井祝町奇譚[R-1]remix
サヌキマオ
なんだか最近そぞろ虫のうづきもなく、しかたなく、さがしにいくことにした。
そもそも予約の取れない性分で、どうも当日思いついて、なんとなくいってみて、駄目でしたー、ということのなんと多きことか。でも、まぁ、ジゴージトクというやつです。予約を取れない性分が悪い。でも、予約すると前日に急にいきたくなくなるぢゃない。
そういうそぞろ虫が、いない。どこにもいない。
潰して食ったか便所に捨てたかどうも動機がみつからない。動機の無い旅は息切れする。いづれにせよドウキとイキギレはワンセットらしいですよ同期と行きギレ。銅器と生き布。どちらも呪いと怨念のにおいがします。
しかたなし。こうしてとどまるもえうなし、中野に行こうか図書館で寝よか。しかしこうしているうちにふと思い出す。思い出したのである。なんでこう思い出すか。あなたあたしをパカにするあるか。
自分にとって大事なことというのは喧騒にあきれ、つかれ、いやんなり、にげたくなり、どうしょーむなくなったときにふと開ける。すべてを失って「もう一度やり直そう」と思うらしい。
そうだ、イノリ町にいこう。いくのだ。
旅に出ようという気持ちは、そう往くべくして往くことになるらしい。普段十円二十円電車代をケチって嬉しそうな人物がこういうときは六百円でも七百円でも出す(そして、レニングヤードへ行く)わけで、行くとなったら早いものです。ええ。いいんです。いいんだと上沼相談員も云うてはる。
――で、どうやって往くんだったか子、イノリ町。
東京八百八町、駆け抜けるにはメトロに限る。あれ往ってこれ往って、ここの筋からこっちに乗り換える。江戸城の石山仙道駆け抜けてヒイコラパフューム、六月のじっとり気圧もなんのそのだ。電車降りて、階段のぼって降りてのぼって降りて、次の電車、次の電車とやっていくうちに多摩のやまなみから汐の香よ月島よ。山から海へ、路地から都市へ。東京のメトロは国三つ越えて、はてさて、イノリ町はここぞに、ややどこぞに。
イノリ町、いのり島、井祝町。東京都港湾特区井祝島。島だった。そういや島だった。島の前は海だった。この辺の歴史はおいおい遡ることになろうが、まぁ、それはそれで、成り行きである。人生成りゆきである。井祝島も成りゆきの島だ。東京湾の州に、州に、ぼんやりと浮かんでいたが港側から橋がかかった。埋め立てられた。スーパー玉蘭ができた。そう、島とTOKIOの間にはスーパー玉蘭がある。高度経済成長という酔い戻しの時期に、島と島との橋の上におっ建てたスカポンタン、ボケナス、しゃらくせえ野郎だ玉田一郎太。スーパー玉蘭の創業者である。
井祝島と浜を埋めた広い道路だ。昔は占領軍の枚挙にいとまなく娼館を軒並み建てたとか、休日ともなると米軍の男どもが山ほどジープに乗ってやってきたとか、そうしてまもなく瘡っかき、お国のためよと集められた品川女郎、吉原のくず星ども、みんなどうしたやら。用済みとなって橋のこちらで現地解散になったかもしれぬ。病気に動けず海に帰ったやもしれぬ。戦後まもなくにぎわって、すたれて、建物だけがずらーりぞろり。からっぽう、の、楼だけが立ち並んだ。
玉田一郎太、もともとは大正天皇の御車だったというが判然としない。本人がそうだといっていたわけでもないが、なんとなくそういうことになっている。で、目をつけた。橋の向こうはまァだ瘡の毒が回っているに相違ない。しかし、だがしかし、いづれここに店を開いておかばなんかなんじゃない。そうして数日後道路の真ん中に縄を張って、小屋を建てて、そのまま居ついてしまった。そのまま居つくくらい人が通らなかったのだとすれば、浅草の観音はんも「このへんにいてよろしい」と思ってくれたらしい。で、あちこちから物を拾っては、くすねては、ねだっては、よく売った。犬を置いておいたら番犬として役に立った。
まぁ、いづれ、出てくる。玉川も必要に応じてこれから出てくるだろう。それよりもイノリ島の、イノリ町の中に入らないと話が進まない。戦後まもなく拓かれた玉川商店は、昭和三十五年にはスーパー玉蘭となった。高度経済成長の流れに乗って、周りの街が見る見る立派になっていったからでもあるだろう。当時小金を溜め込んだ太一郎の妾が玉蘭だったからだ、とは人々の暗黙の事実であった、らしい。ちゃんとした根拠はない。
産業道路がスーパーのおかげで三車線になって、それから住宅が立つようになった。橋の下には漁船の群れ群れ、橋の欄干の変わりはずっとしばらくガードレールだけで、見下ろす運河は停まって見えた。水面には大きな魚が陽に腹を見せて浮かんでいる。どう見ても鯉だ。このあたり、汽水だったろうか。汽水にしても鯉にとっては辛いに相違ない。
雨である。煙って見えるのは水面に雨粒が無限の波紋を作るからだ。橋を渡りながら、筆者は銀座や中野や浅草にたむろする多くの人々の往来を思うのだ。観光の人、地元の人、爆弾を仕掛けようという人、レンタカーで人ごみに突っ込もうという人、おのおのそれなりの目的を持ってあまねく雑踏すれど、されど地面に、ガードレールに腰掛けて眺むればいかでかひとつの流水となりて、雷門から駒方のうんこビルへと流れ往く。
大川には凛坊島、東京湾には井祝島。井祝島にはどうにかこうにか、水を引いたという言い伝えがある。玉川兄弟が玉川上水を引いて江戸の人々は水に事欠かなんだが、それでもなほ度重なる埋め立てに水が届くも難儀だ。そこへどうにかして水を届けようという話、どうにかこうにか石造りで一本渡した。これもまたうまくいかず、水管を通すなば内の町も、うちの店もというので水管をいくら伸ばしても水が届かなくなってしまう。掘れば埋め立て地だもの。塩水しか出ないさァーとは道理。
だがされどめげずくじけず井戸となった。その実は上水の脇から地下にむぐらせたのだが、比較的うまくいった。いまでも幅たった三寸の水道管がやうやう井祝島の州丸稲荷の境内に続いている。それでも水、命の真水。井を祝ぐ島としてこれを井祝島と名づけた。いづれも埋立地である。
「柳さん、柳ヤコさーん」
ヤコは井祝中学校の教師である。もともとは大手マンモス大学の端の端、芸術学部なるところで美学などやっておったが、なんと芸術学部なのに英語の教員免許が取れたので。おそらくは文藝学科なるもののおかげだと思うが、そんな教員資格の端っこの、ギリギリのところでどうにかこうにかこつこつと教員免許を、取った。名の有る美大ならいざ知らず、ヤコのいた美大などは社会人になるに向けて「どうやって自力で生き延びるか」を教え込まれるような学校であった。とどのつまり、何も教えなかったのである。学生課の広々に比べれば就職活動課は隅の隅、段ボール箱で代替の効くありさま。
気づいてみれば大学もあとにし、井祝中学校1年B組"Hello Emily."と書いたところで、自分が英語教師であることにはっと気がついた。
ヤコが目の前からいなくなっていることに気がついた。そりゃあアレですよ。呼ばれてたぢゃない。診察室。ほぁれ、もう出てきた。
ノースリーブから流れ落ちる二の腕は百合の蕾のようで、肘窩に脱脂綿を留めている。やぁ、採血。スマホがなる。画面に「玉蘭」とある。
なに字数が尽きたァ? 構わねえ、止しちゃえ止しちゃえ――