あと二人くらい来るからそれから考えよう」とあっけらかんと云ってのけた。係長とはいうものの、この人、おそらくは私と同じ世代、せいぜい二つか三つ上だよなぁ、とメミ子は思う。
「それで、これからのことは重要機密です。この部署、桜提市地域観光課アイドル係は、地元文化産業のPRのみならず、はいコレ」
PPC用紙に刷られたプリントが手渡される。
牛男。
蜘蛛男。
「そうです。最近皆さんの近くでも噂になっていると思いますが、プリントにある通り、牛男がガイヨン、蜘蛛男がスパイドス、あとこの鳥、長元坊って鳥なんだけど、その長元坊男がチョウゲボン」
つまり、と課長は一息置いた。
「アイドル係は、毎日ご当地アイドルとして地域振興を図るとともに、この地を支配せんとする悪の組織『ドワルヤン』を秘密裏に殲滅する指名も負っているのです!」
あぁ、これかぁ。
ちょっと前に、東京に出ていった友達に聞いたことがある。飲み屋さんのアルバイトで、時給二千円もらえるからって喜んで応募してみたらすごくエッチな接待をさせられそうになった、とか。
それだ。
「この田舎にしては割のいい仕事じゃね」ってお父さんもお母さんも喜んでくれたのに。
メミ子、現実にぐったりする。
入庁三日目のことである。